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第47章

頬を打ち抜かれ、由隆の細い体は床に投げ出される。康平は肩で息をしている。由隆は無表情のままむくりと起き上がるが、上体を康平に踏みつけられ床で頭を打った。 「ユタカにはさぞ嫌われているだろうな」 唇の端から血を流しながら言う。ナイフのような光は消えていなかった。 「暴力的な父親を演じる事で、自分からユタカを遠ざけていたんじゃないのか」 「黙れ!」 打撃音と共に由隆の頭が揺れる。 「妻に手を掛けたのは何故だ。それに気付かれたからなんじゃないのか」 「黙れ!」 口内が切れ、血が舞った。 「黙れ、うるさい、お前に、お前なんかに、俺の何が分かる」 暴力の嵐の中、苦痛の表情を浮かべているのは康平の方だった。 やがて由隆の気管に血が入り咳き込む。数秒間の沈黙が生まれる。由隆は目を見開くと、静かな黒い瞳をしていた。 「馬鹿だな・・・それだけユタカを愛していたんだろう?」 康平はハッとした表情を浮かべたかと思えば、拳を震わせ苦しそうな表情を見せた。 「もう、ユタカを解放してやってくれ」 「何故、お前が、」 「あんたと同じだ。俺はユタカを愛している」 康平は目を剥いた。 「ユタカは俺だよ」 自分が何者か分からない苦痛や、性被害を受けた屈辱や、人を愛しても伝えられない悲しみが、由隆には痛いほど分かった。彼は結局、豊高に何も出来なかった。 「もう行く」 由隆は立ち上がり、服の埃を払った。コートを着て、扉に手をかける。 「・・・いつかユタカと家族になれるといいな」 康平は苦しげに呟く。 「妻も、昔同じようなことを言っていた」 追憶を辿り、遠くを見るような目だ。 「夫婦になれなくても、家族にはなれるだろうと」 「・・・そうか」 由隆はそうだ、と踵を返す。そして、康平の顎を乱暴に掴み、口付けた。 「さっきユタカとキスしてきた」 先程の台詞を繰り返す。康平は目を白黒させた。 「これでユタカを許してやってくれ」 じゃあな、と今度こそ由隆は部屋を後にした。 康平は、重い一撃を受けたかのように、その場から動けずにいた。 由隆は廊下を歩いていた。端正な顔は腫れ上がり、唇の端は切れて血は乾いていた。 しかし、どこかすっきりした顔つきだ。 由隆は携帯電話を手にした。携帯電話は、ずっと通話状態になっていた。 「無理を言ってすいません」 『何をやってるんだ君は!!何かあったら来てくれって!もう遅いじゃないか!』 電話の向こうにいたのは、三村だった。 『今着いたとこだよ。早く来て』 外に出ると、三村の乗るハイエースが停まっていた。 「うわっひどい顔だな。病院連れて行くから乗って」 由隆は三村に頭を下げた。そして、こちらを睨みつける豊高と、目が合った。 「来ていたのか」 由隆の顔が青くなる。 「聴いて、いたのか?」 豊高は頷いた。由隆は俯き唇を噛む。豊高には、豊高だけには、父親の歪んだ欲望と自分のしようとした事を知られたくなかった。 「すまない」 豊高は首を振る。張り詰めた空気に三村が助け舟を出す。 「ごめんな、どうしても行くって聞かなくて」 「謝るのは俺の方だ。ごめん、本当に。何も、知らなかった」 豊高の顔は羞恥に赤くなっていた。 「嫌なことから逃げてばっかで、何にも知ろうとしなかった。こんなんじゃ、誰からも相手にされなくて当たり前だよな」 豊高は真っ直ぐ、自分と同じ名前の若者を見上げる。 「俺、もっと楓、じゃなくて・・・ユタカの事知りたい。もっと、色んな話聞かせて欲しい」 「わかった」 由隆は口角を数ミリ吊り上げた。 「また今度な」 そう言って、車から一歩離れた。 「おい、柏木君」 「まだやることがある」 引き留める三村に、ぴしゃりと返した。 「ユタカはまず家族で話すべきだ」 豊高は困ったように顔をしかめたが、力強く頷く。 「俺は嬉しかったよ」 何も知らなくても、男でもなく女でもなく、"楓"として接してくれたことが。 「ユタカは大丈夫だ」 きっと、相手が誰であろうと愛する事ができると確信していた。 「また、いつでも」 由隆は自分と同じ名前の少年を見つめた。 豊高は笑みを浮かべ頷いた。 そして、屋敷の中の明かりの残る部屋に向かって行った。 ーーーーーーーーーー 豊高の父親は、帰ってくるとすっかり毒気を抜かれたように落ち着いていた。 母親と豊高に謝罪し、やがて話し合いの末離婚した。 豊高は母親と一緒に暮らしている。母親は前よりも口うるさくなったが、豊高は今の方が居心地が良かった。 生活が落ち着いた頃、豊高は高校2年生に進級していた。 今日は本当に久しぶりに、由隆に会いに行く。 春の田舎道は柔らかな色の草花に溢れていた。あの屋敷の庭にはどのような花が咲いているのだろうか。 そして、彼はーーー そこに着いた時、豊高は愕然とした。 頭の芯が熱くなる。 「あいつ、やっぱり嘘吐きだ」 悪態をつき歯を噛み締める。 あの屋敷は、跡形もなく取り壊されていた。 瓦礫の山だけが残されている。 豊高と同じ名前を持つ青年は、二度とここに現れることは無かった。 第1部雨 end 第2部 雲の種 に続く

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