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第五十話

 ジョージとロイの姿が見えなくなってからも、マリアはしばらく、その場から動くことができなかった。 (大丈夫よ、ロイだって貴族様を前にすれば、きっと考えが変わるわ) 「大丈夫、大丈夫よ…」 「お母さん何言ってるの?お母さん?」  遠慮がち腕を引かれ、ようやく娘が自分を呼んでいることに気がついたマリアは、茫然とソフィを見つめ、今すぐ心を巣食う不安をぶちまけたい衝動に駆られる。 「お母さんさっきから変だよ?顔色も悪いし、どこか具合が悪いの?」  だが、純粋に自分を心配するソフィの声に、マリアは正気を取り戻した。  小柄でまだ幼さが勝る、13歳になったばかりの娘の顔。こんな守られるべき子どもに、自分は一体何を言おうとしているのか。 「ありがとう、大丈夫よ」  マリアは、促されるまま家の中に入り、ソフィに支えられ古びたベッドに寝かされた。 「お願いだから無理しないで。ジョージおじさんも言ってたけど、今日はもうゆっくり休んだほうがいいよ」 「…ええ」  かろうじて返事をしながらも、ソフィの口からジョージの名前が出てきた途端、マリアの心は、鉛でも飲み込んだように重苦しく沈んでいく。  夫ジャックがそうであったように、ロイもソフィも、なんの疑いもなく、ジョージを心から信頼している。しかしマリアだけは、あの男の本性を知っていた。 『全て話してやろうか?』  ジョージがマリアにだけ聞こえるように耳元で囁いた言葉。その全てが何を指すのか、マリアには充分すぎるほど分かっている。 (ロイにもソフィにも知られたくない。私は、罪深い売春婦だ。あの日ジョージに、魂を売ってしまった…)  忘れたくても忘れられない、地獄のような悪夢。  ジャックが失踪し、絶望の最中にいたマリア達家族に、ジョージは最初、無条件で手を指しのべ、ロイを徒弟として雇ってくれた。  ジャックの誤解は、ジョージがありもしない嘘を吹きこんだからでは?と密かに疑っていたマリアも、親身になってロイやソフィを慰め、マリアにも紳士的に振る舞うジョージに、感謝の気持ちを抱いてしまったくらいだ。  だが、それから1年半ほど過ぎた頃、ジョージはマリアの前でだけ、ついにその本性を表す。   『徒弟達の間に、なぜロイだけ特別扱いなんだという不満が出てきている。最近も徒弟達の暴動があったが、あいつらが爆発すると手におえないことは知ってるだろう?俺も辛いところなんだが、これ以上ロイを預かるわけには…』  ジョージにそう打ち明けられた時、マリアは目の前が真っ暗になった。ロイがジョージの店の徒弟になれた事は、自分達家族にとってようやくできた生きる希望だったのだ。  靴職人の親方になって、マリアとソフィを幸せにするんだと嬉しそうに話していたロイ。その夢を、絶対に砕きたくなどなかった。 『お願いよジョージ、どうかそんな殺生なこと言わずロイを辞めさせたりしないで!お願いよ!お願いします!』  必死に頼みこむマリアを見つめ、ジョージが浮かべたのは悪魔の微笑み。その後の事は、もう、思い出したくもない。  マリアがジョージに連れて行かれたのは、家族の幸せな記憶がつまったかつての我が家。ジョージはいつの間にかその家を自分のものにし、愛人に商売をやらせていた。そしてその家でマリアは、罪深い売春婦になりさがったのだ。 『ジャックに嘘を吹きこんだのはやっぱりあなただったのね!』  行為後、真実に気がつき罵るマリアを憎々しげに見下し、ジョージは言い放った。 『嘘?なんのことだかわからないな。 おまえが一人で騒ぎ立てたところで、ロイの親方になる道が閉ざされるだけだ。俺がギルドでどれだけの影響力があるか知ってるだろう? 夫にすら信用されなかったのに、何の力もない貧乏人の女の言葉なんて、他の誰が信じると思う?この世界では、結局金と地位が全てなんだよ。おまえの信じる神も、売春婦になりさがったおまえを決して救いはしない』  その言葉の一言一句が、今だにマリアの心をズタズタに切り裂き、ジョージの支配から逃れようともがくマリアを雁字搦めに抑えつける。 (でもなぜ?なぜジョージは、あんなにも私を憎んでいるの?)  かつてジョージから捨てられたのは自分だ。あの男は、自らマリアよりも金持ちの娘を選んだ。  その後現れ、真っ直ぐマリアを愛してくれたジャックが、ジョージと親しい事を知った時は嫌な偶然だと思ったが、マリアは夫の兄弟子であるジョージに、礼は尽くしてきたつもりだ。 (なのになぜ?)  理由も目的もわからない悪意ほど恐ろしいものはない。そのうちマリアに飽きたのか、段々とジョージがマリアを呼び出す頻度は減り、何もされなくなっていったが、マリアは警戒心を緩めることができなかった。  しかしそれからロイが17になるまで、ジョージはマリアを脅迫することも、ロイを追い出すこともなく、平穏に時は過ぎていった。そう、イースターの日、ジャックがマリア達の前に現れるまでは… 『今まで可哀想に思って黙っててやったが、お前はマリアがジョージと浮気してできた穢れた罪の子なんだよ!』 『いいかロイ、この淫売女は何年もずっと俺を騙し続けてきたんだ!』    あの日ジャックがロイに向かって発した言葉は、ジャックが失踪する前よりも深くマリアの心を抉った。  ロイとソフィは絶対にジャックの子だが、ジャックのいない間、マリアはジャックを裏切った。家族のため、ロイのため、どんなにそう自分に言い聞かせても、ジョージと姦淫した罪は消えるはずもない。  ジャックの借金を返すため、ロイがマンチェスターに行くことになったのは、そんな嵐が過ぎ去った後。  ロイに負担をかけることを申し訳なく思いながらも、マリアはロイがジョージの手から離れられる事にホッとした。まさかその話の影で、ロイが娼館に売られていたなどと夢にも思わずに…  事実を知らされ、マリアは自分の浅はかさを心から悔いたが、ロイの話は、マリアの後悔を救ってくれた。  大貴族に助けられ、演技を学び、女王陛下の御前で公演をする。ロイの話はマリアが少女の頃夢見た御伽噺のようで、マリアは、ロイの身に起こった奇跡と神のお導きに感謝せずにはいられなかった。このままロイにはジョージから離れ、その貴族様の元で自分の道を歩んで欲しい。  なのにロイは、ジョージの元へ戻ると言った。 (でも大丈夫。ジョージだって、女王陛下に近しい貴族様には逆らえないはずよ ああ、お願いします神様、どうかそこで、ロイの考えが変わりますように!)  ベッドに横たわり、目を瞑っても全く眠ることができず、マリアは一人必死に神に祈る。 「ごめんお母さん、ちょっとだけ手を放してくれる?」 「え?」  ソフィに声をかけられ、マリアは自分がベッドに入ってから、ずっと縋るように娘の手を強く握っていたことに気がついた。 「ソフィ、ごめんね、私…」 「いいのよ全然、ただ、今ノックの音がしたから誰か来たみたい、ちょっと見てくるから待ってて」  マリアは、ロイが戻ってきて、考え直したと言いに来たのかもしれないと期待しドアの方を見つめる。 「夜分遅くに申し訳ありません」 「い…いえ!そんな!」  丁寧な言葉遣いと共に現れたのは、一目で身分の高い人間だとわかる、まるで騎士のように立派で美しい青年だった。彼の隣には、同じ年くらいの気の良さそうな青年が一緒に立っている。 「ど、どうしよう!お母さん!」  この辺では見かけることのない、見目麗しい貴族の青年にすっかり動揺したのか、ソフィは真っ赤になって、助けを求めるようにマリアの元へ駆け寄ってくる。 「ああ、もしかして貴方達は」  マリアが慌てて立ち上がろうとすると、その青年はマリアの元に近づき、ベッドの高さと同じ目線になるよう跪いた。 「いいです、横になっていてください。お身体の具合は大丈夫ですか?」 「あっ!そんな、汚いですのでこんなところで膝まずかないでください!」  ソフィの言葉に、青年は大丈夫ですよと優しく微笑む。こんなにも神々しい人間を、マリアは今まで生きてきて一度も見たことがなかった。 (この方だ!この方が、ロイを助けてくださったヘッドヴァン家の御子息、ジャン様なのだ!)  そう確信したマリアは、涙を流し頭を下げる。 「ありがとうございます。ロイを助けてくださって…ありがとうございます…」  何度もありがとうございますを繰り返すマリアに、ジャンは首を振って応えた。 「礼を言わなくてはいけないのは私の方です。 我々の舞台が成功したのはロイのおかげです。 彼がいなかったら、アリアンは公演することすらできなかった。実は、私達はロイに役者を続けてもらいたくて、彼を説得しにきたんです。ロイはここにはいないんですか?」  ジャンの問いかけに応えたのはソフィだった。 「どうしよう。多分行き違いになっちゃったんだと思います。兄は役者ではなく靴職人に戻ると決めてしまって。ジョージおじさんが今日中に伝えた方がいいって、随分前に出て行ったんですけど」 「そうですか、ありがとう、どうやら一足遅かったみたいだね」  ジャンは残念そうにしながらも礼を言い、もう一人の青年と、歩いてタウンハウスの方へ戻ってみようと話はじめたが、マリアの頭の中で、違うという叫びが本能的に響き渡る。  (なんてこと!やはり私は間違っていた! あの男がおとなしくロイを貴族様のところに連れていくわけがなかった) 「夜分遅くに申し訳ありませんでした。ここへはまた改めて…」 「待ってください!ロイを助けてください!」 「え?」 「何言ってるのお母さん?」  マリアの叫びに、驚愕の表情を浮かべる二人と、何も知らないソフィの顔を見た途端、ジョージの声が鮮明に蘇る。 『ジャックにすら信用されなかったのに、何の力もない貧乏人の女の言葉なんて、他の誰が信じると思う?』 『おまえの信じる神は、売春婦になりさがったおまえを決して救いはしない』  自分の言葉など、誰にも届かないかもしれない。いや、もし信じてもらえたとしても、全て話せば、マリアは、ロイにもソフィにも、ここにいるジャン達にも軽蔑されるだろう。 だけど… (もうそんなことはどうでもいい!ロイを助けなくては!) 「お願いです!あの男は悪魔なんです!ロイを助けてください!」 「あの男ってジョージおじさんの事?お母さん何言ってるの?そんなわけないじゃない」 「…!」  勇気を出して放った言葉を実の娘に否定され、マリアは絶望する。   (だめだ、ジャックと同じように、家族すら私よりジョージを信じる。誰もこんな私の言うことなど信じてくれない)  ソフィの姿が自分を否定するジャックと重なり、マリアはそれ以上言葉を発せなくなったが、ジャンが再びマリアの元へ駆け寄り尋ねてきた。 「落ちついて、どういうことなのかゆっくり話せますか?」 「ああ、ジャン様!貴方はジョージではなく私の言う事を聞いてくださるんですね! あの男は、私達を陥れた張本人なんです! 誰も、誰も私を信じてくれない、だけど、だけど本当なんです!あの男は悪魔なんです!本当なんです!」  必死の形相で、悪魔だなんだと叫んでいるマリアは、側から見たら狂った女にしか見えないだろう。しかし、ジャンはマリアの言葉を否定しなかった。 「大丈夫です。私はあなたを信じます。だからどうか全て話してください。ロイは一体どこにいるんですか?」 「ロイはフリート街にある、元々私達の家だった場所に連れて行かれたんです! そこは今あの男の愛人の店になってる。あの悪魔はきっとロイを…」  自分の話しに真剣に耳を傾けるジャンに、マリアは縋りつき訴える。 「お母さんいい加減にして!なんでそんな酷いことを言うの?ジョージおじさんのおかげで私達今まで…」  だが、この期に及んでジョージを庇おうとするソフィの言葉に、マリアの中で、今までなんとか保ってきた母としての理性がプツリと切れた。 「ソフィ!なぜあなたまでジャックと同じように私の話しを信じないの!あの悪魔は私を売春婦のように扱ったのよ! 私達の家だったあの場所で!ジャックがいなくなった後、私は何度もあの男に呼び出された!言う事を聞かなければロイを店から辞めさせると脅されて!私は…」  感情のまま我を失い言葉を吐き出したマリアは、衝撃を隠せず青ざめたソフィの顔を見て我に返る。ついに自分は、全てを娘に話してしまった。きっとこの事はロイにも伝わり、ロイは責任を感じ嘆き悲しむだろう。  マリアはその場で声を上げ泣き崩れる。 (だめだ、自分はもう神様の元へはいけない。 夫を裏切り、自らの罪を隠したいばかりに、ロイを危険に晒し、結局は全てをぶちまけ娘を傷つけた) 「お母さん」  罪の意識に苛まれ、顔をあげられなくなったマリアを、頭上から呼ぶ声がする。マリアは一瞬、それがロイの声に聞こえたが、マリアを母と呼んだのはジャンだった。 「神は必ず貴方を許します。あなたの家族への愛の深さは、きっと神にも届いてる。 主が、罪深いとされる女性に、自らの足を香油で洗い口づけすることを許したように、貴方は絶対に許される。だからどうか、顔を上げてください」  ジャンの声に導かれ、マリアは涙で濡れた顔をゆっくりあげる。神の福音のように愛に溢れた言葉と裏腹に、ジャンの顔に浮かんでいたのは、優しく慈悲深い微笑みではなかった。  しかしその、抑えられない憤りを湛えたジャンの瞳は、かえってマリアを安心させる。   (この人ならきっとロイを、あの悪魔から救ってくれる!) 「今すぐその場所へ連れて行ってください。案内できますか?」 「はい!」  マリアは涙を拭い、自らを奮い立たせるようにベッドから立ち上がった。

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