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第五十一話

 まだ日の高い、深く澄んだ郡青色の空の下、ロイは一人フリート街を歩いていた。  昔と変わらない懐かしい街並み。久しぶりねと親し気に声をかけてくるパン屋のターニャおばさん。その3軒先に、見慣れた我が家が見えてくる。 (おかえりお兄ちゃん) (ただいま)  店番をしていたソフィが、帰ってきたロイを笑顔で向かえた。 (母さんがもうすぐご飯できるって、あ、父さん今集中してるから、話かけないようにね) (わかった)  返事をしながら、店奥の作業場に入っていくと、そこには、一心に靴を作る父の後ろ姿があった。自分が成長したからか、記憶より小さく見える父の背中が目に入ってきた途端、ロイは父にしがみつき泣き出したい衝動に駆られる。 (父さん…)  すると父は振りかえり、優しくロイに言った。 (おかえり、ロイ)  そこでもう分かってしまった、これは夢なのだと。父は立ち上がり、ゆっくりとロイの側まで歩いてくると、真っ直ぐロイを見つめ、信じられない言葉を口にする。 (すまないロイ、お前達を苦しめて…)  いつの間にかその姿は昔の父ではなく、イースターの日最後に見た、醜く落ちぶれた姿の父に変わっている。なのにロイは、全く嫌悪を感じなかった。それどころか、本当に今の父が心から悔い改め、謝ってくれているような錯覚を覚える。 (俺は馬鹿だ…すまない…)  ロイは首を振り、父の背中に腕を回す。もういい。自分はもう父を許している。そう言おうと口を開きかけたが、ロイは突然息苦しさに襲われた。 (なんだ?)  疑問に思うと同時に夢から覚めたロイの目に映ったのは父ではなく、ジョージ親方の顔だった。 「起きたか?ロイ」  状況が飲み込めずにいたロイも、自分が上半身裸で両手を後ろに縛られている事に気がつき、一瞬にして恐怖に支配される。 (なんだこれは?まだ俺は夢の中にいるのか?)  少し前まで、ロイは豊満な胸が印象的な女主人を紹介され、出された料理とお酒を飲みながら、ジョージ親方が語る父の昔話を聞いていた。  だが、そこから先の記憶がバッサリと消えている。 「息苦しくなれば起きるかと思って口を押さえてやったのさ、やっぱり反応があった方が面白いからな」  そう言いながら、ジョージ親方のゴツゴツとした手が無遠慮に自分の肌に触れた時、ロイはようやく、これが夢ではない事を確信する。   「ジョージ親方!やめてください!なんでこんなことをするんですか?」  その問いかけに答える事なく、ジョージは、薄く色づくロイの胸の先を嬲るように摘み、卑猥な笑みを浮かべた。 「胸は全然ないが、おまえは肌も瑞々しいし中々色っぽいな。マリアを抱いた時は、すっかり干からびた鶏ガラのようになっていてガッカリしたもんだが」 「…!」  ロイはジョージ親方が自分に何をしようとしているのか理解したが、それよりも母を辱める発言が許せず、怒りに任せて声を上げる。 「嘘をつくな!母さんはあんたに靡いたことはないと言っていた!俺とソフィは間違いなく父さんの子だ!」 「違うよロイ、おまえが俺の息子だったらこんなことするわけないだろう?」  ジョージは、ロイの身体に馬乗りになったまま、さも面白いというように笑い朗々と語りだした。 「マリアが売春婦になったのはジャックがいなくなってからだ。いいかロイ、マリアはな、おまえのために自分の身体を差し出したんだよ。 ジャックの小さな店と違って、俺の店の徒弟になりたい奴は山ほどいるからな、貧乏人の子どもをいつまでも雇ってるわけにもいかなかったんだ。そしたらマリアが、なんでもするからおまえを辞めさせないでくれと頼んできてな。 なんでもするって言ったって、何もかも失った女が差し出せるものなんて、自分の身体しかないだろう?もう薹が立っていて、女としての価値はなかったが、そこは昔のよしみで俺もマリアを買ってやったというわけさ」  頭がズキズキと痛み、身体が戦慄くように震えてくる。ここへ来るまでの間、ジョージ親方の表情におぼえた不快感。ロイが靴職人に戻ると言った後、なぜか急に真っ青になり、ずっと様子のおかしかった母。  信じたくない気持ちと裏腹に、ロイの中で、今日感じた違和感の正体が全て繋がっていく。  靴職人の親方になって家族を守るというロイの夢は、全て母の犠牲の上に成り立っていた幻だったのだ。母を蔑まれた怒りと、心から信頼していた人間の裏切りを知った絶望で、ロイは茫然自失の状態に陥ってしまう。  そんなロイを見つめ、ジョージは、ゾッとするような笑顔を浮かべて言った。 「いい顔だな、ジャックの絶望に歪んだ顔は見れなかったが、おまえのは見れて嬉しいよ。 ああそうそう、ついでに教えてやるが、ジャックはテムズ川に転落して死んだそうだ」 「!!」 「まったく馬鹿な男だよ、自分のせいで妻も息子も俺のいいようにされてたっていうのに、最後まで俺を信じてたってんだからな」 (嘘だ…)  さらに衝撃的な事実を告げられ、ロイの頭は混乱の渦に飲みこまれる。だが、悲嘆にくれる間もなく、ロイの身体をいやらしく弄るジョージの手の感触が、今ある残酷な現実を突きつけてきた。 「やめろ!」  制止の言葉を無視して、ジョージが無遠慮にロイの下半身に触れてきた時、ロイは、ジョージが本気で自分を犯そうとしているのだと悟る。  不自由な身体を必死に動かし逃れようとしたが、記憶を失う前に飲んだお酒の影響なのか、身体が全く思うように動かない。 「この状況で抵抗しても無駄だよロイ。おまえは今日、マリアと同じ娼婦になりさがるんだ。男娼は初めてだが見ろ、俺はおまえとならできそうだぜ」  指し示されたジョージの下半身は、服の上からでもわかるほど膨れており、ロイは青ざめ、さらにもがいて逃げようとする。 「嫌だ!やめろ!やめろ!」 「まったく、おまえは自分では気がついちゃいないようだが随分色っぽくなったもんだぜ。あの貴族によっぽど可愛がってもらったんだろうな」  その言葉を聞いた瞬間、恐怖よりも激しい怒りが込み上げ、ロイはジョージを睨みつけ大声で叫んでいた。 「違う!!あの人は弱い立場の人間を踏み躙るような人じゃない!」 「なんだ?やけにムキになって庇うな?もしかして惚れてるのか?無理矢理じゃなく自分から尻尾振ってあの貴族に抱かれたか?」 「黙れ下衆ブタ野郎!俺はあんたを許さない!」  こんなにも誰かを憎いと思ったことはない。頭に血が昇り目眩がする。  しかし、どんなに抗い叫んでも、ロイの身体はジョージにしっかりと抑えつけられ逃げられない。ジョージはロイの頭をベッドにうつ伏せに押し付けると、腰をつきあげるような屈辱的な体勢にする。 「その下衆に、おまえはこれから犯されるのさロイ。おとなしく言うこと聞いてればマリアのように性処理の奴隷にでもしてやろうかと思ったが、下手に喚かれても困るからな。気がすむまで犯したら、この細い首を絞め殺してジャックと同じテムズ川に沈めてやる」  ジョージはそう言うと、ロイの履いているオー・ド・ショースに手をかけ脱がそうとする。  なすすべもなく力でねじ伏せられ、もうダメだと諦めかけたその時。 「ちょっとあなた達一体なんなの?」  下の階から女の声が聞こえ、勢いよく誰かが階段を駆け上がってくる音がした。なんだと思った次の瞬間、ロイとジョージのいる部屋のドアが乱暴に開けられる。 「ロイ!」  現れたのは、ジャンだった。  初めて出会った日と同じ、今度は自ら窓を破り逃げだす事もできない絶体絶命の中、ジャンはロイを見つけ出し助けに来てくれたのだ。ジャンは、即座にジョージをロイから引き剥がし、ベッドの下に突き落とす。 「この下衆ブタ野郎!おまえを地獄に送ってやる!」  怒りもあらわにそう叫び、ジャンは、床に転がったジョージを強く殴り何度も蹴り合げる。  されるがまま、ぐったりとしたジョージの胸ぐらを掴み、さらに殴りつけようとしたジャンを止めたのはトーマスだった。 「ジャンやめろ!そいつはどうせ牢獄行きだ!それより早くロイの手の縄を解くぞ」  ジャンはジョージを乱暴に床に倒すと、ベッドの上で横たわるロイの目の前にしゃがみ込み、今にも泣きだしてしまいそうな瞳でロイを見つめる。 「すまないロイ、こんな目にあわせて」  ロイの髪を撫でながら辛そうに謝罪するジャンに、ロイは首を振った。謝らなくてはいけないのは自分の方だ。今ロイは、このままジャンに抱きしめられたいと思っている。  無事で良かったとキスして欲しい。ジョージに触られた全ての場所に、ジャンの手で触れ、あの男の感触を消し去って欲しい。こんな事を願う自分の罪深さが憎かった。 『なんだ?惚れてるのか?無理矢理じゃなくて自分から尻尾振って抱かれたか?』  あの時、腑が煮えくり変えるほどの怒りを覚えたのは、ジョージの言葉が、全くの出鱈目ではなかったから。愛する人が自分を助けにきてくれた喜びと罪悪感に身を裂かれ、ロイはいっその事、今この幸福の絶頂の中で死ねたらと願ってしまう。 「ロイ!」  しかし、後から入ってきた母の姿を見た途端、ロイの、恋に溺れて死を望むような願望は儚く消えた。 「ロイ、ごめんね」 「母さんが謝る事なんて何もない!」  泣きながら謝罪する母の姿に堪らなくなる。  愛してもいない人間に脅され支配されるのがどれほどの恐怖か、ロイは身を持って知っている。  その苦しみを一人で抱え続けてきた母は、今までどれだけ辛かっただろう。 「謝らなきゃいけないのは俺の方だ!何も気がついてやれなくてごめん…母さんは何も悪くない!お願いだから謝らないで!自分を責めたりしないで!」  ロイが全て知ったことを悟った母は、顔を抑えて泣き出し、ロイは、母と妹を残して死ぬわけにはいかないという想いをより強くする。 「よし、縄が外れたぞ!」  ロイの手が自由になり、トーマスの声が響くやいなや、茫然と床に座りこんでいたジョージが突然立ち上がり、部屋の入り口で立ちすくんでいたソフィと女を付きとばして逃げて行く。 「待て!」  それを見たトーマスが、慌ててジョージを追いかけて行った。 「ジョージおじさん、なんで…」  途方に暮れたように立ち尽くしていたソフィがポツリと溢した、悲しみと絶望が入り混じった声に、ロイは胸が締め付けられる。  父がいなくなった後、度々訪れ自分達を優しく慰めてくれたジョージ親方を、ソフィは心から信頼し慕っていた。そしてその気持ちは、ロイも同じだった。  傷ついたソフィを慰めてやりたくて、怠く重い身体を無理矢理起こし立ち上がろうとしたその時、何も身につけていない上半身に、ジャンが自分の着ていた上着を羽織らせ、そのままロイの身体を後ろから抱きしめてくる。 「良かったロイ、おまえが無事で、本当に良かった」  ジャンの温もりを背中に感じ、愛し気に囁かれる声を聞いた瞬間、ずっと堪えていた涙がとめどなく溢れだす。母とソフィの前だからと気丈に振る舞おうとしていたが、そんな男としてのプライドなど、愛する人の前では無力だった。  (ダメだ、ジャンの側にいると、俺はどこまでも弱くなる…)  このまま振り向いて、ジャンに縋りついてしまいたい。 「ロイ…」  ロイの葛藤を知ってか知らずが、ジャンはロイの名前を優しく呼び、肩を震わせ涙を流すロイの身体をさらに強く抱きしめてくる。  ロイは縋りつくかわりに、ジャンの大きく綺麗な手に、そっと自分の手を重ねた。 (やっぱり俺は、この人が好きだ)  どんなに消しさろうとしても消えない、時に家族への愛すら超えてしまうジャンへの想い。  ロイは、ジャンの腕の中にいる幸せに溺れるように、瞳を閉じて哀哭した。

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