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田園地帯を抜けたY字路で帰路はわかれ、花田はおおげさに手を振りながら自転車に乗って帰っていった。
奏が住む家、つまり清隆の自宅は、住宅街の外れにある一軒家だ。一階は彼が営む喫茶店になっている。入り口をひらくとカランコロンとベルの音が頭上で鳴った。
夕方四時すぎ、客席はそれなりに埋まっている。のんびり会話をする老夫婦に、読書に耽るおばあさん。田舎で競合店が一切ないので重宝されているようだ。
「こら。正面から入ってくんなっつったろ」
カウンター内でカップを拭く清隆に咎められる。
「聞いてない」
「朝言っただろうが」
清隆は苦く笑っているが、構わず店内を突っ切った。しかし階段を上がる前に振り向く。
「次は気をつける」
「よしよし、いいこだ」
「弁当ありがとう」
「おう、洗って置いとけよー」
奏は薄く笑って、今度こそ二階へ続く階段を上がった。空き部屋を奏の自室として拝借したが、ベッド以外はまだ何もない。とりあえずブレザーだけ脱いでハンガーにかけた。埃っぽい気がしたので、窓を開けて換気をする。
キッチンで弁当箱を洗ってから部屋に戻り、そのままベッドに腹から飛び込む。枕に片側の頰をうずめて、正面の壁紙が剥がれた場所をぼうっと眺めた。
どっと疲労感が襲った。けれど不快な感じではない。毎日息苦しい思いで学校にかよった四月に比べれば、慣れない環境でもずっと今のほうがマシだ。
逃げてきたのだ。この場所に。
眠たくて動く気力がないので、眼球だけを動かして部屋の隅を見た。横浜の実家では、自室のあの辺りにピアノを置いていた。防音加工はばっちりだったので、毎晩遅くまでピアノばかり弾いていた。そうしたかったわけではない。それが当たり前だっただけだ。
やわらかい風が窓から吹き込む。まっしろなカーテンがふくらむ光景に、風になびく花田のYシャツを重ねた。あんな風に制服を着崩してのびのびと歩けたら、どれほど気持ちがいいだろう。花田大和という男は、きっと自分とは真逆の人種だ。
うつらうつらとまぶたが上下する。視界が途切れてはひらき、また途切れて。
――眠い……。
――だめだ、寝る……。
Yシャツとニットベスト、スラックスのままで、奏の意識の糸はいよいよ切れた。
どこからか聞こえる電子音につられて、うっすらと視界が拓ける。覚醒しきっていないが何とかベッドから這い出て、音のありかである通学鞄をひらいた。眠い目をこすってスマホを取り上げる。発信者名に身構えたが、着信音は途切れないのでおずおずと応答した。
『もしもし、奏?』
母だ。
『生活、大丈夫そう? 学校は行けた?』
「ああ」
『そう、よかった。ごはんはどうしてるの?』
「清隆が弁当つくってくれたから」
『そう……』
清隆の名前を出した途端、母の声音が露骨に沈むのがわかった。含みのある沈黙のあと、母は「ねえ」と続ける。
『清隆さんに変なことされそうになったら、すぐお母さんに言うのよ』
母のひどいもの言いに、奏は思わず奥歯を噛んだ。
「そんなことを言うために電話するなら、もう出ない」
もとより低めのトーンを更に低くして告げ、言うだけ言って切ってやった。同時にノックが聞こえ、扉の向こうから清隆の声が届く。
「どうした奏、なんか言ったか?」
「……何でもない」
スマホの画面を見ると、すでに夜八時を回っていた。扉へ歩んでゆっくりとひらき、清隆を上目に見上げる。
「ひとり言か?」
「違う。電話だ」
「誰から」
「母さん」
「波江ちゃんか。心配してるだろ? 俺、あの子に信用されてないからなあ」
言葉とは裏腹に、清隆は気にも留めない面持ちだ。
義理の弟にあたる清隆のことを、母はあまりよく思っていない。理由はたったひとつ、〝ゲイだから〟という偏見に満ちたものだ。奏と音楽教師の関係が問題になったときも、母は数日寝込んでしまった。一人息子が〝そちら側〟と知ってさぞショックだったのだろう。
「店は?」
「ウチは七時には閉店だよ。早寝の年寄りばっかだからな。お前、ずっと寝てたのか」
清隆はあきれたように笑っている。そういえば着替えも済んでいなかった。「メシできてるぞ」と踵を返す清隆に、奏も着替えはあとにしてついていく。
清隆を警戒するなんて、母は無礼にもほどがある。清隆には十年以上も連れ添った大切な人がいるのだ。その亡き恋人を今も想い続けて、その人が残した店を守っている。
そんな風に一途に愛されたならどれほど幸せだろう。きっと自分には味わえない幸福だ。
もう、恋だの愛だのに感情を振り回されたくない。誰かを好きになんて、もうならない。
忘れたい記憶がよみがえる。鍵をかけた音楽室、つくりものの甘い言葉、乗れなかった観覧車――。奏はまぶたをぎゅうと閉じ、嫌なことばかりが絡まった脳内をリセットした。何か別のことを考えようと、必死に頭をめぐらせて。
たったひとつ浮かんだものは、あいつの、花田の、風にそよぐまっしろなYシャツだった。
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