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第46章
車を運転する楓ーー柏木由隆は、都心にあるビルの前に来ていた。夜空を貫くような細い建物だ。
地下駐車場に車を止め、その建物のバーラウンジに向かう。建物の12階にある其処は、対面式のカウンター席と椅子やソファの向こうに夜景が見えた。窓から見える景色は、近くには街の光が密集しているが、郊外に行くほど少なくなり、まるで光のさざ波のようだった。
「待たせたな」
奥まった場所のソファに座る、立花康平に声を掛けた。
「・・・いい度胸だな」
康平のグラスを握る手に力が入る。
「どうするつもりだ」
酒に焼けた声で、康平は唸る。
「お前と話がしたい」
「時間の無駄だ」
「ユタカの話だ」
康平は額に青筋を立てじろりと睨む。由隆はその男をただ冷静に見下ろす。
しばらく2人は対峙していた。由隆は少し息を吸う。
「さっきユタカとキスをしてきた」
康平は勢いよく立ち上がり、由隆の胸ぐらを掴んだ。バー全体に緊張感が走ると同時にバーテンダーの視線が刺さる。
「すまない、父が酔ったようだ」
由隆が、軽く手をあげ声を張る。
「すぐに連れて行く」
バーテンダーは手を貸す事を申し出たが、由隆は断った。康平はわなわなと震えながら呟く。
「貴様、俺に何をされても文句は言えんぞ」
「・・・どうせ何もできやしない」
ナイフのように光る由隆の目と、獰猛な康平の瞳孔がぶつかりあった。
康平は由隆の運転で、ある場所に向かった。
あの洋館だ。
豊高が初めてここに訪れた時のように応接室に通す。康平はまるで自宅であるかのように横柄にソファに腰を下ろした。
「何故わざわざこんなところに来た」
「話を聞かれたくない」
由隆は暖炉に火を入れる。
「ここなら、誰も来ない」
パチパチと木が爆ぜ始めた。
「何があっても」
郊外にあるこの屋敷の周りは、人気が少なく地元の住民も滅多に通らない。例え叫び声が聞こえても、ここらに住む野生動物の声だと思われるだけだ。
「ユタカは何度もここに来ていた」
康平の白髪混じりの眉が吊り上がる。
「泊まっていったこともある」
「お前、豊高に何かしたのか?」
ゆらりと立ち上がり、拳を結ぶ。
「豊高に手を出せば犯罪だぞ」
「お前が俺にした事は犯罪ではないのか」
康平は黙った。由隆の瞳の中で、暖炉の炎が激しく燃えている。部屋の中が、炎の色に染まる。
「答えろ。息子に何をした」
「1年前と、同じような目に合わせてやってもよかった」
康平は口の端を上げ侮蔑するような笑みを浮かべた。
「お前が?豊高を?」
「ああ」
ふ、と息を吐きだすと、康平は腹から嗤った。
彼は、由隆が何者か知っていた。
「お前は、一体何を言っているんだ」
康平は苛立ちと嘲笑が混じった声で吼える。
「女のお前に、一体何ができると言うんだ!」
ーーーーーーーーーーーーーーー
「俺は、元女だ」
由隆は、別れ際にそう耳打ちした。
「GIDのFTMだ。よく調べておけ」
GIDとは、Gender Identity Disorder(ジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダー)で、性同一性障害を表す。
FTMはFemale To Male.
女性から男性。
すなわち心は男性で身体は女性であることを意味する。
ーーーーー心療内科医の三村が柏木楓香と言う少女に初めて出会ったのは、彼が研修医で彼女が丁度豊高と同じ年頃の時だ。
砂糖菓子のように白く細く可憐な少女の体の中には、少年が閉じ込められていた。
女性らしい体つきになる事や月経が来るのを恐れ、食事を受け付けなくなり、心療内科を受診した。
カウンセリングに通い、高校3年生の時に性同一性障害と診断される。
彼女、否、彼は周りの人間に恵まれていた。
友人や学校は彼の気持ちを尊重してくれ、家族も治療に理解を示し、支えてくれた。好奇の目を向ける人間や攻撃する人間もいたが、守ってくれる人間もいた。
それが皮肉にも、社会に潜む悪意を見抜く目を曇らせる事になる。
彼は男性ホルモン治療を経て、改名と胸の手術を済ませてから就職した。FTMだということもカミングアウトし、男性として働けることに充実感を感じていた。
自分を雇ってくれた立花康平には、感謝をしているくらいだった。
今まで優しい人間に守られてきた由隆は、楽観視していた。努力すれば周りの人間は認めてくれると。
しかし、一部の悪意ある人間にはそれが全く通用しないことを思い知らされることになる。
由隆は、一部の男性社員に自分がどう映っているのか知らなかった。
それは例えば、長年に渡り女性として躾けられ染み付いた仕草に、華奢な体つきに、中性的で整った顔立ちだ。彼らにとって、由隆は男装した美しい女性でしかなかった。
由隆が会社を辞めたのは、男同志だから平気だろうという勘違いも甚だしい、セクシャルハラスメントの嵐から逃れるためだった。
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だが、由隆はこう感じていた。
「本当はお前、女に興味が無いんじゃないのか」
男性から女性として、獲物として見られる視線は嫌と言う程浴びてきた。しかし立花康平から受ける視線は、それとは異質な物に感じていた。
「馬鹿な。俺には妻も子もいるんだぞ」
康平は一笑に付した。
「同性愛者であることを隠して家庭を持っている奴はごまんといる」
「俺をあんな連中と一緒にするな」
ジロリと由隆を睨みつける。由隆は噛み付くような視線を涼しげな顔で受け流し、続けて質問を放った。
「俺はアイツの代わりだったんだろう?」
「何の事だ」
「ユタカだ」
康平はますます表情を険しくした。
「ユタカにだけ辛く当たるのは何故だ」
「あいつが、出来損ないだからだ」
「・・・同性愛のことか?」
「そうだ、男を誑かすなんぞどうかしている」
「・・・・・・嫉妬か?」
康平の拳が、由隆を目掛けて飛んできた。
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