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第1話 〜side.千早〜
「はぁ…、今日も疲れた」
ここは俺の職場。
国内だけでなく、海外にも支社があるそこそこ大きな総合商社だ。
新卒で入社して、この春で丸4年。
スーツも革靴もすっかり慣れた。
時間は22時を少し回ったところ。
残業を終えて、晩ご飯は何を食べようか…と考えながらエレベーターに乗り込むと、同期の寛希 が乗っていた。
「よぉ、千早 。今帰りか?」
千早っていうのは俺の名前。
色白で華奢で、よく女の子に間違われるから、中性的な名前にしてくれた両親には感謝してる。
すごく強そうな名前だったら、完全に名前負けしてしまうから。
「あ、うん…。寛希も?」
「あぁ。会議が長引いちまってな」
「そうなんだ…」
俺は当たり障りのない会話を続けながら、エレベーターの階数表示を眺める。
まだ12階。
無駄に大きな自社ビルに苛立った。
お願いだから早く着いて欲しい。
それか、誰か乗って来て欲しい。
寛希と個室で2人きりは気まずすぎるから。
そんな俺の願いもむなしく、いきなり照明が点滅しだして、エレベーターが大きく揺れた。
「あっ…」
バランスを崩して転びそうになってしまう。
すかさず寛希が抱き止めてくれたけど、俺の重みに耐えられなくて2人で床に転がるハメになった。
「痛てて…。千早、大丈夫か?」
「ご、ごめん…!」
慌てて下敷きにしてしまった寛希の上からどこうとすると、そのままぎゅっと抱きしめられた。
ふわっと漂う懐かしいトワレの香り。
背の高い寛希の長い腕。
包み込まれるような優しい温もり。
感じ慣れた呼吸。
「だ、だめ…」
俺は寛希の手を振りほどいてエレベーターの隅へ逃げた。
だって、寛希は俺の元カレだから。
入社前の泊まりがけの研修で知り合った俺たちは、あっという間に意気投合して、そのまま付き合い始めた。
付き合っていたのは1年くらい。
寛希は優しくて面白くて、俺の事を本当に大切にしてくれたし、俺も寛希の事が大好きだった。
愛する事、愛される事の喜びを教えてくれたのは寛希だった。
毎日幸せで楽しかったけど、俺はずっと寛希と別れるタイミングを見計らっていた。
俺の恋愛対象は男の人。
でも、寛希は違った。
男の恋人は俺が初めてだった。
いくら世の中がLGBTに対して寛容になってきたと言っても、100%生きやすい訳ではなかった。
だからわざわざ俺と付き合って苦労する必要もない。
寛希には大きな夢があるから。
まだ付き合う前に、同期の飲み会の席でどうしてこの会社に入ったのかを話していた時の事。
寛希の実家は輸入雑貨屋さんを営んでいて、将来は寛希も4代目として後を継ぐって言っていた。
今の会社で色々な事を学んで、家族や地域の人が幸せになれるお店を作るんだって、キラキラした瞳で語ってくれた。
寛希ならきっとそれを実現できると思った。
何となくこの会社を選んで、当たり障りなく筆記試験と面接に合格しただけの俺にとって、寛希は眩しい存在だった。
そんな寛希には、寛希の夢を繋いでくれる後継ぎが必要。
男の俺では後継ぎを生む事はできない。
頭ではわかっていたけど、寛希の事が好きすぎて、現実から目をそらして彼を求めた。
でも、寛希に愛されれば愛されるほど、辛くなった。
男である事を負い目に思うようになった。
そんな中持ち上がった寛希の浮気疑惑。
俺が研修で半月くらい遠方の支社にいる時、寛希は同期の女の子と一夜を共にしたらしい。
俺たちが付き合ってるって知らない支社の先輩が、楽しそうに教えてくれた。
寛希は違うって言ったし、俺も寛希がそんな事する訳ないって確信してた。
たぶん何か事情があったんだと思ったけど、別れ話をするチャンスだと思った。
恋人として100点満点の寛希は俺を喜ばせる事ばかりしてくれるから、不満なんて一つもない。
だから、喧嘩の原因なんてこれくらいしか見当たらなかった。
俺は寛希の言葉を信じる事ができないと泣いて、一方的に別れを告げた。
最初は半月の予定だったけど、流れで支社に残る事になったから、寛希とはそれっきり。
電話やLINEも全部無視した。
会いに来てくれても絶対に会わなかった。
1か月くらいそんな生活が続いたけど、ある日を境に、寛希からの連絡は途絶えた。
ようやくあきらめてくれたんだ…と、安堵する気持ちと、自分の手で寛希を遠ざけてしまった後悔と、寛希に嫌われてしまった淋しさで、俺は体重が5kgも減った。
それから3年がたち、俺はこの春から本社勤務に戻っていた。
寛希も本社勤務だったけど、部署もフロアも違うから顔を合わせずに済んだ。
時々寛希が彼女らしい女の子と仲良く社内を歩いているのを見かけた時は胸が苦しかったけど、それでいいんだと言い聞かせて今日まで過ごしてきた。
そんな矢先にこんなアクシデント。
エレベーターに閉じ込められるなんて信じられない。
今日の星占い、牡牛座は1位だったのに。
エレベーターの非常ボタンを押しても反応がないし、センターに電話をしても繋がらない。
手で扉をこじ開けようとしたけど、びくともしなかった。
エレベーターの中は非常電源が薄っすらついているだけ。
明るくないのがせめてもの救い。
寛希に動揺した顔を見られたくないから。
強めに扉を叩いて助けを呼んでいたら、後ろから包み込むように抱きしめられて、手を握られた。
「手…ケガするぞ」
耳元で響く寛希のかすれたような甘い声。
そんなドキドキするような声で囁かないで。
お願いだから優しくしないで…。
恋人だった時のように甘えたくなってしまうから…。
「暗いとこ、まだ苦手なのか」
「う、うん…」
俺がうなずくと、体を反転させられて正面から抱きしめられた。
昔みたいに、大丈夫だ…と、背中を撫でられる。
その声や温もりに安心して泣きそうになったけど、甘える訳にはいかない。
ありがとうを告げてそっと寛希から離れた。
きっと誰かが気づいて助けにきてくれるはず。
俺たちは2人きりでエレベーターが動くのを待つ事になった…。
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