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第7話 スタートライン
こんなにひとりの男に神経をずっと集中させたのは生まれて初めてだった。
朝、郁登はキスマークを、そして俺は噛み痕を見せ付け合って、それが学校っていうのもまた楽しい。
でも郁登は楽しんでいる余裕なんてあるわけがなくて、席に俺が座っているのを確認する度に、慌てて、どこか他に居場所はないかって探し回っている。そんな郁登を捕まえて、体育教師と音楽教師っていう、何も接点がないはずなのに、さも用事があるように話し掛けると、いちいち過剰に反応してくれるのが楽しかった。
これが数学教師と英語教師とかなら、ひっきりなしに授業が組まれているから、デスクに戻るのは授業と授業の間くらいしかないけれど、音楽はそこまで忙しくない。そして美術などに比べて、準備もそんなに必要ない。つくづく自分によく合った教科を選んだと思う。
「ふわぁ……」
横で二連発であくびをされると、こっちもあくびをしたくて仕方がなくなるんだけど……三回目をどうにか堪えようと、郁登が横で変顔をして遊んでいる。
「寝不足なんですか?」
「……誰のせいだと思ってるんすか」
そんな事を恨めしい顔で言われても、セックスしたのが昨夜なら俺のせいってわかるけれど、俺だって翌日は寝不足だったし。でも更に一日後の夜の事までは知らないだろ。寝不足、それが俺との事を思い悩んで、だとしたら、ものすごく嬉しい。
放課後、部活の顧問をしている人間はそれぞれの場所へと向かう。音楽の教師である俺は吹奏楽部へ、体育教師である郁登は水泳部へ。
「そういえば、水泳部は冬ってどうしてるんです?」
「へ?」
結局、三回目のあくびをしてしまった郁登が、少し間抜けな顔をしつつ、その目尻に涙を溜めて振り返った。その拍子にポロッと零れた涙は、官能でも、感極まった末のものでもなく、ただのあくびによる反射なのに、そんな呑気な涙さえ、ここが職員室じゃなくて俺の部屋だったら、組み敷いて舐め取っていた。
「……今、なんかエロいこと考えてなかったですか?」
「えー? どうしてそう思います?」
「勘です。体育教師の」
「一回、セックスして身体を知ってるから?」
「んなっ!」
からかうと、その都度、律儀に反応してくれるから楽しくて仕方がない。色々と考えてたんですよ、と唇を尖らせて、真面目に睡眠不足の理由を教えてくれるのも可愛い。どうやら俺の希望していた理由そのままが、寝不足の原因らしい。本当にからかいがいがある。
そして真面目だ。冬は室内で筋トレをする事が多く、週に二回くらい、市民プールへ出向くだけだと、事細かに、そして丁寧に水泳部の予定を教えてくれるところも、可愛い。撫でくりまわして遊んでやりたい。
「じゃあ、今日は室内で筋トレ?」
「ええ」
「何時に終わります?」
「……は?」
幸い、今、向かいのデスクの先生はどこかに行っていて、席にはいない。よっぽどこの会話を盗み聞きしようと、耳をそばだてていなければ、この会話は誰にも聞かれない。
「デートしましょう」
「……は?」
少しだけ眉を寄せて、まるでナゾナゾでも出されたような顔をしている郁登にニッコリと笑いかけてから、そっと席を立つ。そろそろ音楽室のほうへ行かないと、部員が集まり始めているはずだ。
まだナゾナゾ顔の郁登に六時には終わるから、その後、なんだかんだで七時、その時間に教員用の駐車場で待っていると伝えたら、断るでも頷くでもなく、ただポカンとしたまま、俺だけをじっと見つめて見送っていた。
待っているとは限らない。というか、普通ならそのまま帰る確率のほうが高いだろう。だからこれはちょっとしたテストだ。セックスを酒の勢い、雰囲気、ノリでした。嫌悪はなかったんだろう。最中には、俺もだけど、郁登もかなり盛り上がっていたんだし。翌朝だって、驚いてパニックで、騒いでいたけれど、気色悪い体験をしたって顔はしていなかった。
そして今日、睡眠不足になるほど俺の事を考えていた。俺は恋愛にのめり込むタイプじゃないけれど、郁登の場合は例外なのかもしれない。
からかう俺に逐一、真面目に答えようとするのも、そして律儀に、酔いでしてしまったセックスに悩む姿も、どれも可愛くて仕方がない。
だからこんなに嵌った、俺にとって初めての男を落とせる確率がゼロじゃないか、それを確かめるんだ。
「先生―! 譜面、この前の続きでいいですか?」
音楽室にはすでに部員が揃っていて、部長を中心にしながら、すでに前回の練習の続きをしていた。笑顔で頷く俺に、勝手に進めていた部長もニッコリと笑いながら、しっかりと部員をまとめて練習の続きへと戻っていく。
まだ出だしがどうしてもバラつく、それを聴きながら、自分の中で勝手に始まっていた、初めての恋愛にまた笑顔になった。
向こうはまだスタートラインに立っていない。でも俺はもう立っている。そしてその手を強引に引っ張って、同じ白線に立たせようとしている。本人はナゾナゾ顔のままかもしれないけれど、そんなのおかまいなしで、強引で、こんな下手クソな恋愛は何年ぶりだろう。学生の頃にまで遡るくらいに大昔すぎたのに、今、自分の身体の中で、ウズウズしている感覚はまさにそれと同じで、そして鮮明なものだ。
「じゃあ、もう一度最初から」
振り返った部長にそう指示を出して、まだにやけそうになる不謹慎な自分を隠そうと、席を立った。
ここからなら、俺の青い車が見える。あと二時間後、あそこに郁登が来ていたら……そう願って、ドキドキしている自分がいた。
煙草はもう一昨年から吸っていない。そんなにニコチン依存していたほうじゃないから、止める時にイラつくこともなく、スッパリと簡単に止められたのに、今、誰かが煙草を口に咥えていたら、一本拝借したくらいに、時間を持て余している。
時間はまだ七時前、郁登に来て欲しいと言った時間よりも前だ。だから郁登が来ていないのは当たり前だ。当たり前なのに、まるで俺の誘いはすでに断られているような気がした。
部活が終わったのが六時、その後に職員室に戻ると郁登の姿はなかった。登下校もジャージで済ましている郁登は帰ったのか、まだ水泳部の顧問として、学校の中のいるのかもわからない。
職員室の扉を開ける時に、少し緊張してしまった俺は、馬鹿みたいに今度は肩を落として、これじゃ片想いの相手に振り回されて、一喜一憂する子どもと何も変わらない。
「……」
車のハンドルに手を置いて、トントンと鳴らしながら、必死に待っている。バックミラーを確認したり、入口のほうを見てしまったり。
来なかったら、その時は可能性がゼロってことだ。
「普通はそうか……」
男同士なんだから、そっちのほうが普通の反応だろ。でも郁登の今日一日の慌てぶりに嫌悪が混ざっていなかったら、慌てて、怒ってはいたけれど、拒否らしい言葉を言われていなかったら。
腕時計をチラッと見れば、もう七時になる。十分? 五分? どのくらい待ってみても来なかったら、俺は確率ゼロだと判断するんだろう。
でもスタートラインに立っただけ、それなら俺だってまだその足を引っ込めることが出来る。走り出す気満々だったけれど、このまま郁登が並ぶ気がないのなら、どんなに頑張ってもひとりなんだ。それなら今このまま足を一歩下げてしまえば済んでしまう。この状況で判断出来るのなら、全然楽だろ。切り替えは簡単なはずだ。
どんなにドキドキとした大昔みたいな下手クソな恋愛だって、相手がいないのなら、いつかは萎んで消えていく。傷にもならずに、ちょっと落ち込むくらいでいい。逆にこの歳になって片想いなんて経験もそうそうしないだろって、ちょっと貴重な体験をしたと思えるかもしれない。
トントン――
そう切り替えようと思えば、まだ出来たはずなのに、突然、車のガラス窓を軽くノックされてしまった。
「……」
本当に一喜一憂だな。
「あ、開けてくんないんすか?」
ガラスの向こうからくぐもった声で、そう郁登に話しかけられた。ジャージ姿で、これじゃどこにもデートは出来そうにないけれど、俺の誘いに郁登は答えた。……答えてしまった。
「さ、寒いんすけど」
小さく足踏みをしながら、ドアのロックが解除されるのを待っている。
郁登、ここで車に乗ったら、それはどんなに俺が強引だろうが、この下手クソな恋愛のスタートラインに立ったってことになる。俺はそれを確認してしまう。
「ちょ、何、してんすか」
更に足踏みを大きくしている郁登を車に乗せるため、強制的だろうが、強引だろうが、本人はそんなつもりはないと後でわめこうが、この扉のロックを解除した時点から始まるんだ。
「……どうぞ」
この下手クソな恋愛が。
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