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第十六話

 庭に出ると、昨日娼館に連れて行ってくれた御者が、馬車の用意をして待っていた。だが、二人が馬車に乗り込もうとしたその時、突然、馬の蹄の音と共に一際大きな声が響き渡る。 「ジャン!」  やってきたのは、身分の高さが一目でうかがえる割腹の良い男。目尻に深い皺が刻まれ、口髭を生やしたその顔は老年にも見えるが、背筋の伸びた逞しい身体で馬を乗りこなす様は若々しくすらある。  男は馬に乗ったままロイ達の近くまでやってくると、威圧的な態度でジャンを見下ろした。 「お帰りなさいませ、フランシス様」  恭しく頭を下げる御者の言葉で、ロイはこの男がジャンの父であることを察する。  フランシスは、御者も、すぐ側に立っているロイも、まるでそこに存在していないかのように無視し、ジャンに向かって言葉を発した。 「どこへ行く?」 「やあ父さん久しぶり、随分早いお帰りで」 「ふざけた口をきかず質問に答えろ!どこへ行くのかと聞いてるんだ!」 「ちょっとこれから大切な用事があって…」 「何が大切な用事だ、どうせまたエドワードと組んでくだらない演劇ごっこでもするつもりだろう」  ジャンが言い終わらぬうちに、フランシスはジャンの言葉を一笑に付す。 「今のお前にそんなお遊びをしている暇はない。お前には、亡くなったアランに代わってヘッドヴァン家を繁栄させていく義務がある」 「悪いけど俺は兄さんと違ってできが悪い。父さんの期待には答えられないよ」  ジャンは素気なく応え、再び馬車に乗り込もうとしだが、フランシスは突然馬から飛び降り、ジャンの身体を背中から掴んで土の上になぎ倒した。 「いい加減に目を覚ませ!このバカ息子が!」  フランシスはそのままジャンの上に馬乗りになると、ジャンを容赦なく殴り始める。  決闘の時、あんなにも鮮やかに相手を負かしたジャンが、両腕で防御はしているものの、父親には全く反撃しようとしない。 「やめろ!」  ジャンが殴られているのを黙って見ていられなくなったロイは、後ろからフランシスをとめようとしたが、敢え無く乱暴に突き飛ばされる。  「ロイ!危ないから下がってろ!」  その瞬間、それまで無抵抗だったジャンが大声で叫び、怒りもあらわにフランシスの胸倉を掴んだ。 「あんたの相手は俺だろう!」 「ほう、いつも私の前ではビクついて逃げるだけのお前が、感情的に怒鳴るところなんて初めて見たな」  激昂する息子を、物珍しいものでも見るように眺めるフランシスに、ジャンは大きくため息をつき応える。 「あんたが俺に関心なくて見たことなかっただけでしょう。彼はうちの大事な俳優なんです。殴るなら俺を殴ってください」 「二人ともやめて!」  とその時、騒ぎに気付いたリディア夫人とアンナが、血相を変えて屋敷から出てきて、ロイ達の方へ走ってくる。 「こんなところで一体何をしているの!お願いだから親子で争わないでちょうだい! フランシス!ジャンはあなたと話し合いたいと言っていたのよ、一方的に殴らずジャンの話を聞いてあげて!」 「お前がそんな風に甘やかすから、こいつはこんな腰抜けになったんだぞ!」 「ジャンは腰抜けなんかじゃないわ!どうしてあなたはジャンに対してそんな酷いことを言うの?」  一見弱々しく夫に従順そうな見た目に反して、リディアは意外にもフランシスの言葉に一歩も引かなかった。 「お前は何もわかっていない!こいつは貴族としての誇りや責任から逃げ、演劇なんぞにうつつを抜かし怠惰な生活を送っているんだぞ!」 「いいえ!ジャンは責任感を持ってちゃんと仕事をしているわ!それに演劇は女王陛下も保護している立派な芸術よ!」 「立派な芸術?」  リディアの反論を、フランシスは吐き捨てるように笑う。 「処刑されたエセックスも、あいつに心酔していたサウサンプトン伯も、反逆者は皆演劇を支援していたな!いいか?演劇は貴族だけじゃない、市民や卑しい身分の者まで調子づかせる最悪な見世物だ!そんなものを取り締まりもせず保護なんてしてきたから、劇作家も俳優も宮廷をコケにし、陛下もあんな口だけが達者な詩人気取りの若造に足元を掬われたんだ!」  女王陛下への侮辱にも取られかねないフランシスの暴言に、リディアはたちまち青ざめる。 「あなた!なんて恐ろしいことを!そんな言葉もし陛下の耳に入ったら…」  感情のまま罵詈雑言を吐いていたフランシスも、自分の失言に気づいたのだろう。我に返ったようにジャンから離れ、リディアの肩を優しく抱き寄せると、素直に謝罪の言葉を口にする。 「すまないリディア、どうかさっきの言葉は忘れてくれないか?」  リディアは夫の言動をすぐに許し、その手に自分の手を重ねた。 「わかっているわフランシス。もう二度と、陛下を貶めるような発言はしないと誓ってちょうだい。それから、ジャンの話もちゃんと聞いてあげて」 「いや、私が謝罪したのは陛下への失言だけだ。ジャンには今すぐ演劇をやめてもらう」 「今すぐってあなた、この間はエドワードではなく、私がジャンの支援をするなら少しの間は目を瞑るとおっしゃってたじゃない」 「ああ、確かにあの時はそう言った。ところがそうもいかなくなったんだよリディア。 今年の女王の行幸、一体どこに決まったと思う?」 「え?」  リディアの返事を待たず、フランシスは興奮した口調で言葉を続ける。 「我がヘッドヴァン家だ!今年は陛下の体調や心労を考慮して遠出はせず、我が屋敷に滞在することになったんだよ!」 「まあ!光栄だけどなんて恐れ多いのかしら!それは本当なの?」  二人の会話に、ロイは愕然とした。  女王陛下が家にやってきて滞在するなんて、ジャンという人間は、一体どれだけ自分と身分がかけ離れているのか…驚きを隠せぬままジャンを見やると、ジャンが何やらロイに合図を送ってきていることに気がついた。 (あの馬まで走るぞ)  目線と口の動きでその意図を察し、ロイはフランシスが乗ってきた馬と自分の距離を密かに目視する。 「陛下をどれだけ満足させることができるか、全て君の裁量にかかっている。そして私は、ジャンを新たなヘッドヴァン家の後継者として陛下に紹介するつもりだ。私が今すぐと言った意味が君にもわかっただろう?」 「ええ、でも…」 (行くぞ!)  合図とともに駆け出し、ロイはジャンの腕に引っ張りあげられ、乗ったこともない馬に必死に飛び乗る。 「ジャン!」  フランシスが呼び止めた時にはすでに、二人を乗せた馬は全速力で走り出していた。 「しっかり掴まってろよ!」  ジャンの力強い声と、広い背中から伝わる体温が、激しく不安定な馬上にいながらも、ロイの心を落ち着かせていく。  この時、ロイはなぜか父の背中を思い出していた。靴職人として一流だった頃の父が、一心に靴と向き合う、逞しくて大きな背中。   『ロイも大きくなったら靴職人になりたいか?』 『うん!』  不意に脳裏を掠める、膝の上に乗るロイの頭を撫で嬉しそうに笑う、人が変わってしまう前の、唯一優しい父との記憶。    父はかつて、貴族に指名されるほど腕の立つ靴職人だった。無口で職人肌だが愛情深い父ジャックと、料理上手で優しく敬虔な母マリア、可愛いくて無邪気な妹ソフィ。ロイ達家族は、ロンドンのフリート街で家族4人、慎ましくも幸せに暮らしていた。しかしその幸せは、父の堕落と失踪でもろくも崩れ去り、残された家族は貧民街へと追いやられる。  だがそれでも、父の親友ジョージ親方が、徒弟としてロイを引き取ってくれたおかげで、自分達は貧乏でも、希望を失わずに生きていくことができた。いつかジョージ親方のような立派な親方になって、母と妹を幸せにするのだと決めていた。  なのに… 『今まで可哀想に思って黙っててやったが、お前はマリアがジョージと浮気してできた穢れた罪の子なんだよ!』 『ジャックやめて!それは貴方の誤解よ!私はジョージに靡いたことなんてない!どうして私を信じてくれないの?』   『うるせえおまえは黙ってろ!いいかロイ、この淫売女は何年もずっと俺を騙し続けてきたんだ!その金色の髪も、碧い目も、お前は若い頃のマリアにそっくりだ。お前らのように、家長を平気で裏切る淫乱共は、俺が地獄へ突き落としてやる!』  あの日、神の復活を祝うイースターの日。  ありもしない妄想にとり憑かれた父は、突然ロイ達の元へ現れ、出て行けと罵るロイに呪いの台詞を吐き捨て去って行った。そしてその言葉通り、シャイロットという名の地獄の使者を、ロイの元へ送り込んだのだ。 『あなたの父親がした借金の形として、妹さんとお母様を頂きに来たのですが、一応お兄様にも了承を得てからと思いましてね』  ジャイロットの罠と籠絡に絡めとられたロイが、母と妹を助ける唯一の方法は、自分が二人の身代わりになる事。  その上シャイロットは、ロイの家族やジョージ親方を騙すことにもぬかりなかった。  この時代、ギルドという組合に所属している徒弟は、親方に認められて初めて職人になれるのだが、そのことを百も承知なシャイロットは、ジョージ親方の元へ、身なりのいい一人の男を向かわせた。  男は、ロイの父ジャックが失踪していた期間、ロンドンから遠く離れたマンチェスターで、ジャックの仕事の世話やお金の工面をしていた親方の代理人だと名乗り、ロイがジャックの借金を返せるように、今すぐロイを徒弟から職人にして、マンチェスターの親方の元で修行させてあげて欲しいと嘯いたのだ。   少しでもおかしな態度をとれば、母と妹を売り飛ばすと脅されていたロイは、男の話しを黙って受け入れるしかなく…。  ジョージ親方も、母と妹も、ロイを気遣いながらもまんまとその男の話を信じ、ロイは、家族や恩人が住む場所から目と鼻の先、テムズ川を超えた北岸、劇場や娼館が立ち並ぶ歓楽街サザークの娼館アポロンへ売り飛ばされたのだ。 『ロイ、父さんのせいで苦労をかけてごめんね。でも、あなたならきっとすぐに認められて立派な親方になれるわ』  家を出て行く時、何も知らない母が自分にかけてくれた言葉を聞いた時の苦しみが蘇る。  アポロンでの絶望、恐怖、屈辱。全て父が原因だというのに、自分には、父を一生許すことはできないと思っていたのに…なぜ今、ジャンの背中に、父を重ねてしまうのか。 『あなたが、俺に関心がなくて見たことなかっただけでしょ』  ジャンがフランシスに放った言葉には、ジャンの父親への複雑な感情が痛いほど込められているような気がして、ロイは胸が締め付けられる。 (この人には笑っていてほしい。あんな辛そうな顔も、殴られる姿も見たくない)  ジャンの背中にしがみつき、風を切る音を感じながら、ロイは、自分にとってジャンの存在が、とてつもなく大きくなっていることを自覚した。 (この人の役に立ちたい)  自分の中から湧き出る感情に戸惑いながらも、ロイは覚悟を決める。演技などしたことのない自分が、イザベルのような女性を演じることができるとは、まだ到底思うことはできない。  だがそれでも、自分は全力で努力する。他の誰のためでもない、ジャンのために。  ロイの新たな人生の幕開けは、この日から始まったのだ。

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