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第十四話

 イザベルと共に去っていくリリーの背中を見送りながら、ジャンは訳のわからない苛立ちを持て余し、煽る様にグラスに入ったワインを飲み干す。 (くそ!酒が全然美味く感じない)      ジャンがイザベルと出会ったのは、14歳の頃。貴族の嗜みと父と兄に連れてこられた高級娼館Venusで、初めての相手として充てがわれたのがイザベルだったのだ。イザベルは、その美しさと天性の魔性でみるみる頭角を現し、今やジャンの父フランシスを始めとする貴族から豪商まで、莫大な権力と財力、両方合わせもつ男達ばかりを顧客に持つ一流のクルチザンヌへと上りつめた。    ジャンは、自分やフレディの前では率直な物言いをするイザベルが、父や他の客の前では全く違う姿を見せ、それぞれの男の理想とする女性を、無意識に演じ分けていることを知っている。  それはイザベルが天から授けられた才能であり、もし女が舞台に上がることを許されるのならば、ジャンは迷いなくイザベルをスカウトしていただろう。    彼女なら、自分が面白く刺激的だと思えば、舞台に立つことも厭わないと確信している。でなければ、ヘッドヴァン家の放蕩息子であるジャンと会い続けたり、ジャンが突然連れてきた、どこの誰ともわからない若者を、自らの寝室に招き入れたりするわけがない。ジャンはイザベルの、相手の地位や権力よりも、自分の好奇心を優先させる姿勢も心底気に入っていた。    それなのに、なぜか今日、ジャンはイザベルの言動すべてが癪に障ったのだ。リリーに対する艶やかな微笑みも、ジャンを揶揄する口調も、全部が不愉快でしかなく、ジャンは大人げない態度を隠すことができなかった。 (どうしたんだ俺は、一体何に苛ついているんだ?)  しばし考え、リリーの真っ赤に染まった頬の感触を思い出した時、ジャンは、リリーが美しいイザベルに明らかに魅了されている姿が気に食わなかったことに気付き愕然とする。 (いやいや違う、それじゃまるで嫉妬じゃないか、そんなわけがない。リリーをイザベルと引き会わせて女を知ってもらおうと考えたのは他でもない俺だぞ。この方法が吉と出るか凶と出るかは賭けに近いが…そうか!)  そこまで考え、ジャンは突然自分を納得させる最善の理由を思いつく。  ジャンは不安になったのだ。もしリリーがイザベルに本気で夢中になってしまったら、今はまだ中性的な少年の面ざしに、男としての欲望が強く宿り、ジャンの理想とするアリアンを演じられなくなってしまうかもしれない。  ジャンは、リリーの清廉な美しさを気に入っていたが、アリアンを演じるには、男を惑わす奔放な色気が足りないとも思っていた。だからこそイザベルを知り、演技の糧にして欲しいと望んだわけだが、もしリリーがイザベルに溺れてしまったら、ジャンの目論みは外れてしまう。 (なるほど、だからイライラしていたんだな、俺は…)  嫉妬ではないと自分を納得させることができたおかげで、ジャンの心は幾分落ち着く。  妙な感情に動揺していた自分を嘲笑い、テーブルからワイングラスをもう一杯取ろうとしたその時、何やら周りが騒がしくなり、言い争う声が聞こえてきた。 「ヘンリー様、どうか落ち着いてください」 「私はイザベルに会いたいと言ってるだけだ」 「イザベルは今席を外しております」 「ここのところ毎日のように会えないのは一体なぜなんだ!イザベルは私を避けているのか!」 「滅相もございません」  騒ぎの主を見たジャンは、面倒なことになりそうだと慌てて屈みテーブルの下に身を隠そうとする。しかし、時すでに遅く、男は目ざとくジャンを見つけ、颯爽とした足どりでジャンの元へやってきた。 「久しぶりだな。まさかこんなところでお前に会えるとは思わなかったよ」 「…ああ、久しぶり」  男の名はヘンリー・パーサー。オックスフォード大学の同級生で貿易商アレクサンドル・パーサーの息子だ。  貴族に対して、強烈な劣等感とライバル意識を持つこの男は、学生時代から何かとジャンに突っかかってきた。おそらく、ヘッドヴァン家の人間でありながら学業の成績も振るわず、劇作家に興じているジャンは、ヘンリーにとって、貴族への不満をぶつける格好の的だったのだろう。    ヘンリーがVenusに通い始めたことは、随分前にイザベルから聞いて知っていたが、まさか久々にここへ来て、父の次に苦手なこの男に会ってしまうとは、自分の運のなさにつくづく失望してしまう。 「聞いたぞ、お前とは似ても似つかない優秀な兄が亡くなったそうだな。大学の時からろくに授業も受けず、劇場や薄汚いサザクのパブに通っていたお前が、あのヘッドヴァン家の後継者とは、運命の神は残酷なことをするものだ。俺はお前の父上に同情を禁じえないよ」 「俺も全く同意見だよヘンリー。それじゃあまた…」  ヘンリーの言葉に込められた嫌味を受け流し、ジャンはそそくさとその場を離れようとする。 「それにしても、兄が死んだ途端浮かれて娼館通いとはな、兄の死を一番喜んでいるのは間違い無くお前だろう」 「…は?」  だが、次にヘンリーが発した言葉はさすがに聞き捨てならず、ジャンは思わず足を止め、ヘンリーを睨みつける。 「どうゆう意味だ?」 「面白くもない話を書いてるうちに、言葉の意味も理解できなくなったのか?優秀なお兄様が死んでくれて、家も財産も後々全てお前のものになるのだから、お前も笑いが止まらないだろう?」 (ダメだ、こんな奴の挑発に乗るな)  頭の片隅でもう一人の自分の声が聞こえたが、ここまで言われて黙っていられるほど、自分はお人好しではない。この男を侮辱してやりたいという衝動にかられたジャンは、言葉の刃を突きつけんとヘンリーに牙をむく。 「パーサー家の優秀な跡取りが、随分下世話なことを言うもんだな。生憎俺は育ちがいいんでね、そんな卑劣な発想浮かびもしなかったよ。家族の死を望むほど財産や貴族の称号を欲しがってるのはおまえだろう?パーサー家の一人息子は父親に比べて商才がないって噂が広まってるから焦ってるのか?」 「なんだと!」 「それに、勘違いしてるようだから教えてやるが、俺がここに通い始めたのは兄が死んでからじゃない。お前がさっきが会いたいと喚いていたイザベルとは14からの付き合いでな。ついさっきも会ったばかりだ。 おまえが心底見下している俺がイザベルに会えて、なぜおまえが会えないのか、いい加減その理由と自分の滑稽さに気づいたらどうだ?」  一度喧嘩を買ったら容赦はしない。ヘンリーの自尊心を完膚なきまで傷つけ、ジャンは敢えてバカにしたように笑い言い放った。ヘンリーはみるみる顔色を変え、傍目にもわかるほどブルブルと怒りで体を震わせる。 「ふざけるな!この俺をコケにしやがって!」  叫ぶと同時に、ヘンリーは決闘だと剣を抜いた。突然の乱闘騒ぎに、人々は慌てて二人から離れたが、プライドを守るための決闘は珍しいものではなく、二人を止めようとする者は誰もいない。ここまで想定していなかったジャンは、今更のように後悔しながらも、防衛のため飾りのように身につけている剣を自らも抜き、相手の出方を構え待つ。 「いいか、俺が勝ったらイザベルは俺の物だ!今ここでどちらがイザベルに相応しい男かはっきりさせてやる!」 (イザベルはどっちが勝とうと誰の物にもならねーよ!そもそも、俺がお前に切れたのはイザベルが原因じゃねーし)  心の中で悪態をつき、ジャンはどうすればこの決闘を早く穏便に終わらせることができるのか、冷静に考え始めていた。 「わかった、その代わり、俺が勝ったらおまえはもう二度とイザベルに近づかないと誓うか?」 「当たり前だ!男に二言はない!」  言うやいなや、ヘンリーは剣を振りかざしジャンに襲いかかってくる。  ジャンはその剣先を自らの剣で受け止め軽やかに後ろに退くと、次は自分の番だとばかりに前進し、致命傷にならない腕を狙ってヘンリーの服と皮膚を切り裂いた。浅い傷とはいえ、血を流したヘンリーは、痛みに顔を歪めその場に座り込む。 「勝負はついたな、これに懲りたら、二度と俺に突っかかってくるなよ」  決闘は戦争のように殺し合うものではなく、相手に怪我をさせたほうが勝ちとなる。  幼い頃から実戦的なフェンシングを嗜んできたジャンには、ヘンリーの動きが幼い子供のように拙く見え拍子抜けしたが、とにかく、この望まぬ決闘が終わったことに心からホッとした。 「お二人とも、見事でした!」  悔しさを全身に滲ませるヘンリーの元に、すかさずフレディが、健闘を称えるように拍手しながら駆け寄り、給仕達に怪我の手当てを命じる。  決闘の緊張感から解放されたジャンは剣を収め、自分達を囲むように集まっていた客たちをふと見渡すと、大勢の見物人達の中に、リリーとイザベルがいるのを見つけた。二人でイザベルの寝室に消えてから大して時間が経っていない事を考えると、リリーはまだ、イザベルを抱いていないのだろう。  その事実にどこか安心している自分の感情を見過ごし、ジャンは二人に声をかけようと手を挙げる。すると次の瞬間、リリーが切羽詰まった表情を浮かべ大声で叫んだ。 「後ろ!」  それは一瞬の出来事だった。もし気づくのがほんの数秒でも遅れていたら、ジャンの命はなかったかもしれない。なりふり構わず剣を持ち突進してきたヘンリーを、ジャンは間一髪で避け、ヘンリーはその勢いのまま前のめりに倒れこむ。 「取り押さえろ!」  みっともなく床に突っ伏したヘンリーは、給仕兼ボデイガードでもある屈強の男達に、なすすべもなく後ろから押さえつけられた。 「ヘンリー!勝負はついているのにも関わらず、剣を収めた人間に斬りかかるのは卑怯以外の何物でもない。あなたをこのVenusに招き入ることは金輪際二度とないだろう!」  常に穏やかな紳士然としたフレディの剣幕に人々は驚愕したが、それ以上にヘンリーを震え上がらせたのは、フレディが彼にだけ小声で囁いた、パーサー家の名誉とヘンリーの命に関る脅迫。 「こ…こんな店、私の方から願い下げだ!」  ヘンリーは負け犬の遠吠えのようにそれだけ言うと、怪我を負った腕を押さえ逃げるように去って行った。 「全く危ないところだったぜ、最初からあんたがあいつらを出して止めてくれればこんな面倒なことにならなかったのに」  ヘンリーが居なくなり、ジャンは、憎まれ口を叩きながらフレディに笑いかける。 「一人の女性をかけた男同士の戦いを止めるなんて野暮なこと私にはできませんよ。それに、命がけの決闘をさせるほど二人の男を夢中にさせたと、イザベルの名声は益々高まり商品価値も上がる」 「なるほどね」  高級娼館の主人らしいフレディの言葉に感心していると、リリーとイザベルが二人の元へ駆け寄ってきた。 「ヘンリーが大声で叫んでたけど、私をかけて戦ってたの?あなたが?」 「どうもそうらしい」  ジャンは冗談めかしたように応え、イザベルも連られたように笑い肩を竦める。 「でも助かったわ、実は私、あの人すごく苦手だったの」  刃傷沙汰があった後とは思えないほど軽やかな口調で話すイザベルとジャンの横で、一人深刻な表情のまま佇むリリーに気づいたジャンは、優しく声をかける。 「リリー、おまえが後ろ!と叫んでくれたおかげで助かったよ、あれがジャン!や危ない!だったらすぐに反応できなかっただろうからな」  リリーは硬い表情を崩さぬまま静かに頷き、礼を言うジャンをじっと見上げていたが、突然その瞳から一筋の涙が零れ落ち、ジャンは息を飲む。 「あ…ごめんなさい…俺」  リリーは、泣いている自分を恥じるように俯き言葉を続ける。 「よかったです。あなたが無事で…」  涙を拭い、もう一度顔を上げたリリーの表情は喜びに溢れ、花が綻ぶように笑っていた。  この時、ジャンは初めて、無垢で純粋な涙の美しさを知る。そしてそれは、自分の心に芽生えた小さな違和感の正体が恋であることを、絶望的に自覚した瞬間だった。

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