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第4章

少々寂れた団地が建ち並ぶところから少し離れたところにある、嫌味なほど綺麗で高いマンション。最上階から数えて3つ目の階に、豊高の自宅はあった。いつもはジャンボジェットの機体のようにぴかぴかと光って見えるが、この雨の中では全体的に煤けてみすぼらしく見えた。 豊高は憂鬱そうに灰色の雲を背負う建物を、いい気味だとせせら笑い惨めな自分を慰める。 ただいま、も言わず玄関のドアを開ける。 傘は閉じて下駄箱に掛けておいた。フローリングの廊下に足を置くと、自分の靴下がぐっしょり濡れていたことに気づいた。 ぺたり、ぺたりと歩くたびに足跡がつく。 「おかえりぃ」 母親の声が聞こえた。おそらくキッチンからだろう。廊下の照明は点いておらず、キッチンから光が漏れていた。 豊高は母親に応えることなく薄暗い廊下を歩く。 不愉快だった。 濡れた衣服の感覚も。媚びるような母親の声も。目に眩しい光も。 キッチンから四十代前後の女性が出てきた。 化粧をし髪を巻いている。ノースリーブのフリルシャツに黒いボレロ。 どう見てもよそ行きの服の上から、ペラペラの安物のエプロンをかけた違和感を覚える格好だった。 母親は豊高の後を追うように歩く。 「お腹すいた?何かいらない?」 濡れて帰ってきた豊高に対して的外れな気遣いの言葉。 豊高は母親を無視して自室に篭り、無造作にドアを閉めた。 「夕飯、もう少しだから待っててねえ」 猫撫で声がドアの外から聞こえた。豊高はやはり返事もせず学生鞄を乱暴に勉強机の上に置き、ベッドに寝転んだ。 母親の、おどおどしたような、顔色を窺うような態度は今に始まったことではない。豊高が物心ついたときからそうだった。 父親とはろくに話したこともない。 いや、父親が話し掛けるなと言ったのだ。 父親が嫌いな豊高にとっては好都合だったが。 そう言われたのは豊高が中学生の、いや、登校拒否を始めた時だった。 「もう出てこなくていい。話し掛けるな。世間に、顔を見せるな」 ドアの外から放たれたその言葉は、どろりと真っ暗な自室に広がり、瞬く間に自分を窒息させていったことを豊高は覚えている。 日が立つごとに、父親の悪意に満ちた言葉が部屋に充満していく。 ここにいては、本当に気が狂ってしまう。 そう悟った豊高は、中学校を卒業するまで保健室登校を行っていた。同級生とすれ違う時等は白い目で見られることはあったが、暴力を振るわれることは二度となくなった。 傷害事件になりかけたので教師が釘を刺しておいたのだろう。 だが陰湿な嫌がらせは度々あり、ある日豊高の中でぷつんと何かが切れた。 豊高は落書きだらけの教科書を一式、自ら教室のごみ箱に捨てごみ箱ごと燃やした。 それをきっかけに、教師は嫌がらせを見て見ぬ振りをするようになった。 ただ一人、あの若い女性の養護教諭を除いて。 壊れかけていた豊高をギリギリの状態で引き止めていたのは彼女だった。 唯一の豊高の味方であった。 だが豊高はそれを疎ましく思っていた。 態度や声の掛け方が母親に似ているような気がして。むしろ憎んでもいた。 いっそ、壊れてしまった方が楽だったのに、と。 人間は無駄にしぶとい、と豊高は感じていた。 自分を追い込んでも追い込んでも、豊高は狂いきれなかった。 豊高は、今でも、自分が心底嫌いだ。 「ユタカ、晩御飯できたわよお」 母親の声が遠くから聞こえた。 豊高は白昼夢に似た回想から現在へ意識を引き戻される。豊高は返事をせず寝返りを打った。 ーーどうせ 「お母さん、これから用事があるから、食べておいてねえ」 ーーー男のとこに、行くんだろ? 夫の顔色を伺い、息子の機嫌を取り、世間の目に怯える。そんな生活をしていればストレスが溜まらないはずがない。 豊高は少しだけ同情し、安心していた。 哀れな人間が自分だけでないと確認出来たからだ。 今やそうやって自分を慰めることも叶わなくなったが。 豊高は一度、駅前のロータリーで若い男性の運転する車から母親が出てくるのを見たことがある。 一瞬別人かと疑った。 生き生きとした瞳、会話する度に弾む紅をさした頬。 普段とはまるで違う。 疲れきった目元に何か言いたげに張り詰める唇の線。それが豊高の知っている母親の顔であった。 ーーー何だよそれ。 豊高は腹が立った。 ーーーなんであんな顔するんだよ。 俺には笑いかけたことすらないのに。 ほっとけばいいのに。俺や親父なんか。 ほっといて、そいつと、 幸せにでも何にでもなればいいのに。 「ユタカ?分かった?ちゃんと食べてね」 「・・・もうほっといてくれよ」 その呟きは、いってきます、という声と、重く扉が閉まる音に押し潰された。

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