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恋する夜のクロワッサン
賢明な諸氏ならば、タイトルを見ただけでおわかりだろうが、私は今、陳腐な小説を書こうとしている。
主人公はやや人生にくたびれた男だ。鼠色の背広を着たサラリーマン。今日もそろばんをはじく単調な仕事を終えて、水銀灯の青白い光の下を歩いている。革靴の踵が偏ってすり減っているが、こまめに修繕に持っていくほどの気持ちもない。
ある日、めずらしく仕事が早く退けて、閉店間際の小さなパン屋に引き寄せられた。主人公はクロワッサンという名のパンを買う。
その店を仕切る美しい青年が、釣り銭と茶色い紙袋を差し出しながら
「クロワッサンは、フランス語で三日月の意味なんですよ」
などと愛想を言い、主人公はその愛想を真に受けて、あるいは愛想と知りながらも店主の美しさに惹かれて、足繁く通うようになるという筋書きだ。
いかにも陳腐だ。こんな恋愛小説は、巷に溢れかえっている。
下駄の花緒が切れて駆け込む履物屋でも、釣り銭を受け取る銭湯の番台でも、電車で席を譲り合う場面でさえ、恋の種は転がっている。
書く側は食傷である。大道具小道具を取り替え、設定を変え、日々同じことを書き続けているのだ。
しかし恋愛小説は、繰り返し表現したい魅力があり、読む側も貪欲である。
なぜなら恋はとても強い衝動だからだ。身も心も翻弄されて、喉や胸につかえを感じたり、胸がやけて胃酸のように酸っぱいものが込み上げる。
飲み物もなくパンを食べたり、つい腹を満たすまでパンを食べ続けたりしたときの様子に似る。
この主人公もパンを食べている。美人店主の焼くパンは、雲のようにふっくらとした柔らかなものも、夏ミカンのように皮が硬いものもある。ジャムやあんこを包んだものもある。
なかでもとびきり主人公が気に入ったのは、当時まだ珍しく、見るのも聞くのも初めてだったクロワッサンだった。
三日月型をしたそのパンは、羽衣のように薄い層が幾重にも重なってさくさくし、バターの芳醇な香りと香ばしい焼き色が食欲をそそる。いくらでも食べられる。
仕事を早く終わらせて、付き合いの酒も麻雀も断ってパン屋へ駆け込むようになった。
「クロワッサンはまだ残ってるかい」
そう聞けば、いつの間にやら、クロワッサンは取り置かれるようになっていた。茶色い紙袋に名前が書かれ、クロワッサンのほかにも、店の余り物が二ツ三ツ入ったものが出てくる。
「いつも相済まない」
「いいえ」
美しい店長は微笑んだ。伏せるまつ毛が長く、薔薇色の頬に影を落とす。
いつもなら、会計を済ませて終わりだ。
しかし三日月が美しい夜、店主が主人公を追って店を出てきた。
「いつも冷えた余り物のパンばかりで、それを僕の味と思われては悔しいです。焼き立てを召し上がっていただきたい。日曜日のご都合はいかがですか。試作と練習で、いろいろなパンを焼きますから、お越しください」
丸くて大きな瞳は夜空のように黒く美しく、三日月が映り込んで、一幅の絵画のような芸術的美しさがあった。主人公は見蕩れて黙った。店主はそれを困惑と受け取り、
「ご迷惑ですよね。いきなり変なことを云ってすみませんでした」
と頭を下げる。
主人公は我に返って手と首を横に振り、日曜日を一緒に過ごすチャンスをつかんだ。
手ぶらで行くのも忍びない。忙しそうにしているから、仕事の合間に摘めるものをと、会社近くの百貨店でピーセンというピーナッツ入りの揚げあられを求めた。ピーセンの缶にはエッフェル塔の絵があり、クロワッサンのフランス語にも通じるような気がした。
贈答用に包んでもらってから、食べ物屋へ食べ物を持っていく野暮に気づいたが、次善策も浮かばなかった。
「人付き合いに不慣れで、手土産のセンスもなく申し訳ない」
と、うつむいたまま包みを差し出した。
店主はピーセンの缶を赤子のように大切に抱いて喜んだ。そしてパンを焼くオーブンの前に主人公を連れて行った。
粉にまみれて生地をこね、広げたり丸めたりした上、剃刀を持って切れ目を入れたりもして、鉄板に並べる。
焼くだけでなく、生地をねじって揚げて粉糖をまぶしたり、カレーを包んで揚げたりもする。
それらの分量はすべてノートに書き込まれていて、何度も二重線を引いて訂正され、より美味しいパンを作るべく研究されていた。
分量の隣で、原価計算も細かくきちんとされていた。部屋の隅にある机も整頓されている。帳簿の類はきちんと本棚に収まって、鉛筆は削られ、定規の一本もいい加減にはされていない。真面目で几帳面な性格が感じられた。
パンを捏ねて焼き、その合間にノートする。
その真面目な姿に主人公はさらに惹かれてゆく。もともと惹かれていたが、ここで思いを深くするのである。
できたてのパンは熱く、香ばしく、左右の手にお手玉しながら二つに割ると白い湯気が上った。それは魔法のランプのようで、妖精が出てくるかと思われるほど、魅力的な食べ物だった。
「ああ、美味しい」
一口食べたら、もう一口、もう一口と食べ続けてしまう。食べ終えて、もうないのかと肩を落とした。
店主が笑った。
「こんなに美味しそうに食べてくれる人は初めてです。僕も作りがいがあります」
「焼き立てのパンがこんなに美味しいとは知らなかった。貴方の手には神が宿っている」
店主の手を見て、その手にやけどの跡がたくさんあることに気づいた。視線に気づいた店主は恥ずかしそうに笑う。
「鉄板の縁に触れてしまったりするんです。パンを焼いていたら、こんなやけどは慣れっ子です」
主人公は棚の上に救急箱を見つけ、その中から軟膏を取り出した。
「どの仕事にも怪我や不調はあるだろうけど、慣れ過ぎて放っておくのはよくない。積み重なって、いずれ大きな事故にも繋がりかねないからな」
傷の一つ一つに軟膏を塗り、その間、店主は頬を染めてうつむいていた。その照れが伝染し、主人公の手つきもぎこちなくなる。二人はどちらからともなく、小さく笑った。
そして薬を塗り終えると、店主は軟膏だらけの手を見つめ、おもむろに顔を上げて、主人公を見た。
「ありがとうございます。僕はもっともっと美味しいパンを焼きます」
夜空のような瞳には三日月が輝き、店主はその言葉どおり、ますます店の味と経営に精を出した。
客が開店前から並ぶ日もあり、昼は客が店に入りきらないほど混雑して、その行列がまた新たな客を呼んだ。
主人公は閉店間際の店で割引のパンを買い、店をしまうのを手伝って、店主の手に軟膏を塗るのが、毎日の日課になった。日曜日には焼き立てのパンを食べ、レシピの研究に協力する。その時間は焼き立てのパンの香りを胸いっぱい吸い込むのと同じくらい、幸せな時間だった。
半年ほどもそんな生活が続いたある日、主人公が店へ行くと、夜空の瞳から涙が溢れ出した。
「父が事業に失敗し、借金を返せなくなりました。この家が抵当に入っているので、立ち退かなくては」
「どこから借りている? 金額は?」
聞いた金額は容易な額ではなかった。
しかし借入先に不審なところはなく、まだ手の打ちようがあると思う。
泣き続ける店主を椅子に座らせ、水道から汲んだばかりの水を飲ませた。
「しっかりしなさい。無闇に怖がるのは悪手だ」
主人公は初めて厳しい声を出した。店主はその声に肩を震わせ、涙をこらえた。
「こういう話は、知らないうちに広まる。どこからか聞きつけて、ハイエナのように寄ってくる奴もいる。おそらく明日にはもう『銀行より金利は高いが、あるとき払いでいいから借り換えないか』、『知り合いに、銀行へ顔の利く奴がいるから、抵当が外れるよう交渉してやる』、そんなことを言う奴がやってくると思うけれど、絶対に話を聞かないように。いいな?」
店主はうなずいたが、まだ震えていた。
「でも、来た人の話を聞かないって、どうしたら」
主人公は背広の胸ポケットから名刺入れを取り出し、自分の名刺を店主の手に握らせた。
「誰に何を言われても、余計なことは言わず、この名刺を見せなさい。すべてはこの人に任せているから、ここへ連絡してくれと言いなさい」
主人公は文学を志したが両親の猛反対に遭って叶わず、仕方なく銀行に勤めていた。勤め先を名乗ることも、名刺を出すことも嫌いだったが、今はただ、志半ばで道を絶たれようとする店主の涙を止めてやりたい一心で、銀行の名前でも自分の肩書きでも、使えるものならなんでもという気持ちだった。
借入の書類一式を持ってこさせ、必要事項を手帳に書き写す。
「この件は支店が担当していて、私は詳細を把握していないが、明日、出勤すればすぐに調べられる。この支店長は私の大学の先輩で、誠実な仕事をされる方だから、私の相談にも乗ってくれるだろう。だから貴方はきちんと食べて、寝て、明日もいつも通りに美味しいパンを焼いて、店を開けなさい」
翌日、主人公は早速行動した。いつもならまずは一服して茶を飲み、欠伸を噛み殺しながら朝礼に出ている男が、疾風のようなスピードで上司に掛け合い、資料を当たり、支店長を訪ね、道を探った。
「しかし君、そんなことをして、一体全体どうするつもりなんだ」
どこへ行ってもそう言われた。
しかし主人公には、文学の夢を諦めた過去があった。あのときの自分は、親の反対に屈して何も守れなかった。今、店主の涙を前にして、同じ後悔を繰り返すわけにはいかない。強く行動した。
だが、主人公の提案に一番強く反対したのは、ほかならぬ店主だった。
「大学を出て、銀行にお勤めされてるんですから、これからいいご縁談があるでしょう。そんなご迷惑をお掛けするくらいなら、店をなくすほうがましです」
「私は貴方に迷惑を掛けられるつもりもなければ、恩を売るつもりもない。ただ日本一美味しいパンを食べたいだけです。貴方の暮らしも、私の人生も、何も変わらない。今まで通りだ」
「違うでしょう。貴方のお金が大きく減ります。減るどころか、勤め先に借金してローンを組むなんて。結婚に備えて新しい家を買うならまだしも、パン屋の古い家屋を買い取るなんて、絶対にダメでしょう!」
机を叩いて訴える店主に、主人公も机を叩き返した。
「貴方のクロワッサンを食べられなくなること、貴方の瞳から月が消えること、それよりダメなことなんて、私にはない!」
近所に響き渡るような大声にも、店主は怯まなかった。
「そんなに僕のパンが食べたいなら、店を畳んで、家も土地も競売に掛けてもらって、僕が貴方の家に住み込みでお手伝いに上がります! 朝でも夜でもお望みのときにパンを焼きます。それならいいでしょうっ?」
「だったら、私がこちらに引っ越す。あなたは店で今まで通りにパンを焼けばいい。私は店の家賃としてときどきパンをもらう。どうですか、それで納めましょう」
静かな時間が流れた。
二人は互いの目を見つめ合った。輝きを失っていた店主の瞳に、少しずつ三日月が上った。
激しく叩いた机の上に二人の手はあり、主人公はその手を少し動かして、店主の手に重ねた。店主もまたその上に手を重ねて、二人はパン屋の二階で生活を共にし始めた。
実はこの時、主人公は上司に掛け合い、少し無理を押してローンを組んだ。上司もまたその上司に掛け合う骨を折ってくれた。その交換条件と言うほどではないが、「定年までしっかり勤め上げろよ」と念を押されたので、私は今もこまごまと恋愛小説を書きながら、銀行に勤めている。
「おはようございます。今朝一番のクロワッサンが焼けました」
盆へナプキンを敷いたところへ、三日月型のクロワッサンが置かれている。狐色に焼けた生地は溶き卵の照りを与えられ、芳醇なバターの香りを漂わせている。二つに割れば湯気が立ち、薄い蜂蜜色の生地が何層も重なってあらわれる。
「今日も美味しそうだ」
鉛筆を置いて、さっそくかぶりついた。
「ああ、今日も本当に美味しい」
三日月が浮かぶ瞳に見守られながら、恍惚の時間を過ごす。一口食べたら、もう一口、もう一口。もっと口の中に残しておきたいのに、喉を滑り落ちていく。そして食べ終えると、もっと食べたかったと肩を落とす。
「また焼きますから、ね?」
慰めてくれる彼の手をとり、やけどの具合を見る。私は文机の引き出しから軟膏を出して、その傷にそっと塗った。
私にやけどの多い手を預けるとき、彼は今も軽くうつむき、頬を赤く染める。その照れは私にも伝染して、軟膏を塗る指はいつもぎこちない。
この世に恋愛小説などいくらでもある。それでもなお多くの求めがあるのは、何度でも味わいたいからではないか。
実際の恋愛には強い衝動があり、一世一代のローンを組んでしまうほど、人生をねじ曲げる力がある。そう何度も繰り返して経験できるものではない。
しかし同時に味わった甘さや酸っぱさ、苦しさや喜びは、美味しい焼き立てのパンのように、何度でも味わいたい魅力がある。
誰に打ち明ける話でもない。ローンを組んだり、プロポーズをしたりという、人生最大のエピソードを含む物語の大半は、当事者二人だけの胸にしまわれている。そんなことは忘れた顔で年齢を重ね、恋愛小説を読みながら、胸の内でそっと自分の経験を照らし合わせる。
私は、恋を知らない人のためと云うよりも、恋を済ませた大人たちに、自分の小説を読んでもらいたい。
パン屋でパンを選ぶように、本屋で本を選び、そっと味わってもらいたい。楽しくむさぼり食ってもらいたい。
「朝から執筆ご苦労さまです。そろそろ迎えの車が来る時間ですよ」
「ああ、行ってくる」
寄る年波には勝てず、机に手をついて立ち上がる。彼は私の白髪まじりの前髪のほつれを直し、ネクタイの結び目も直し、「あ」と小さく声を上げて微笑んだ。
「パンくずがついてます」
唇の端に彼の唇が触れ、そのまま私たちは暫し唇を重ねた。
私たちはとうの昔に恋を済ませ、ローンの支払いも終えているが、互いを大切に思う気持ちまでは失われていない。これを愛情と呼ぶのだろうと思う。
「頭取、おはようございます。お迎えに上がりました」
私は階段を下り、よく磨いた革靴を履く。踵の減りはこまめに直し、平らな靴底で、しっかり歩くようになった。
彼と過ごす日々の中で、踵の減りを放置するような、人生に対する投げやりやぞんざいは鳴りを潜めていったのだ。彼と歩む人生は楽しい。他人と暮らす煩わしさを上回る。
陳腐でも野暮でも食傷でも、世の中には人の数だけの恋愛がある。恋愛を経験したうちの一人として、私はやはり、恋愛小説を書くことは止められないのだろうと思う。パンを食べるのを止められないのと同じように。
そしてあなたにも、パンのように食わずにはおれない恋愛小説との出会いがあることを、願ってやまない。
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