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第四十七話

  ロイとジョージ親方が立ち去った後、客人を持て成すために置かれた趣きのある家具や、美しい絵画が飾られた壮麗な空間におよそ似つかわしくない重苦しいため息が、ジャンの口から漏れる。 「あれでよかったのか?ロイは完全に誤解してたぞ」 「仕方ないだろ!あの親方の誤解を解くにはああ言う以外、他になんて言えばよかったんだ!」  トーマスの言葉に、ジャンは声を荒げ反論したが、すぐに思い直したように謝罪した。 「すまない」 「いや、俺こそわるかった。確かにおまえの言う通りだよ…」  それきり2人は黙り込み、ジャンは先程までロイが座っていた椅子に座ると、テーブルの上で祈るように手を組み目を伏せる。 『俺はもう、いらないってことですか?』  ジョージ親方の横に立ち、悲しげな瞳でジャンに尋ねてきたロイ。その姿を見た時、ジャンは、人目も憚らず、ロイを強く抱きしめたい衝動に駆られた。違う、本当はずっと自分の側にいて欲しいのだと叫びたかった。  思えばあの御前公演の日が、ジャンにとってまさに幸せの絶頂だったのかもしれない。  ロイの表情、仕草、その全てがジャンの心を惑わし、ロイの瞳が自分を見つめるたびに、ジャンはまるで、女を知らない少年のようにときめき胸を高鳴らせた。  だがジャンは、ロイへの想いを隠しきれず軽はずみだったあの日の自分を後悔している。  自らを責め苛立ちながら、ジャンは、御前公演の日に交わした、父とのやり取りを思いだす。   『大したものだったな、女王に気に入られたおまえを、ロバートも中々骨のある青年のようだと褒めていたよ』  御前公演が終わり、舞台の成功と、エドワード伯爵解放の歓喜に沸く中、フランシスは何食わぬ顔で、ジャンに話しかけてきた。  そこでジャンは改めて、自分は兄の代わりになる気も、セシルの娘と結婚する気もないと、ヘッドヴァン家との決別を父に宣言する。 『さよなら父さん、母さんには近いうちに俺からちゃんと話します。その後はもう、俺がこの家に戻ることは二度とない』  この選択が父のみならず、母を悲しませ、ヘッドヴァン家の未来に関わる重大なものである事はわかっていた。それでもジャンは、覚悟を決めて告げたのだ。  かつて父に言った、期待に答えられないなどという曖昧な言葉ではなく、貴族であることも、母の愛も、兄への想いも、全て本気で捨てる覚悟を。そんなジャンに向かって、フランシスが不意に投げかけた言葉。 『アリアン役の少年を、おまえは随分気に入っているようだな』  あの時感じた、身体中の血全て抜かれていくような恐怖を、今でも忘れる事ができない。 『彼は我が劇団の有望株ですから、いい役者でしょう?』 『さあ?わからんな。俺には絵空事で泣いたり喚いたりする人間の気がしれない。おまえもよく恥ずかしげもなくあんな真似ができたものだ』 『その絵空事を、陛下はとても気に入ってくださいましたが?』 『…陛下が御存命の間、おまえはせいぜい束の間の自由を満喫すればいい。私は、おまえを後継者にすることも、ロバートの娘との結婚も諦めない。どんな手を使ってもな』  少しでも動揺する素振りを見せたら終わりだと、ジャンは最後まで努めて平静に振る舞い続けたが、別れ際に交わした父とのやりとりは、ジャンの不安を増大させた。  あの日確かに勝ちとった勝利も自由も、永遠に続くわけではないという警戒心が常に付き纏い、心が休まることはない。  父がジャンの、ロイへの恋心に気づいたとまではさすがに思えないが、とにかく用心するにこしたことはないと、ジャンはロイへの想いを封印し、すぐにハリー役のオーディションを行ったのだ。    ロイは貴族であるエドワード伯爵とは立場が違う。なんの地位も持たないロイを、ジャンはなんとしても守らなくてはならない。  あの舞台上の夢のひと時、幸福だった刹那の思い出を胸に、ロイを永遠に見守っていく。それが、ジャンの決めた愛し方だった。  だが、ロイの昔の恩人の出現は、そんなジャンの決意を簡単に揺るがしてしまう。   『相手が娼館の客からこの男に変わったってだけだろう!』 (できるならとっくにそうしたいさ!)  ジョージ親方の言葉を聞いた時、自分の中からわきあがってきた誤魔化しようのない本音。  結局、愛だ恋だ守るだと綺麗事並べたって、欲望を抱いてロイを見つめる自分は、娼館の客と変わらない。元々ジャンは、神への信仰心も罪悪感も、自分の願いを叶えるためなら簡単に捨ててしまえる男だ。あるのは他人や身内、生身の人間からの悪意に対する恐れだけ。    ロイを危険な目に合わせたくない気持ちとは裏腹に、ジャンはずっと、ロイを我が者にしたかった。演技でもふりでもなく、本当の恋人同士として口付けをかわし抱きしめあいたい。  この腕の中で、触れたことのない場所を互いに触れ、愛しているとロイの耳元で囁きたい。 「なあ、ジャン」  トーマスに声をかけられ、ジャンの心は今いる現実に戻される。 「…ああ、わるいトーマス、おまえは帰って、新作の執筆にとりかかってくれ」  気がつけば長い時間、トーマスは無言で、自分の殻に閉じ籠るジャンの側にいてくれたようだ。 「いや、いいんだ、それよりさ、これから2人でちゃんとロイの誤解を解いて説得しに行かないか?今回の俺の新作も、ロイをイメージして書いたし、ロイにはオーク座を続けて欲しいんだ」 「…」  黙って聞くジャンを気遣ったのか、トーマスはさらに優しい口調で言葉を続ける。 「それからさ、頼むからおまえは自分を責めすぎないでくれ。あんな下衆の勘繰りされたら、おまえだってああ言うしかない」  トーマスは少し捻くれたところもあるが、一度仲良くなったら裏切ることはない誠実な男だ。だが、下衆な勘繰りという言葉が、ジャンの心を微かに引っ掻き傷をつける。  この男は、ジャンがロイに恋している事を知っても、変わらず友でいてくれるだろうか?  劇作家としてさらに成功するため、ヘッドヴァン家から独立し父から逃れるため、ジャンは今、女王の庇護を後ろ盾に、楽しくもない会合や晩餐会に参加し、貴族達と駆け引きをしながら自らの基盤を固めている。でもそんなものは、情勢が変われば簡単に崩れる砂の土台のようなもの。 (人の心ほど、信用できないものはないからな)  魔がさすとは、こういう時を言うのかもしれない。愛しい人を守るため、自分の心に嘘をつき他人に取り繕っても、結局その大切な人を傷つけ手に入れることもできないのなら、今自分のしている事になんの意味があるのか?  もういっそのことこの苦しみを、全て吐き出してしまいたい。それで離れてくなら離れてくで構わない。心を蝕んでいく破滅的な衝動を抑えられなくなったジャンは、トーマスを真っ直ぐ見据え言葉を発する。 「勘繰りじゃないと言ったらどうする?」  その瞬間、2人の間に流れている時が止まり、やがてトーマスは、ゆっくりと口を開きジャンに尋ねた。 「それは…どういう意味だ?もうおまえとロイは、その…」 「関係はない。だが俺は、あいつの全てが欲しいと思っている。ジョージ親方の言う通り、俺は汚れた欲望にまみれた下衆な人間なんだ」 「やめろ!」  トーマスが声を荒げ、ジャンは、そのまま罵られる事を覚悟して大きく息をする。 「そうやって自分を悪者にして、全ての責任を一人で背負おうとするな!おまえは下衆な人間なんかじゃない!汚れた欲望なんてわざと嫌な言い方してんじゃねえよ!」  だが、トーマスから発せられた言葉は、ジャンが想像していたものとは全く違っていた。 「おまえはロイに恋してるんだろう?そんなこと、俺はとっくに気づいてたんだよ! そりゃ心配もしたし、気のせいだと思おうともしたさ!だけど、好きになっちゃったんなら仕方ないじゃないか!頼むからそんな死にそうな顔で自分を全否定しないでくれ!」  涙が、溢れてしまいそうだった。  失望され、罵られ、自分から去っていくトーマスの姿しか想像していなかったから。 「異常だと罵らないのか?俺は同じ男のロイに恋をしてるんだぞ?ロイが欲しくて、心の中でとっくに罪を犯しているんだぞ?」 「だからなんだよ!恋の行き着く先なんて結局そこだろ!おまえはそれができる立場なのに自分を抑えてロイを守ろうとしてるんだろう?」 「でも…」  それでもまだ信じられず問いかけようとするジャンをトーマスは遮る。 「いいか!真の恋の道ってのはな、荊の道なんだよ!」  その言葉を聞いて、ジャンは思わず吹き出しそうになった。 「おまえそれ、自分の言葉みたいに言ってるけどシェイクスピアじゃないか。 やっぱり天才だよな、あの人は。俺は一生劇作家として彼を超える事はできない」 「そうでもないぜ、俺の中ではおまえも十分天才だ」 「随分俺を買ってくれてるな?褒めても何も出ないぞ?」  敢えて軽口を叩き、ジャンは必死に涙を堪える。そんなジャンを見つめ、トーマスは決然とした口調で言った。 「俺は、おまえが選ぶ道ならどんな道だろうと協力する。それだけは覚えといてくれ」  もう、降参するしかない。親友から無条件に信頼され、肯定される喜び。 「…ありがとう」  心をこめた感謝の言葉は、少し震えていた。 「わかってくれりゃいいんだよ」  トーマスのぶっきらぼうな返答は、学生時代、初めて会話を交わした時の事を思いださせる。  恋の苦しみで自分を見失いかけていた心に光がさし、ジャンは自然と、自分の頬が緩んでいくのを感じた。

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