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第十五話

「それじゃあ母さん、俺たちは仕事があるからもう帰るよ」  ダイニングテーブルに惜しみなく出された、豪勢な朝食もそこそこに、ジャンがリディアに別れを告げる。 「あら、もう行ってしまうの?久しぶりに帰ってきたんだから、もう少しゆっくりしてもいいんじゃない?」 「ごめん母さん、公演まで本当に時間がないんだ。終わったらすぐまた会いに来るから」  ジャンはリディアに親愛を込めたキスをしながらも、その申し出をはっきりと断り、行くぞとロイを促す。  ロイは、お祝いの日以外滅多に食べる事のできない白パンを素早く口に放り込み、慌てて椅子から立ち上がると、名残惜しげに息子を見つめるリディアに心持ち頭を下げ部屋を後にした。 「いいか、サザークに到着したらすぐ別行動だ。俺はアポロンへ行ってあの狸親父に金を渡してくる。お前はトーマスの家へ行きそのままオーク座へ直行しろ。演技云々は後でいいから、とにかくセリフを頭に叩き込め」  中々玄関に辿り着かない長い廊下を歩きながら、厳しい口調で言い放つジャンの差し迫った様子に、いよいよなのだというプレッシャーが、今更のようにロイにのしかかってくる。  昨日からあまりにも色々なことがありすぎて、ロイは今朝まで、自分がここへ来た本来の目的が頭から抜けていたのだ。 「あと、覚えるのは自分の台詞だけじゃない。他の登場人物のセリフも頭に入れとけよ、わかったな、リリー!」 「はい」  だが、後ろを振り向くことなく、早口で指示するジャンに返事をしたロイは、ふとある違和感に気がついた。 (そういえばあの決闘の後から、この人は俺を恋人扱いしなくなったな)  演技のためとはいえ、人前で女性扱いされるのは心底恥ずかしかったので、やめてくれたのは正直有難い。でもだったら、リリーという呼び方もやめて欲しいという思いが、突然ロイの心の中で大きくなっていく。  リリーを本名だと思い込んだジャンは、今まで出会った全ての人々に、ロイをリリーだと紹介してしまった。勿論、その場ですぐに訂正しなかった自分が悪いのだが、ジャンがロイを女性扱いしなくなった今こそ、本当の名前を伝えるチャンスではないだろうか? 「あの!」  ロイは勇気を振り絞り、後ろからジャンを呼んだ。 「なんだ?」  足を止め振り返ったその顔には、先を急ぎたい心情が滲み出ている。しかし、この機会を逃すわけにはいかないと、ロイは気持ちを奮いたたせる。 「俺の名前は、リリーじゃないです」 「へ?」  ロイの発言によほど驚いたのだろう。ジャンは今まで聞いたこともないような間の抜けた声を出し、ロイに尋ねてきた。 「お前、リリーじゃなかったの?」 「リリーは、娼館の主人に付けられた男娼としての名前です。俺の本当の名前じゃない」 「なんで今まで言わなかったんだよ?」 「それは…」  リリーという呼び名を気に入っているように見えた恩人に対する遠慮。めまぐるしく変わる状況に言うタイミングを逃してしまったなど、ロイなりに色々理由はあるものの、うまく説明することができない。  どう伝えればいいのか考えこむロイに、ジャンはもう一度問いかけてきた。 「じゃあ質問を変えてやろう。なぜ今それを言った?」  ジャンの口調は決して優しいものではなかったが、その質問になら、ロイは一言で応えることができる。 「あなたには、本当の名前で俺を呼んでほしいと思ったからです」  気持ちをしっかりと伝えたくて、ロイはジャンに数歩近づき、真っ直ぐ見つめ返答する。するとジャンは、突然目を伏せロイに背中を向けてしまった。  「あの、ごめんなさい俺…」  ジャンの態度を見て、自分の言動は貴族に対して無礼だったのかもしれないと落胆し謝ると、ジャンは前を向いたまま首を横に振る。 「いや、謝る必要はない。それで?本当の名前はなんなんだ?」  怒っているわけではないのだと安心したロイは、名前を聞かれたことが嬉しくて、自らジャンの正面へ行き、もう一度真っ直ぐジャンを見上げた。ジャンはなぜか心持ち赤くなっているように見えたが、ロイは気にせず、自分の名を、初めてジャンの前で口にする。 「俺の名前は、ロイです」 「ロイか、いい名前だな。だが、俺はリリーもお前に合ってると思うぞ」 「なんでですか?」  納得できない心情が口調に出ていたのだろう。ジャンは、そう怒るなよと苦笑いしながら言葉を続ける。 「別にロイが良くないと言ってるわけじゃない。お前はリリーの花言葉を知ってるか?」 「いいえ、知らないです」 「リリーは花の名前だが色によって花言葉が違う。赤は虚栄心、黄色は偽り、オレンジは華麗と軽率。そして白は、純潔と威厳だ。 お前もプロテスタントなら、リリーが聖母マリアを表す純潔のシンボルだってのは聞いた事あるだろう?俺は個人的に、お前には白い百合が良く似合うと思ってる」  花言葉など全く知らなかったロイは、ジャンの博識に妙に感心してしまう。 「まあ、おまえにとっては不本意だっただろうが、もしかしたらその名前のおかげで、お前は純潔なままアポロンから逃げだせたのかもしれないぞ。イザベルとも結局寝れなかったんだろう?」 「…!」  しかし、突然童貞であることを揶揄われ、ロイは思わず紅くなりジャンを睨んだ。 「ごめんごめん、そんな睨むなよ、俺が騒ぎ起こして邪魔しちゃったんだもんな」 「別に、邪魔なんてしてないです」 「え?じゃあイザベルと寝たのか?」 「寝てないです!」  ついむきになって否定すると、ジャンはやっぱりなと言って笑う。その笑顔があまりにも嬉しそうで、ロイは、やはりジャンは、イザベルに思いを寄せていたのだと確信した。 「まあそんなわけでこれからもお前をリリーと呼んでいいか?舞台で女役をしていく上でも、リリーを芸名にするのもいいだろう?」 「…はい」  結局上手く言いくるめられただけのような気もするが、ロイは仕方なく頷く。ただ、ロイには一つだけ譲れないことがあった。 「芸名はリリーでいいです。だけどあなたには、本当の名前で呼んでほしい」  自分でも、なぜそこまでこだわるのかわからなかったが、ロイはジャンに懇願する。 「うーん、どうしようかな?俺もリリーって呼ぶのに慣れちゃったしな」 「お願いですジャン!」  ロイを揶揄うように戯けていたジャンが、突然ハッとしたように口を閉ざしロイを見つめた。 「なるほど、確かに、自分の名前を呼んでもらえるのは嬉しいものだな」  一瞬ジャンの言葉の意味がわからなかったが、ふとロイは、昨日、この屋敷の美しい庭で、様はつけるな、ジャンと呼べと命じられた時のことを思い出す。  あの時の自分は、ジャンを敬称なしで呼ぶのにまだ抵抗があった。なのに今ロイは、すんなりと彼をジャンと呼び、ジャンにも、ロイと呼んでほしいと心から望んでいる。 「それじゃあ二人だけの時は、俺もお前を本当の名前で呼ばせてもらう」  ジャンは少し咳払いをした後、照れたように笑い、初めてロイの名前を口にした。 「ロイ、行くぞ」  この時感じた、ジワジワと心が満たされていくような喜びを、ロイは一生忘れることはないだろう。幼い頃、微睡みの中にいる自分の額を、母に優しく撫でられている時にも似た、甘くて心が擽ったくなるような幸福感。 「ありがとうございます!ジャン」  自然と笑顔が溢れ、弾んだ声でお礼を言うと、ジャンはまたもやロイから目をそらし、口元を押さえて前を向いてしまった。 「急ぐぞ!」 「はい」  ロイは、足早に歩き出すジャンに引き離されないよう、その背中を見つめ一心についていく。

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