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第6話 寿輪楼夜話・3

「では」  一郎太さんが座り方をあぐらから正座に変え、背筋を伸ばして朗読を始めた。 「昔、とある遊廓に汐月(しおつき)太夫という大層美しいお(しょく)(※楼で一番の売れっ子)の女郎がいた。汐月の名は三界に轟き、この美しい女を一目見ようと他の地の男達が押し掛けるほどであった……」  汐月を身請けしようと、せめて旦那になって世話をしようと、土地主や政治家やらが名乗りをあげていたが、汐月はかたくなにそれを拒んでいた。──遊廓一の美しさを誇る汐月には、ただ一人心に決めた男がいたのだ。その男はまだ学生で、名前を公三郎(こうざぶろう)といった。 「(わたし)の心は貴方だけ。どんなに位の高い殿方が現れても、妾が泣きながら呼ぶのは公三郎さんの名前だけなのです」 「ああ、僕もお前だけを愛している。いつかきっと汐月を身請けし僕の元へ嫁がせる」  二人は会うたびに燃え上がるほど愛し合ったが、汐月はその約束が果たされないと分かっていた。日に日に増す体の不調に、自分の命がそう長くはないことに気付いていたのだ。 「公三郎さん、お願いがあります」 「どうしたね、汐月。何でも言ってごらん」 「もしも妾が死んでも、決して他の女郎の元へは行かないで下さい。貴方のお嫁になれなくてもいい。だけどどうか公三郎さん、この汐月だけを愛しているという貴方の言葉、生涯守り続けると約束して欲しいのです」  その頃には汐月の体も弱り切り、瑞々しかった肌は醜くしわが寄るほどに乾き痩せていた。客の取れなくなった汐月は楼内の離れに隔離され、ただ死を待つのみだったのである。 「ああ、分かっているよ汐月。僕は決して他の女の所へなぞ行かない。だから死ぬなんて言うな。気をしっかり持って、また僕を抱いてくれ」 「公三郎さん。約束です」  震える細い小指が、公三郎の前に差し出された。 「汐月……」  その小指に公三郎が己の小指を絡めると、汐月はようやく青褪めた顔に微笑を浮かべたのだった。 「指切りげんまん、嘘ついたら針千本、飲ーます……」  ──指切った。  さてその夜息を引き取った汐月は無縁仏として葬られ、楼ではこれまで二枚目(※二番目の売れっ子)であった二葉という女郎が汐月に代わりお職となった。二葉もまた汐月に負けぬほどの美しさであった。  そうして公三郎は汐月との約束など始めからなかったように、いそいそと二葉の元へ通い始めたのである。 「悪いお人ですわぁ、公三郎さん。汐月姐さんが浮かばれませんよ」 「いいんだ。汐月は僕の遊び代を出してくれる母のような人だった、それだけだからね。僕が本当に愛しているのは二葉、お前だけだよ」  何と公三郎は勉学に励む学生などではなく、己の整った顔立ちと汐月の恋心を利用した、「ただの男」だったのである。汐月は学者になりたいという公三郎の嘘を信じ、言われるまま学費や生活費に交遊費、果ては自分の揚げ代まで支払っていたのである。 「さあ二葉、その若く美しい胸に僕を抱いてくれ」 「いけませんわぁ、公三郎さんったら」  ふとその時、公三郎の耳に遠くからわらべ歌が聞こえてきた。  指切りげんまん、嘘ついたら…… 「この歌は嫌いだ。二葉、早く布団に入れてくれ」  針千本、飲ーます…… 「公三郎さん」  公三郎の小指を握った二葉の手に見る間にしわが寄り、乾き、痩せて行く。 「……指、切った」 「二葉、……」  顔を上げた公三郎の目に映った女郎の顔は美しい二葉ではなく、胸を掻き毟り血を吐いて一人死んで行った汐月、そのものであった。

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