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第8話 下手クソな恋愛
家は学校の近くだから、ジャージで登校しても何も支障がないってこと。今日はトレーニング室を使っていたんだけれど、私立だからこその充実したトレーニング機器は、本当にありがたいということ。水泳は子どもの頃からずっと続けているからか、髪の色が茶色になってしまったんだということ。それが嘘なのか本当なのかはわからないけれど。
やっぱりトレーニング機器と同様に、吹奏楽部の楽器もすごいものが充分な数用意されているのか、という質問。音楽教師は全員目を瞑ったまま、どんな曲でもピアノで弾けるらしいっていう噂は本当なのかっていう質問。
車の中でジャージ姿の郁登は教師らしい会話を続けていた。
「国産車って感じしないのに、意外でした」
「俺?」
「真っ赤なフェラーリとか」
ただの一教師が赤のフェラーリなんて買えるわけがない。そして、何、その王道な感じがする車のセンス。単純明快な思考回路をしているところさえ可愛いと思った。
単純すぎるけれど……この車に乗るって意味をこの人、わかってんのかな。
「あ、ちなみに俺の愛車はチャリです」
わかってないだろうな。チャリで、しかも赤いって、楽しそうに笑っている。
まるであの夜、セックスをした人物と同じには思えないくらいに、可愛くて無邪気だった。
「腹、空きましたね~」
「郁登、この時間の意味わかってる?」
「へ?」
車を路肩に停めて、真横にいる、愛車が赤いチャリの郁登をじっと見つめた。
「!」
わかってるらしい。身体を硬くして、一応身構えている。
「わかってて、なんで乗ったの?」
「……」
「それって脈アリって事?」
「……」
男相手にこの台詞を言う日が来るなんて思いもしなかった。なんだったら、あの飲み会までだって予想していなかった。なぜか欲情する隣の席の教師に、セックス以上のものを求める日が来るなんて。
「い、いやぁ……」
目を泳がせながら、どうしようか迷っている郁登のポケットから、能天気な電子音が突然鳴り始めた。慌てて、ジャージのポケットからスマホを取り出している。
「……いいの? 出なくて」
「あーアハハ」
画面を見て、そのまま、まだ鳴っているスマホをポケットの中へと戻してしまった。いつもはハキハキ話す郁登は、室内にこもりがちな俺には眩しいくらいに、太陽のようにさえ思えたのに。苦笑いを零しながら、その電話を掛けてきた人物を無視する郁登は、まるで別人だった。
俺がいるから出ないのか、それとも元から話をしたくない相手なのか、まだ路肩に停めている車内でじっと観察したけれど、苦笑いをキープしたまま、困った顔をしている。
「飯、どこか行きたいとかあります?」
「へ?」
「っていっても、ジャージだし、その辺の居酒屋でいいですか?」
俺のこの誘いにどうして乗ったのかを訊こうと思っていたのに、それをあの電話に邪魔された。そしてその電話が、俺の知らない郁登を俺に見せている。
さっきの会話まで遡って、質問の答えを訊こうと思えば出来るけれど、なんかそんな気が失せてしまった。俺の質問にも、電話の奴にも困ったような顔をするから。そして俺が話を終わらせて、一番最初に車内で始められた、呑気な会話にまで時間を戻すと、ものすごく助かったって顔をして、安堵の溜め息なんてつくから、それ以上、深く質問出来なくなってしまった。
居酒屋は大衆向けのチェーン店にしておいた。なにせ相手はジャージだったから。外食は滅多にしないらしく、体育教師っている仕事に一番適したジャージで学校に来ていて、困る場合よりも、断然利点のほうが多いらしい。着替えも早いし、学校では一日ジャージなのだから。スーツを着るのは始業式、終業式、卒業式、つまりは式が付く日だけだと、なぜか自慢気に言われた。しかもそのスーツはリクルート用で、高かったけれど、もう何年も着続けているから、値段分はすでに着ていると、胸まで張っている。
俺は運転手だから飲まないけれど、なぜか郁登も飲もうとしない。俺に遠慮せずに飲んでもらってかまわないって言ったら、また気まずそうにしている。
“自覚なかったけど、酒癖悪いみたいだし”
そうボソッと呟いて、申し訳なさそうに頭をポリポリ掻いていた。また酔っ払って、俺とセックスしてしまうかもしれない、そんな心配をしているのが手に取るようにわかる。それがなぜか嬉しかった。
本当は訊きたい。
どうしてここにいるのか、どういうつもりなのか。俺をどんなふうに思っているのか。でもとりあえず、今のその呟きは、俺とのセックスをしてしまう確率があるって事を示唆している。断固拒否、出来ないかもしれないから、酒を飲まずにいる。そんな些細な事で、喜んでしまう自分がいる。
「モテそうなのに……何でなんすか」
そう訊かれたけれど、こっちこそなんでなのか知りたいさ。なんで男相手に今日一日中、一喜一憂しているんだって、ずっと自分自身に質問したいんだから。
だから俺もその質問に正確には答えられずに、適当に「何でも」とだけ答えたら、郁登は困ったようにししゃもを頭からパクッと食べていた。
「俺の中での金沢先生の印象って、知的で、部屋には本がびっしりあって、ピアノもあって、ワイン片手にサラダを食べているって感じです」
車の中で、満腹感のせいなのか、少し口調が呑気に思える。酒は一滴も飲んでいないのに、まるで隙だらけの話し方。このまま車をひとけのない所まで走らせて、襲い掛かってしまったら、セックスできてしまえそうな気がした。
「何それ、どんだけインテリ」
「えー? でも鉄板大盛り焼そばをひとりでたいらげるようには見えないっすよ。うちの学校の女子が驚くと思う」
「あのね」
音楽教師だからって、焼そばくらい食うだろう。なんだったら今、男相手にカーセックス出来ないものかを考えているくらいには、即物的な生き物だ。
「真っ赤なフェラーリといい」
「アハハ」
車は居酒屋を出た時点で、教えてもらった郁登の住所へと真っ直ぐに道案内をしてくれている。
「フェラーリでもなければ、ワインもサラダも食べない、焼そばを食べた国産車の乗っている、音楽教師との夕飯はどうだった?」
「アハハ、楽しかったっす」
このまま送り狼になっても?
もうカーナビは目的地が後、三百メートル付近まで近付いた事を知らせている。今日、仕事後に車の所で待っているって、そう誘った。一度、セックスをした相手を食事に誘う、その意味がいくら純粋そうな郁登でもわからないわけがない。俺は勝手に、下手クソな恋愛を始めるため、郁登はどうなのかを確かめるようと誘って、そして始めてしまってもいいんだと判断した。
だから、ここで俺がお茶でもご馳走してくれと、もし頼んだら、どうするんだろうと、さっきからずっと考えている。
もちろんお茶だけ飲んで帰るつもりはない。上がり込んだら、上がり込んでいいのなら、それはセックスをしてもいいって判断する。気持ちがゼロではないって、確信してしまう。
弾んでいた会話のノリのまま、俺が一歩、スタートラインである白線の先へ足を出そうとした時だった。
「あ、美里(みさと)」
車の前方を見つめて、郁登がそう呟いた。
運転していた俺は、その美里と呼ばれた人物をしっかりと目撃してしまう。真っ暗な中でもわかる。女性らしい淡いピンクのコートと細い脚によく似合う綺麗な同じピンクのパンプス。
さっき、居酒屋に向かう途中で掛かってきた、誰だかわからない電話と全く同じタイミング。
「なんで……」
だから横で真剣な声でそう呟く郁登に訊かなくても、その表情がどんなだか確認しなくても、あの前方にいる女が郁登の恋人なんだろうって、嫌でもわかってしまった。
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