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第5話

        ***  岩下のオフィスに呼ばれたのは、数日後のことだ。  社長室へ続く受付兼秘書室に入ると、デスクに詰めている静香(しずか)が顔を上げた。派手な化粧とボディコンシャスな服装がゴージャスな美女は、赤いくちびるをゆるめるようにニコリと笑う。 「お茶請けにと思って買ってきたんだけど。アニキが食べなければ、静香さんが持って帰ってください」  手土産を渡すと、紙袋の中を覗き込む。 「ありがとう。あとでお出しするわ」 「支倉さんは?」 「中にいるわよ」  内線をかけようと受話器に手を伸ばした静香が、ふいに視線を向けてきた。 「慎一郎くん、背が伸びた?」 「上げ底です。一センチ」  デートクラブの事務所で言われた通り、靴の底を少し高いものに変えたのだ。 「一センチ? 本当に? 不思議ね、バランス良く見えるわ。……ほんと、いいスタイリストがいるのね」  からかうような視線を受け、 「静香さんの思っている人じゃないですよ」  一応の弁明をする。静香はくちびるの端を歪め、内線をかけた。岡村の到着を連絡すると、丁寧に受話器を戻す。 「どんどん遠くに行っちゃうみたいね。社長のかわいいかばん持ちだったのに」 「精いっぱい背伸びしてますよ。上げ底するぐらいには」 「あらあら、謙遜謙遜。ヤクザじゃなかったら、結婚して欲しいぐらいだわ」  冗談とも本気ともつかないことを言った静香に促され、世間話もそこそこに社長室のドアをノックする。しばらく待つと、ドアが開いた。  出迎えに来た支倉と会釈を交わして中へ入る。  天井の高いオフィスは、いつ訪れても実際より広く見えた。  正面には横浜の街と海を眺められるハメ殺しの大きな窓があり、ガラスで作られたシャンデリアの下に、高級家具メーカーのスタイリッシュな応接セットが据えられている。  入り口のそばで一礼をしてから、岩下が待つ重役デスクに近づいた。スリーピースのジャケットを脱いだベスト姿の岩下は、ネクタイを少しだけゆるめている。  大きなキャンバスを三つ並べても窮屈にならない壁はそれだけで威圧的だが、岩下の存在感はそれをはるかに超えていた。イスにもたれ、肘掛けに腕を預け、手を組んでいる。  年齢を重ねるごとに増していく貫禄は、黒縁眼鏡の独特な色気と合わさって匂い立つように凛々しい。  毎日のように顔を合わせていても圧倒的だったが、時間を置くといっそう凄みを感じる。  岡村の背筋も自然と伸びた。 「壱羽の次男坊がデートクラブの面接に来たらしいな」  ふっと表情が和らいだが、対する岡村の緊張は微塵も解けなかった。事の流れを簡潔に報告する。 「金をやったのか」  からかうように笑われ、 「きれいな顔をしていたので」  なに喰わぬふりで答える。 「へぇ……」  イスに座って見あげてくる岩下の視線が、心の内までも検分するようで落ち着かなかった。 「愛人にでもするのか」 「恩を売っておいただけです」  即答を返す。余裕のなさを露呈したような気がしたが、指先で眼鏡を押しあげた岩下からは指摘されなかった。 「おまえも成長したよな。誰のために頑張ってるのやら」  ちらりと視線を向けられ、今度は即答ができない。黙り込むと笑われた。 「俺のためだって、言わないのか」  言うべきだとわかっていたが、『誰のため』と問われて思い浮かぶのは、まったく別の人物だ。岩下と同じように眼鏡をかけ、同じようにからかいの笑みを浮かべるが、岩下と対峙するのとは、まったく違う感情の渦に突き落とされる。その男は佐和紀だ。  軽いため息をつき、岡村は口をつぐんだ。  本当のことは自明だが、自分からは口に出さない。  ビジネスチェアから立ちあがった岩下はデスクを回り、目の前に立つ。岡村のネクタイをすっと引き出し、指にすべらせながら、デスクに腰を預ける。  たわいもない仕草が様になる色男だ。  ずっと近くで眺めてきたから、仕事をするときの岡村は知らず知らずのうちに岩下を真似る。それでも完全なコピーができるわけではない。彼ほどのスマートさを持てるとも思わなかった。 「いい色だな。スーツも新しい。シャツもか? 誰の趣味だ」 「佐和紀さんです」  見つめてくる視線を真っ向から受け止めて答えた。 「食い散らかしてる人妻に選ばせたらどうなんだ。……いまさら、おまえの悪行で支倉に突きあげられるのはゴメンだ」  冷たい口調で言われ、斜め後ろに立つ支倉をちらっと見る。 「あまりに節操がないので、進言しただけです」  余計なことだ。不満を隠さずに睨むと、周平にネクタイを引っ張られた。 「仕事ぶりに文句はない。俺の昔を思えば、口を出せる話でもない……んだけどな。相手を選べよ……」 「なにか、迷惑でも」 「佐和紀に知られたくないだろう。別れ話でトチ狂った女が、事務所まで乗り込んできた話なんて」  こともなげに言われたが、岡村のこめかみはぴくりと引きつった。 「誰ですか、そんなことするのは」 「知らねぇよ。事務所行って聞いてこい」  周平が笑い、続きは支倉が答えた。 「建設会社の社長を旦那に持つ人妻が、岡村に一目合わせてくれと駆け込んできたんだ。構成員がなだめて追い返したって話だが、カバンにナイフが入ってたらしい。もう少し、マシな遊び方をしたらどうだ」  初めて聞く話だった。うまく追い返せたから報告するまでもないと、事務所詰めの構成員たちは思ったのだろう。余計な気の使い方だ。 「御新造さんの耳にはすでに入ってるだろう」  淡々とした支倉の声に、感情を逆撫でされる。『御新造さん』というのは、佐和紀に対する組内での呼び名だ。 「相変わらず、俺の嫁をあちこち社会見学へ連れていってくれてるらしいな。……でも、頻度が高くないか?」  岡村のネクタイの先端をもてあそびながら、岩下は引き締まった頬を歪めた。 「ひとりでお食事させるのはかわいそうですから」 「……間男」  ぼそりと言われたが、真剣な声で返す。 「世話係なんです」 「タカシとタモツも連れていってやれよ」 「ふたりとも女がいますから……」 「おまえにも、手を出した人妻が山ほどいるじゃないか」  顔を覗き込まれ、思わず視線をそらす。 「そんなとこまで岩下にそっくりだって言われてくれるなよ。肩身が狭い」 「すみません。気をつけます」  飲み会でからかわれでもしたのだと悟り、素直に謝った。兄貴分に恥をかかせるなんてもってのほかだ。  怒鳴りつけない岩下だからこそ、申し訳なさが募る。 「女遊びをするなとは言わない。けど、きれいにやれよ。俺とおまえは違うだろう」  静かな声で諭してくる岩下は、優しい兄貴分の顔でネクタイをジャケットの中へ戻した。歪みを整え、ジャケットの襟を両手でなぞり下ろす。 「人妻をティッシュ代わりにしてる、なんてな。佐和紀が知ったら、どやされるぞ」  この話題とセットでは出されたくない名前を聞き、相手がどう受け取るかを思い知らされて頬が引きつる。 「されたいんじゃないですか」  支倉があきれた声で口を挟んできた。それに対して、岩下はうっすらと笑みを浮かべた。 「あいつは不思議なところで潔癖だぞ」 「はい……」  念を押された岡村の背筋がひやっとした。横恋慕していることは、見透かされている。 「話はそれだけだ」  あっけなく解放されて、岡村は少々、拍子抜けした。岩下は、自分がそしりを受けるより、佐和紀が岡村に幻滅して落ち込むことを心配している。嫁かわいさを、まるで隠そうともしない。 「……あぁ、そうだ」  その場を離れようとした岩下が戻ってくる。肩に手を置かれた。 「ついでに、もうひとつ。それだけ佐和紀の点数を稼いでるなら、キスぐらいできたか?」  からかいで耳元をくすぐられ、わざと色っぽくささやいた兄貴分を振り返る。意地悪く笑いかけられ、じっと見つめ返した。  自分の嫁の身持ちの堅さを知っているからこそ投げかけられる言葉は、岡村が警戒対象にも入っていない証拠だ。  同時に、佐和紀にとっての危険分子でもないということになる。  返す言葉も見つからず、岡村は視線だけを伏せた。

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