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第五十三話

 ジョージを捕まえようと走っているうちに、フリート川を超え聖ポール大聖堂の前まで来ていたトーマスは、ふと足をとめ、南の方角に目を向ける。 (もしかしてテムズ川の方へ行ったか?いや、でも渡し船はもうこの時間やってないぞ)  夜の闇は想像以上に目を眩ませ、路地裏へ入ったところで、ジョージの姿は見当たらなくなってしまった。それでも諦めきれず、更に先のチープサイド通りの方にまで足を伸ばしたトーマスは、ようやく自分が完全にジョージを見失った事を認め、すごすごと引き返す決心をする。 (あーもう、何やってるんだよ俺は…)  がっくりと肩を落としながら、トーマスは再びフリート街に向かって歩きだした。  乱れたベッド。無造作に床に落ちた、ロイの手首をキツく縛りあげていた縄。  部屋に残る残骸全てが、ここで起きていた凄惨な光景を連想させ、堰を切ったように哀哭するロイの身体を、ジャンは悲痛な思いで抱きしめていた。  ロイの味わった悲しみ、痛み、想像を絶する恐怖、全て自分が消しさってやりたい。  震える身体を包みこみ、その首筋に唇が触れるほど深く顔を埋めていると、もう二度と、ロイを手放したくないという思いが抑えようもないほど大きく膨らんでいく。 「わ、私は何も知らない!あの人がこんなことしてたなんて、本当に知らなかったのよ!」  それまで黙って突っ立っていた女が、突然必死に言い訳を始める。その声で、突然現実に引き戻されたジャンは、名残惜しむようにロイの首筋から顔を上げ身体を離すと、女をきつく睨み冷徹な声で告げた。 「下手な言い訳はやめろ。俺はあの男の悪事を全て裁判で証言する。そこでおまえとあの男の関係は明るみになる」  ロンドンでは、正式な夫婦間以外の性交渉は違法行為にあたり、発覚すれば処罰の対象になる。  その上ジョージにはマリアへの脅迫、レイプ、ロイに対する暴行、監禁、特にレイプは絞首刑になる重罪だ。ジョージの愛人であるこの女も、間違いなく罰を受ける事になるだろう。ジャンの言葉に、女は力なくその場にへたり込む。 「まってください」  しかし、被害者であるはずのロイが、ジャンに異を唱えた 「俺はもう大丈夫です!貴方が俺を助けてくれた!あの男を力いっぱい殴ってくれた! この女性まで罰っして欲しい気持ちはありません。それにおそらく母も、裁判で訴える事は望んでいない…」  少し前まで力なく泣いていたマリアも、いつの間にか顔を上げ、ロイの言葉を肯定するように頷く。 「ジャン様、ロイの言う通りです。私達は裁判を望んでいません」  裁判は、治安維持という名目の元、市民達に晒し公開で行われる。マリアもロイも自分がされた事を、公衆の面前で証言などしたくないのだ。 「だけどそれじゃあ…」 「あの男は、自分が助かるためならどんな出鱈目でも言う人間です。例えジャン様のおかげでジョージを有罪にできたとしても、私やロイを貶める暴言を吐くことは目に見えています。 私があの男に望むのはただ一つ、もう二度と、私達家族に関わってこないことです。それから…」  そこまで言うと、マリアはジョージの愛人に近寄りその頬を引っ叩く。ジャンとロイは、マリアの行動に驚き目を見張った。 「何も知らないなんて嘘!貴方はジョージに協力して、私だけでなく、私の大事な息子までもを陥れようとした!」  この女と面識があったのか、女を見るマリアの目は怒りに燃えている。 「ち、違う、仕方なかったのよ!貴方だって同じ女なら、あの男の言うこと聞くしかなかった私の気持ち分かるでしょ?」  頬を抑え見上げる女に、マリアは決然と言い放つ。 「あなたなんかと一緒にしないで! もしまた息子に近づいたら、次は全て話してあなた達を牢獄に送ってやるから!それが嫌ならもう2度と私達に関わってこないでちょうだい!」  マリアは、項垂れる女に背を向けると、今度は、放心状態で涙に濡れていたソフィの元へ歩みより、その身体を強く抱きしめた。 「ごめんね、ソフィ、こんな母親で、本当にごめんなさい」 「ちがう、かあさんの…せいじゃない…」  ロイもソフィも、子ども達を守るために我が身を犠牲にしてきた母を責めるような人間ではない。傷が癒えるのには、まだ時間はかかるかもしれないが、母の胸で泣くソフィと、優しく抱きしめるマリアの姿を見て、ジャンは親子愛の尊さと共に、母の強さも同時に感じていた。 「運が良かったな。この人達はあんた達を訴えないと言っている。だが、もしまたこの家族に危害を加えたら、我々が黙っていない。 おまえ達の悪事を白日の元に晒し牢獄に送ってやる!」  女は滅相もありませんと首を振り頭を下げ、もう二度とこの人達に近づくことはないと誓った。  ジャンは、マリアとソフィに、ここを出ましょうと促し、ベットに座るロイの元へ歩みよる。 「ありがとうございます」  礼を言い、涙に濡れた瞳を潤ませ自分を見上げてくるロイを、今度は正面から抱きしめたくなる気持ちをなんとか抑え、ジャンはエスコートするように自らの手を差し出した。 「立ち上がれるか?」  するとロイは、思わずというように微笑み、ゆっくりと一人で立ち上がる。 「大丈夫ですよ、ほら、俺はそんな柔じゃない」 「そうだったな」  端的に返事をしながらも、ジャンは知らず知らずのうちに、ロイを熱っぽく見つめていた。  そんなジャンの視線の熱さに気づいたのか、ロイはジャンの瞳から逃れるように赤面し俯いてしまう。その、出会った頃と変わらぬ初々しい姿に魅了され、ジャンの心に、ジョージへの激しい怒りと嫉妬が再び沸き上がる。  このままロイを抱き上げ、自分の家に連れ去ってしまいたい。ジョージに触れられた痕跡を全て消しさり、ロイを今すぐ我が者にしたい。  ジャンは、自分の身勝手な劣情に罪悪感を抱くも、その衝動に身を任せてしまいたい欲望に駆られる。 「すまない!取り逃がした」  だが、息を切らし戻ってきたトーマスの声で、嫉妬と淫欲の闇に堕ちてしまいそうになっていたジャンの心は理性を取り戻す。 「ごめんなロイ、でも、明日には治安官に訴えて必ずあいつを牢獄送りに…」 「いいんです、トーマスさん」 「え?」  トーマスが言い終わらぬうちにロイは首を振り、ジャンは、マリアとロイが決めた事をトーマスに伝えた。 「…わかったよ、ロイ達がそう言うなら仕方ない」  トーマスは納得できない表情を浮かべながらも渋々頷く。 「とにかく、一旦ここを出よう」  ジャンは覚束ない足取りのロイの腕を自らの肩にかけると、再び皆を外へと促した。  狭い階段を降り出てきた5人は、外から店を振り返る。ジャンにとってそこは、忌々しい場所でしかないが、ロイ達家族にとっては、幸せな記憶が残る我が家でもあったはずだ。  特にこの家で、幸福と地獄の苦しみ両方味わったマリアの気持ちを思うとやりきれない気持ちになる。だがマリアは、暗闇でもはっきりと分かる笑みを浮かべジャンに言った。 「ジャン様!ありがとうございます! 貴方達のおかげでロイをあの悪魔から救う事ができました!この御恩は一生忘れません!」  ジャンの心配をよそに、マリアはロイを救えた喜びに歓喜していた。そして、ジャンに支えられ隣りに立つロイに、マリアは確信に満ちた声で告げる。 「ロイ、貴方が生きる場所はこの方のいるところよ。もう二度と間違わないで」  ロイは、驚愕と迷いが混じったような表情を浮かべながらも深く頷き、ジャンはロイの肩を抱く手に力をこめる。 「ソフィ、私達は家に帰りましょう」  マリアは、そんなロイとジャンの姿を微笑ましく見つめると、そのまま呆気なくソフィと共に立ち去ろうとしたので、ジャンが慌てて2人を止めた。 「ちょっと待ってください、こんな夜中に、女性2人で帰るのは危険です。ここからなら私の住むタウンハウスの方が近いので一緒に行きましょう」  しかしマリアは、ジャンの誘いに首を振る。 「いいえ、こんなみずぼらしい格好をした私達が、ジャン様のタウンハウスへ突然訪れるなんて滅相もありません」 「そんなことは気なさらないでください、ジョージ親方だって捕まってないんです。女性だけで夜道を帰すわけにはいきません」 「いいえ!心配には及びません」  頑なに首を縦に降ろうとしないマリアに困っていると、トーマスが助け舟を出す。 「方向同じだから、俺が二人を家まで送るよ」  サザークに住むトーマスも、ここからならジャンのタウンハウスの方が近かったが、最近引っ越したばかりの新居に帰って、じっくり戯曲の続きに取り掛かりたいというトーマスの提案に、マリアはようやく納得する。 「ありがとうございます。甘えさせて頂きます」  ジャンはホッと胸を撫で下ろした。 「本当におまえがいてくれて助かった。2人を頼む」 「ああ、任せてくれ」  「本来ならお二人を客人として我が家に連れて行きたいところですが仕方ありません。 ただ、ロイと同様、私にとって貴方達は大切な家族も同然です。また近いうちに挨拶に伺いますので」  ジャンの言葉に、マリアとソフィは深く頭を下げ、二人とは対照的に、軽く手を振るトーマスと共に立ち去っていく。  ジャンとロイは、3人の背中をしばらく黙って見送っていたが、やがてジャンは、隣りに立つロイを見つめその名を呼んだ。 「ロイ」 「はい」  返事をし振り向いたロイの顔は、どこか心細気に見える。自分だけではロイにとって頼りないのか?と心配しながらも、ジャンは、これから言う言葉も行動も決めていた。 「乗れ!」 「え?」  ロイが驚くのも無理はない。ジャンはロイの目の前で背中を向けて屈みこみ、自分の背中におぶされと命じたのだ。ロイは強い口調で、はっきり断ってくる。 「そんな失礼なことできません!」 「なんだとロイ、おまえは恩人の言うことが聞けないのか?俺の命令に逆らうと?」  自分でも、傲慢で嫌な言い方だと自覚している。だが、こうでも言わなければロイは決して頷かない。ロイは観念したようにジャンの肩に手を置くと、遠慮がちに自らの体重をジャンの背中に預けてきた。 「重いですよ?立ち上がれますか?」    確かに、細身とはいえその身体は決して軽くはなかったが、背中から伝わるロイの体温と重みを感じて、ジャンの心は深く歓び満たされていく。  馬鹿みたいかもしれないが、ジャンがロイをおぶったのは、例え背中越しでも、肩を組んで支えるより、ロイに触れる部分が多くなると思ったからだ。   「全然重くない、男にしては軽すぎるくらいだ。それより、ずり落ちないようにしっかりしがみついてろよ」 「…はい」  返事をするロイの声音に、微かな不服が混じっているような気がして、ジャンは苦笑いする。  軽すぎるという言葉が、ロイの男のプライドを傷つけてしまったのだろうか? 「ありがとうございます…」  しかし、耳元で囁かれた感謝の言葉で、ジャンはロイが不機嫌になったわけではないことに気がつく。その声には、なぜか今にも泣き出してしまいそうな切迫感があり、心配になったジャンはロイの方に顔を向けようとしたが、次の瞬間、ジャンの思考は停止した。 「俺は、貴方が好きです…」  一瞬、世界が無音になる。  今ロイはなんと言った?その言葉の正しい意味を理解しようと、止まっていた思考が一気に動きだす。 (好き?ロイが俺を?いや、簡単に期待するな!前にも似たような事があっただろう! ただの親愛や友情かもしれない。助けてもらった嬉しさで感情が昂っているだけかもしれない。くそ、どっちなんだ?わからない)  もし今ロイの瞳に、自分と同じ恋する光を見いだすことができたなら、ジャンはすぐさま愛に応えロイを抱きしめていただろう。  夢にまで見た言葉だというのに、ジャンはロイの顔を見れず、ロイの真意を掴めない。 「申し訳ありません。急にこんなことを言って…ただ、今、どうしても伝えたくなってしまって」  衝動的な告白だったのか、ロイは我に返ったようにジャンの耳元から顔を上げ、少しでもジャンから離れようとしている。 「ごめんなさい、降ろしてください。 もし貴方が不快なら、俺はちゃんと貴方の前から消えます。この気持ちは殺します、だから…」  ロイの声は、許しを乞うように、まるで罪を懺悔する迷える仔羊のように震えている。  その声を聞き、ジャンは全身雷に貫かれるほどの衝撃を受け確信した。ロイの想いが、自分と同じである事を。自分はロイから、愛の告白をうけたのだ。 (ああ…神よ…)  敬虔ではないジャンが思わず神に祈ったのは、ロイのためだったのかもしれない。ジャンは束の間止まっていた足を早め、ロイに告げる。 「ダメだ、俺の前から消える事も、気持ちを殺すことも許さない。家に着くまで、おとなしく俺にしがみついていろ、絶対に俺から離れるな」  頭の奥にまで響いてくる、ドクドクと脈打つ心臓の音。 (この想いが、神の摂理に反していようと構わない。誰になんと言われようと、俺はロイを…)  抑えようのない狂喜に心が躍り胸が高鳴る。ジャンにはもう、一片の迷いもなかった。

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