48 / 48
第47章
頬を打ち抜かれ、由隆の細い体は床に投げ出される。康平は肩で息をしている。由隆は無表情のままむくりと起き上がるが、上体を康平に踏みつけられ床で頭を打った。
「ユタカにはさぞ嫌われているだろうな」
唇の端から血を流しながら言う。ナイフのような光は消えていなかった。
「暴力的な父親を演じる事で、自分からユタカを遠ざけていたんじゃないのか」
「黙れ!」
打撃音と共に由隆の頭が揺れる。
「妻に手を掛けたのは何故だ。それに気付かれたからなんじゃないのか」
「黙れ!」
口内が切れ、血が舞った。
「黙れ、うるさい、お前に、お前なんかに、俺の何が分かる」
暴力の嵐の中、苦痛の表情を浮かべているのは康平の方だった。
やがて由隆の気管に血が入り咳き込む。数秒間の沈黙が生まれる。由隆は目を見開くと、静かな黒い瞳をしていた。
「馬鹿だな・・・それだけユタカを愛していたんだろう?」
康平はハッとした表情を浮かべたかと思えば、拳を震わせ苦しそうな表情を見せた。
「もう、ユタカを解放してやってくれ」
「何故、お前が、」
「あんたと同じだ。俺はユタカを愛している」
康平は目を剥いた。
「ユタカは俺だよ」
自分が何者か分からない苦痛や、性被害を受けた屈辱や、人を愛しても伝えられない悲しみが、由隆には痛いほど分かった。彼は結局、豊高に何も出来なかった。
「もう行く」
由隆は立ち上がり、服の埃を払った。コートを着て、扉に手をかける。
「・・・いつかユタカと家族になれるといいな」
康平は苦しげに呟く。
「妻も、昔同じようなことを言っていた」
追憶を辿り、遠くを見るような目だ。
「夫婦になれなくても、家族にはなれるだろうと」
「・・・そうか」
由隆はそうだ、と踵を返す。そして、康平の顎を乱暴に掴み、口付けた。
「さっきユタカとキスしてきた」
先程の台詞を繰り返す。康平は目を白黒させた。
「これでユタカを許してやってくれ」
じゃあな、と今度こそ由隆は部屋を後にした。
康平は、重い一撃を受けたかのように、その場から動けずにいた。
由隆は廊下を歩いていた。端正な顔は腫れ上がり、唇の端は切れて血は乾いていた。
しかし、どこかすっきりした顔つきだ。
由隆は携帯電話を手にした。携帯電話は、ずっと通話状態になっていた。
「無理を言ってすいません」
『何をやってるんだ君は!!何かあったら来てくれって!もう遅いじゃないか!』
電話の向こうにいたのは、三村だった。
『今着いたとこだよ。早く来て』
外に出ると、三村の乗るハイエースが停まっていた。
「うわっひどい顔だな。病院連れて行くから乗って」
由隆は三村に頭を下げた。そして、こちらを睨みつける豊高と、目が合った。
「来ていたのか」
由隆の顔が青くなる。
「聴いて、いたのか?」
豊高は頷いた。由隆は俯き唇を噛む。豊高には、豊高だけには、父親の歪んだ欲望と自分のしようとした事を知られたくなかった。
「すまない」
豊高は首を振る。張り詰めた空気に三村が助け舟を出す。
「ごめんな、どうしても行くって聞かなくて」
「謝るのは俺の方だ。ごめん、本当に。何も、知らなかった」
豊高の顔は羞恥に赤くなっていた。
「嫌なことから逃げてばっかで、何にも知ろうとしなかった。こんなんじゃ、誰からも相手にされなくて当たり前だよな」
豊高は真っ直ぐ、自分と同じ名前の若者を見上げる。
「俺、もっと楓、じゃなくて・・・ユタカの事知りたい。もっと、色んな話聞かせて欲しい」
「わかった」
由隆は口角を数ミリ吊り上げた。
「また今度な」
そう言って、車から一歩離れた。
「おい、柏木君」
「まだやることがある」
引き留める三村に、ぴしゃりと返した。
「ユタカはまず家族で話すべきだ」
豊高は困ったように顔をしかめたが、力強く頷く。
「俺は嬉しかったよ」
何も知らなくても、男でもなく女でもなく、"楓"として接してくれたことが。
「ユタカは大丈夫だ」
きっと、相手が誰であろうと愛する事ができると確信していた。
「また、いつでも」
由隆は自分と同じ名前の少年を見つめた。
豊高は笑みを浮かべ頷いた。
そして、屋敷の中の明かりの残る部屋に向かって行った。
ーーーーーーーーーー
豊高の父親は、帰ってくるとすっかり毒気を抜かれたように落ち着いていた。
母親と豊高に謝罪し、やがて話し合いの末離婚した。
豊高は母親と一緒に暮らしている。母親は前よりも口うるさくなったが、豊高は今の方が居心地が良かった。
生活が落ち着いた頃、豊高は高校2年生に進級していた。
今日は本当に久しぶりに、由隆に会いに行く。
春の田舎道は柔らかな色の草花に溢れていた。あの屋敷の庭にはどのような花が咲いているのだろうか。
そして、彼はーーー
そこに着いた時、豊高は愕然とした。
頭の芯が熱くなる。
「あいつ、やっぱり嘘吐きだ」
悪態をつき歯を噛み締める。
あの屋敷は、跡形もなく取り壊されていた。
瓦礫の山だけが残されている。
豊高と同じ名前を持つ青年は、二度とここに現れることは無かった。
第1部雨 end
第2部 雲の種 に続く
ともだちにシェアしよう!