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救難信号の受信

ざわめきが満たす放課後の教室。 笑い声が、耳に痛い。そんな空間に、ぽつり、と自分だけ取り残されている。 慣れたことだ。自分から独りになった。 なのに、逃げるように、教室を後にする。 がちゃと、玄関の扉をそっと開く。物音がしないことを確認して、息を吐いた。 靴を脱ぐと、靴箱の奥へ入れる。 自分はこの家に、存在してはいけない。 存在の証を 消して 消して 消して 玄関に飾られたガラス張りのケースいっぱいの 家族写真。どれにも自分は写っていない。 笑う両親と自分と同じ顔の兄。見ないようにして二階に上がる。 二階の端の物置部屋。その中にある屋根裏部屋に続くはしご。下から押して、扉を開ける。 4畳にも満たない狭い部屋。小さなテーブルと毛布が一枚。そこが唯一存在を許された場所。天窓から差し込む夕陽。光の元に膝をついて、手をあわせた。 今日はなにもありませんように 「あんたなんか 生まれて来たのが間違いよ」 母の口癖。座り込んだ自分に降ってくるのは、罵声と水が入ったコップ。頭を咄嗟に覆った腕に、派手な音を立てて当たって割れる。直接手を使って殴るなんてことはしない。自分の身は汚いらしい。物を投げられるか、蹴られるかのどちらかだ。泣いたり、叫んだりなんかしない。できない。ただただ、無になって、時間が経つのを待つだけだ。 助けて 言葉を伝えることのできる人間なんていなかった。 ふぁー。眠い。とことん、眠い。今日から7月に入った。朝慌てて、夏服を探して飛び出してきた。おかげで遅刻は免れた。 朝の喧騒と気怠さに包まれた空気。 「あ、ハル。おはよ!あんた席替えみた?」 向こうから話しかけて来るのは同じクラスの女子二人。あ、月初だもんな。 「あんた、眠気も覚めるよー」 意地悪そうに笑う 「は?一番前かよ?」 「一番後ろ、だけど隣がね」 二人で笑い合うと、そのまま行ってしまった。なんだよ、一体。 教室に入ると黒板前の人だかり。 「はよーハル」 「席替えやべーぞ」 ぶっちゃけ高校入って、席替えぐらいで騒ぐなよ。はあ、と溜息をひとつ。黒板に貼られた座席表。欠伸をしながら、見る。 うん。なんだ。 窓際から、二列目の一番後ろ。最高じゃねーか。しかも前と隣が、いつも連んでいる、桂助と真咲だ。これ今までで一番いい場所じゃねーか。なにが、 「まじか」 窓際の一番後ろ。つまり、俺ら仲良し三人に囲まれるポジション。そこに書かれた名は、春宮。 だめだ このクラスの委員長であり問題児。キツい物いいに、他人を寄せ付けないオーラ。まあ、苦手すぎる人間。クラスでも疎まれている。入試が一番だったらしく、担任が委員長に指名したのだ。話しかける奴なんて、いない。口をひらけば他人を見下した言葉、態度。 はぁ、 思わずまた、溜息がでた。 「ありゃー。最高の組み合わせと、最悪な組み合わせだねー」 桂助が何時の間にか、隣にいた。 ざわっ、と今までとは違った、冷たいざわめきが扉近くで起こった。 「やばっ、セーターとか」 「しーっ。聞こえるって」 かたまっていた女子が道を開ける。 目を向けると、いつもの仏頂面。夏服の上からベージュの長袖のセーターを着込んだ、異様な出で立ちの委員長がいた。 「最悪だな」 座席表を一瞥すると、そう呟いて席へ向かう。 しーん。 そんな空気のクラス。 絶対零度の視線。委員長が、椅子を引く音だけが響いた。 「まぁ、ぼちぼち やってこーよ、ハルちゃん」 「ん、あぁ」 腹が立つが、クラスの冷すぎる視線を独りで受けている姿は。小さすぎた。 10分後 遅刻すれすれで 駆け込んだ真咲が、黒板の前で喜びと絶望の声をあげた。 「あぁー!くそっ!あいつ、18回も椅子を蹴りやがった」 「数えてたんだ、まーくんが寝てんのがいけないんだって」 「あいつには関係ねーだろ、あームカつく。憂さ晴らしだ、カラオケ行くぞ」 「いいねー!あ!俺、駅前の割引チケットもってる」 「そこにすん「だぁ!!!」 今まで 静かだった ハルが叫ぶ 「んだよ」 「鍵無くした!家の」 慌てた様子で 色々探るが 無い様だ 「ハルちゃん、あんた体育制服でしてたから、机の中にでもいれたんじゃないのー」 「それだ!!」 慌ただしく じゃあな、と 学校へ駆け出す 「あんたスゲーな」 「そりゃどうも」 人気のない校舎。日が傾いている。グラウンドからは、部活動の声。しん、とした空間に響いていた。 がらっ、 教室の扉を開けてぎょっ、とした。窓際の一番後ろに突っ伏す姿。椅子にはセーターが掛けられている。 「委員長、っ!」 声をかけようとして、近よって見下ろした光景に絶句した。 机に下ろされた半袖から伸びる白く細すぎる腕。そこには赤や紫の あざ あざ あざ 血が浮き出て固まった傷が手当てもされずに存在を広げていた。 時間が止まった様に感じる。 カーン 野球のボールが打たれる音で我にかえる。 「いっ委員長!」 その声に 「…ん」 と声を漏らし顔を上げる。近距離でピタッと視線があってしまった。とろん、とした瞳にはくっきりと隈ができていた。 「ーっ!」 驚いた様に身を引く。ガタ、と椅子が鳴る。 「あー、っと大丈夫か」 言いにくい。引っ掛けてあった セーターを慌てて被る姿。 「だっ、誰にも」 「言わねーよ、だから ちょっと付き合え」 怯えた様に見上げる瞳。いつもとの差に驚きが隠せなくて目をそらす。とりあえず細すぎる体になにか食わせてやりたかった。 「ほらよ」 来たのは自分のアパートの近くの公園。そこにこの時間帯に来る屋台のお好みそば。お好み焼きに焼きそばが包まれてクレープみたいに手でもって食べる一品。たまにこれを狙って買いにくるのだ。 ブランコに座って俯く姿。 教室の中のこいつと真逆の空気に戸惑いを隠せない。 「金を、もたない」 小さく呟かれた言葉 「んあ、いーよ。おごるからよ」 迷う様に視線を止め すまない、と受け取った。ブランコの囲いに腰掛ける。目の前で済まなそうにぱくり、ぱくり、と頬張る姿は泣きそうに見えた。 「あのさ、」 「あれ、一縷。なにしてんの?」 言いかけた言葉に重なって後ろから声がした。いちる?こいつの名前か?見ると驚愕に見開かれた瞳。ざっ、と俺らの間に現れたのは委員長とそっくりな顔。 は? 一瞬混乱する頭。あれか、双子ってやつか。 しかしこの制服。俺らの学校のそばにある金持ちしか入れない超名門校の制服だ。 「買い食いなんかできる お金持ってたっけ、」 ぽとり、と委員長の手からお好みそばが落ちる。状況に頭がついていかない。くるり、と振り返ってそっくりさんは財布から千円を取り出して俺に差し出した。その財布は俺がバイトで貯めて買おうと決めていた物だった。そしてその中には、札束。 「ごめんね、おごってくれたんでしょ」 にこり、と上品に微笑む仏頂面と全くおなじ顔。 「いや、俺が 奢るってたからよ」 ひらひらと手を振れば 「いいからもらって、ねっ?」 ふふっ、と微笑む。まあぶっちゃけ綺麗な顔だ。女ならいちころなのだろうか。思わず受け取ってしまった。 「帰るよ、一縷」 笑みが消えてそれに向けられた顔は酷く冷たい。ああクラスの奴らの視線と同じだ。双子の兄弟じゃねーのかよ。 「すまなかった、草戸」 去り際にちらり、と目を向けて謝る。 「いや、つーか」 振り返ると黒塗りの車に乗り込む姿。千円を返そうと叫ぶが、排気ガスを存分に吐いてあまり目にした事のない高級車は走り去った。 「なんだ、ありゃ」 ぽつり、地面に呟いた。 ーー 何時もの朝。コンビニへ寄る一人暮らしだと弁当を作ることはまず、ない。大抵コンビニか購買のパンだ。パン二つにおにぎり一個。最近野菜食べてねーな、とサラダも手が伸びる。 思わず委員長の事がふ、と浮かんだ。細すぎる傷だらけの体。怯えた声。受け取ったものを無言で食べる姿。 昨日の夜は、ぐちゃぐちゃ考えてあまり眠れなかった。何度考えても辿り着くのは恐ろしい答え。 金、持ってねーって言ってたよな。 パンとおにぎりをもう一つずつ追加した。 「はよー」 「おはよ、ハルちゃん。珍しく早いね」 「うるせーよ」 あちー、と窓を開ける。そこで、はた、と気づく。 「委員長て来るのおせーの?」 「大抵俺より先に来てるよー。たまにギリギリだけど。どうしたのさ、ハルちゃんなんかあったの?」 「いや、なんも」 パタパタと生温い風を下敷きで扇ぐ。 そして遅刻三分前。 真咲が間に合った、と入ってきた後ろから息を切らせて委員長は登校してきた。相変わらずセーター姿。クラスの空気が一瞬変わる。何故だろうか、クラスの奴らを殴りたくなった。 「グッドモーニング」 「また遅刻三分前だよ」 苦笑いの桂助。 「スマホがちゃんと起こしてくれねーんだよ」 「おはよ、委員長」 桂助と真咲がぎょっ、としている。席に座ろうとしていた委員長は一瞬不思議そうに俺を見上げた。そして、はっ、と気づいたように目を細めて、視線をそらして。聞こえるぎりぎりの声でおはよう、と反復した。 桂助と真咲が 何か言いたそうだったが担任の声が切り上げた 隣を見ると。何時もと変わらない凛とした姿が黒板を見据えていた。 朝から最悪な日だった。いつも余裕をもって家を出る。母と会わないようにそっと、階段を降りたつもりだった。それなのに、リビングから出てきた母と目が合った。 そこからはあまり覚えてない。蹴られて、罵られて、また蹴られて。 しばらくして飽きたようにリビングに入るのを確認してから、慌てて家を飛び出した。 大丈夫だ、走れば間に合う 痛みを忘れるように必死に走った。 暑い 痛い 痛い 痛い でも、足を止められなかった。 授業中、逆にじっ、と座っているほうが辛い。右の脇腹が酷く痛む。今日しつこく蹴られた場所だ。次は体育だった。休める場所を探してさぼろう、そう決めた。 立ち上がるのさえ辛く感じた。 三階に小さな空き教室がある。 そこにしよう。 ふらふら、白い顔をして委員長は出て行った。手にはなにも握られていない。 「おれ、サボるわ」 「は?今日こそバスケ決着つける約束だろ」 「わりいな、」 コンビニの袋をつかむ。そして慌てて追いかけた。 「なんだ、ありゃ」 「俺にもさっぱり」 「委員長、」 人が疎らな階段で捕まえた。 「体調悪りーんだろ?こっちだ。」 有無を言わさず手を引く。授業のベルが鳴り響く。青い顔をしてなされるがままに着いてくる委員長。ゆっくりと、重い屋上の扉を開けた。影に連れて行き、手を離す。 「なんだ」 「とりあえず座れ。あんた、顔真っ青だぜ。倒れちまう」 本当にキツいらしい。素直に従ってまた睨みつける。 「俺に構うな、昨日の事は忘れろ」 「忘れろっつてもな」 うーん、と頭をかく。 「だってな、」 言いかけて下を見ると歯を食い縛って横腹を押さえている。 「大丈夫か、痛むのか」 「たいした事じゃない」 そう言いながら目を固く閉じて手を握りしめた。 「なんか、飲め。これやるから」 差し出したスポーツドリンク体育を見越して買ったものだった。 「構うな、消えろ」 深く俯いたまま拒絶する。首筋を見ると、汗が流れている。呼吸が浅い。 「飲まねーんなら無理矢理飲ませる。そのくらい、やばい感じだからな」 ほら、と手にペットボトルを握らせる。その冷たさに観念したのか、こくこく、と飲み始めた。 「セーター脱いだら?暑いだろ。大丈夫だ。俺しかここ、居ねーしよ」 夏風が髪を揺らす静かな穏やかな空間。 ぷち、 ボタンをゆっくりと外す。脇に脱ぎ捨てられるニット。外界に晒される傷だらけの白い腕。 改めて見るとあざの上からあざが重なっている。思わず触れてしまった。 「っ、離せ」 びくり、と体を震わせる手であざを辿っていく。消してあげれるわけじゃない無駄な行為。 「気持ちわるくはないのか」 俯いていた顔を上げて恐る恐る、そんな風に聞いて来た。 「どーやったら消えんのかな、これ」 少し強く擦ってやる。それでも消えない、消せない。 はぁ、と息が吐かれた 「もう、いい」 「ん?」 視線を腕から顔に移す。視線は青い青い空に向けられていた。 「いいんだ、」 諦めたように呟かれた言葉。つう、と頬に涙がつたう。只だ、俺はその哀しすぎて綺麗すぎる光景に目を細めて固まることしかできなかった。 すっ、と頬に触れられた 「っ!」 慌てて身を引く。なんなんだ。 「泣いてる」 長い指で指された。はっ、として拭う。だけど一度堰を越えた涙は、なかなか止まらない。 ずっと ずっと 我慢してきたのだ。部屋に独りになっても泣くまいと決めていた。 痛くても 辛くても 寂しくても なのに、体が言う事を聞かない。感情を抑えるのには慣れたはずなのに。何故自分が泣いて居るのか理解できないまま、涙は流れ続けた。 その間こいつは、何も言わず隣に肩が触れ合うような距離で座っていた。理解できないことが多すぎた。 「大丈夫か?しっかり掴まっとけよ」 風を切る、初めての感覚。草戸の自転車の後ろに乗っていた。何故こうなったのか。 屋上で保健室に行くことを強要された。行きたくない、そう拒んだ。身体計測と健康診断を全てさぼっている自分に養護教諭は目を付けている。保健室にいったらとやかく質問されるだろう。 「じゃあ、俺ん家くるか?」 ぽつり呟かれた言葉に 拒否の言葉を返すことができなかった。 「適当に座ってろな」 アパートの部屋に入るとどうしたらいいかわからないように立ち尽くす委員長。冷房を入れて台所に向かう。痛み止めと水を持って戻ると部屋の入り口のドアの横に膝を抱える姿があった。 「そんな隅じゃなくて こっち来いよ」 テーブルにコップと薬を置く。 恐る恐るといった感じでベッドのそば、テーブルの前に座った。 「これ痛み止めなんだけどよ んーと、今日朝飯食べた?」 ふるふる、と首が小さく横に振られる。 「昨日の夜は?」 また同様に振られる。 「は?んと、どれくらい食べてない?」 あ、昨日のお好みそば抜きな、と続けた。 昼飯は買ってきたコンビニおにぎりは辞めたほうが良さそうだな。 「五日前にパンを食べた」 小さな声に思考が止まった。 「は?」 視線がぶつかる。ちょっとは覚悟していたが、余裕で想像の上をいった。 「っと、とりあえず 薬はまだ飲んだら駄目だ なんか食ってからじゃねーと」 慌てて冷蔵庫の中身を考える。空きっ腹に入れれるような消化の良いものを、あ、蕎麦があったな。直ぐに出来るしそうしよう。 「ちょっと待ってろ、蕎麦食べれるだろ」 「いい、世話になるつもりはない」 「あのな、五日飯食ってない奴を見捨てれるような人間どこにも居ねーよ」 テレビでも見とけ、とリモコンを渡す。 10分後には冷やし蕎麦がテーブルに置かれた。 「ワサビ入れるか」 「いや、」 じっと見上げてくる瞳。 「ん?俺は買ってきたパン食べるから食っていいんだぜ」 「、すまない」 そう言って箸をとるがぎこちない。とりあえず箸の持ち方が間違っている。 「あー、箸な。こう持ったほうが使い易いと思うぜ」 手で示すとかあっ、と耳まで赤くなって箸を置いた。 「もう、いい」 「よくない、ほらこうして」 手に箸を持たせて自分の手を添える。かたかた、と震えている手。 「こっちの方が良いだろ」 言われた通りに使い方を直す。器用なのだろうか、すぐにスムーズに使える様になった。 「あんた、器用だな」 薬を飲ませた後、会話も無くただテレビを眺めていた。時計は午後1時を指している。 こくり、と隣の頭が揺れた。 「薬飲んだから眠いだろ。ベッド使っていいぞ」 「いや、大丈夫だ」 「うつらうつら、してたぜ。あんた」 「そんなこと無い」 「じゃあ、眠いのは事実だろ」 目は隈ができてる。寝れてないんだろう。 「…汚い、」 俯いて呟かれた。 「あー、昨日シーツ変えたし、汚くはない、と思う」 いや、昨日汗くらいはかいたかも。自信は無いな。 「違う、制服が」 言いかけて慌てて口をつぐんだ。 「制服が、なんだ?」 瞳が揺れた。迷う様に揺れていた。 こいつは、草戸は、理由を聞かない。傷の事も食事の事も箸の事も、なんでだ?とは続けない。そうか、と続ける。だから、思わず口が滑りそうになった。 「別にいいぜ、言いたくないことまで、聞かないから」 にしても、やっぱり五限目は魔の時間だわ。 んー、と伸びをする。話を変えるように。 「き、昨日の夜に この制服に着替えたんだ」 意を決して口を開いた。じっ、とこちらを見て話を聞いてくれている。 「それでお、おれっ、は」 全身が震え出した。抑えこもうと手を握りしめるが、止まらない。その時肩に手がのばされた。 「言いたくないなら、言わなくていいんだ。言いたいなら、待つから」 とんとん、と背を優しく叩く。 向き合うようにして、抱き寄せる形になってしまった。いじらしくて、かなしそうで、思わずとってしまった行動。そっと、開放しようとした時に声がした。さっきよりも、落ち着いた声が、 「俺は、制服で 床に寝ているから 制服が汚い、と思う」 哀しい言葉を紡ぐ。汚くなんかない。今だって洗剤の香りがする。 「お前を汚いと、 言ったのではない 誤解するな」 そう続けた。 「優しいんだな、あんた」 声が震える。 こんなに、 傷ついて 傷ついて 傷ついて 人の気持ちに構う余裕なんて、無いはずなのに、一生懸命紡がれた言葉は優しすぎた。 「優しいのはお前だ、何故ここまで構うんだ、何の得にも、ならない、のに」 わからない。その言葉は途中で嗚咽に変わる。 細い、壊れそうな体を抱きしめた。心の底から絞り出すように泣く。何重にも蓋をした心から引き出すように、泣き止むまでずっと抱きしめた。 カチカチ、と時計の針の音と冷房の音しかしない。泣きつかれた様に寝てしまった委員長はベッドに横たえた。時折、苦しそうに声を洩らす。その度に髪を撫でてやった。 ヴー、マナーモードの携帯がなった。 発信は湊屋真咲。 あー、学校終わったんだな。なんて考えて、またポケットに戻した 「出なくてよかったのか?」 後ろから声がした。 「ん、目ぇ覚めたか」 ベッドから降りて 「すまない、寝てしまった」 腫れている目をこすりながら、セーターを着込む。 「もう、帰んのか?」 「充分、世話になった」 帰らせたくなかった。こいつの傷が何処で付けられているのかは言わなくてももう明白だった。また、傷を増やしに帰るのだ。 「ちょっと待て。これ、持って帰れ」 痛み止め二錠とパンを一袋。 「ほんとうに、すまなかった」 申し訳なさそうに受け取る。 「送っていく」 「大丈夫だ、これ以上世話になりたくない」 首を横にふる。 「そうか。いつでも来ていいからな」 玄関の扉を開ける。振り返った顔は、今日で一番穏やかだった。 制服を脱ぐ。シャワーとトイレは、三つある客間のうち物置の隣の部屋、その部屋に備え付けのものを使う事を許されていた。脱いだ制服のYシャツとズボンをカゴに入れた。ハウスキーパーが手伝ってくれるのは、洗濯だけ。物置部屋の前に決まった時間になると綺麗に洗われた洗濯物が置かれる。一つの飴と一緒に。それが夜の唯一の楽しみだった。 そんな日常。 シャワーを頭から浴びる。傷がしみるなんて 慣れた。階段から音がした。びくり、と体が強張る。慌てて水をとめて聞き耳を立てる。どうやら兄のようだ。ゆっくりと息をはいた 体を拭いて纏うのは明日の制服。制服以外の服を持っていない。寝巻きすらも。兄はいつも新しい服を着ている。モデルをしている母が次から次へと買い与えるのだ。いつもきらきら光っている兄。いいんだ。自分は一生影でいいんだ。 居場所はひとつ。暗い屋根裏部屋。床に横になる。昼に寝てしまった草戸のベッドとは全くちがう。骨に直接響く痛み。 「っ、」 痛み止めとパンは大切に机の引き出しに閉まった。ベッドはふかふかして心地よかった。だから寝てしまったのだ。 夜が長い。今日も寝れそうにない。机のライトを付けた。教科書を広げる。自分にはこれしかないのだ。すがりつくように机に向かった。

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