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第七話

 色とりどりの花が整然と咲き誇る、隅々まで手入れの行き届いた美しい庭園。その広大な庭の中心に佇む壮麗な大邸宅。邸宅の前には、緑の草花に囲まれた人工池があり、鯉が悠然と泳いでいる。 「すごい…」 「こいつらもそろそろ食べごろだな」  感嘆するロイをよそに、鯉を見ながら呟くジャンの言葉に思わず笑ってしまいながらも、ロイは目の前に広がる光景に見惚れ、自然と歩みが遅くなる。 「ほら、早く行くぞ」 「申し訳ありませんジャン様、つい…」  慌てて謝り足を早めるロイに、ジャンは言った。 「謝らなくていい、それより何回も言ってるだろ、様をつけるのは禁止だ。ほら、今すぐジャンと呼んでみろ」 「え?」  戸惑うロイをじっと見つめ、ジャンはロイの唇から自分の名が呼ばれるのを急かすように待っている。ここに来るまでの間、散々話し方や仕草の練習をさせられていたが、普通の会話の時まで、年上で身分の高い人を呼びつけにするのは抵抗があった。 「…ジャン」  それでも、ロイはなんとか違和感をねじ伏せジャンの名前を呼ぶ。するとジャンは、同性に向けるには不自然なほど魅惑的な表情で微笑み、いつの間に摘み取ったのか、庭に咲いていた一輪の薔薇をロイの目の前に差し出した。 「いい子だ、受け取れ、俺の可愛いリリー」 「…」 「こういう時はどうするんだっけ?」 「ありがとう、ジャン」  顔から火が出るほど恥ずかしいが、ロイは素直に礼を言い薔薇の花を受け取る。 「うーん、大分よくなってはきたけど、やっぱりまだまだ仕草もセリフもぎこちないんだよな」  ジャンはロイに渡した薔薇を再び自らの手に取り、ロイのシュミーズの胸元に器用に飾りながら眉間にシワを寄せた。 (そんな簡単に女の真似ができるようになるかよ)    助けてもらったからにはやるしかないと分かっていても、ロイにだって男としてのプライドがある。ロイは黙ってジャンを見上げたが、思いのほか気持ちが顔に出てしまっていたのだろう。 「そんな反抗的な顔すんなよ」 「…申し訳ありません」  心を読まれたような気がして謝ると、ジャンは首を振ってロイに笑いかける。 「別にいいよ、俺、お前のおとなしそうに見えて、実はすごく反骨精神があって気が強いところ気に入ってるから」  それは、人から初めて言われた言葉だった。どう返事をすればいいのかわからず目を伏せるロイを凝視したまま、ジャンは言葉を続ける。 「お前ってさ、多分、色々なこと我慢して、本当の自分を抑えて生きてきたんだよ。それがきっとアポロンで爆発したんだろうな」  そうなのだろうか?自分にはわからない。幼い頃から、ただ母と妹のために自分はどうすべきなのかだけを考え必死に生きてきたから、ロイには本当の自分という概念すらなかった。 「初めて会った時、俺お前に人間?って聞いただろう?実はあの時さ、窓から飛びおりてくるおまえの背中に羽が見えて、この世の者じゃない天使だと思ったんだ。天使と言っても子どもの可愛い天使じゃないぜ。あの悪魔と戦った大天使ミカエル様」  ジャンの言葉があまりにも恐れ多くて、ロイは首を横に振る。 「俺にはそう見えたんだからいいんだよ!とにかく俺はそれくらいお前をかってるの。 だから、これからも俺はお前に沢山無理難題ぶつけるけど、自分には無理だと絶対に思わないでほしい。それに、演劇で男が女を演じるのは決して恥ずかしいことじゃないんだ。俺も学生時代女役やってたし」  驚愕するロイの顔を見て、ジャンは悪戯っ子のように笑う。 「大学の正規の教育にもなってるんだぜ、演劇は。まあ修辞学を用いて相手にに語る雄弁術を身につけるには演劇が有効だってのが表向きの理由だけど、人間は本能的に演劇で得られる魂の喜びを知ってるんだよ。 正直まだまだ俳優や劇作家の地位は低いし、演劇なんて娼館の慰みと変わらないと言う奴もいるが俺はそうは思わない。演劇には人の心を動かし感動させる力が絶対にあるんだ」  途中ロイには難しい言葉も沢山あったが、ジャンの熱のこもった口調は、ロイの中にある羞恥心を打ち砕いていく。 「ジャン様!」  とその時、屋敷から初老の女性が出てきてジャンの元へかけよってきた。 「窓からジャン様の姿が見えてびっくりしました。帰って来るとわかってたらすぐ馬車でお迎えに参りましたのに」 「馬車は尻が痛くなるからあまり好きじゃないんだ。それより今日父はいないよな」 「旦那様は今週は会議でロンドンのタウンハウスに滞在中です。知ってて今日いらっしゃったんでしょう」 「まあな」  ジャンとその女性は、互いに目配せし親しげに笑いあう。 「ところでそちらの方は?」 「ああ、この子は俺の新しい恋人だ」 「ち、違います!」    焦って否定するロイに、その女性はわかってますよと頷いてみせる。 「本当に小さい頃からイタズラ好きで、人をからかってばかりいるんですよジャン様は、でも根はとても純粋でいい子なので、どうぞこれからも仲良くしてやってくださいね」 「いい子ってアンナ、俺はもう23だぞ」 「23なんてまだまだひよっこですよ。姿形はすっかり成長して立派な若者に見えますけどね」 「まったく、アンナにはかなわないな、ところで母さんの具合はどう?」 「少し良くはなってきましたが、やはり以前のようには…」 「そうか…」  アランという名前が出てきた途端、先ほどまでの和やかな空気は消え失せ、二人の間に重苦しい空気が流れる。ロイは黙って二人の様子を見守っていたが、やがてアンナが空気を変えようとするように明るい声で言った。 「でも、奥様もジャン様の姿を見ればきっと元気になると思うので早く参りましょう。えーとジャン様、この方のお名前は?」 「リリーだ」  当然のようにジャンが答え、ロイは仕方なく黙りこむ。 「ではリリー様も一緒にこちらへどうぞ」  結局、今回も名前を訂正することができず、複雑な気持ちを抱えながらも、ロイは二人に続き、気後れするほど壮麗な屋敷へと入っていった。

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