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第13話 海の向こう側
遊廓に来て初めての冬がやってきた。
「うう、さぶい……!」
素足で廊下を歩くのが辛い辛い、そんな季節。
「寒いから余計におしっこしたくなる……」
温かい布団の中で朝まで寝ていたいのに、こうしていつも尿意で起きてしまう自分が許せない。
「しかもこんな時に限って、西側のトイレが故障中なんて……」
俺はぺたぺたと早足で廊下を歩きながら東側廊下にあるトイレを目指し、手早く用を足して再び廊下を歩き出した。夜の廊下を歩くのは今でも怖いが、尿意と寒さには敵わない。言うならば「自棄」だ。やけくそになって廊下を歩くだけ。
「もっと厚い布団に代えて欲しいって言ったら、また借金になっちゃうしさ……お義父さんの部屋は炬燵まであるのに。……お義父さんの部屋で寝ちゃうぞ、全く……」
怖さを紛らわすための文句を呟きながら歩いていると、通りかかった部屋の襖が開いているのに気付いた。――ここは東側のトイレから一番近い、一郎太さんの部屋だ。
「一郎太さん……?」
明かりが漏れているから、誰か起きているのだろう。案の定、すやすやと眠る次郎太の傍らに座っていた一郎太さんが、俺に気付いてにこりと笑った。
「眠れないんですか?」
「少し、目が覚めてしまってな。外の景色を見ていた」
「何か面白いものありました?」
ぶるぶると震える肩を摩る俺を見て、一郎太さんが「入れ」と部屋の中へ招いてくれた。
「俺の旦那が買ってくれたストーブだ。近くに座れば温かいぞ」
赤く光る、見るからに温かそうな「ストーブ」。漏れていた明かりはこれが光っていたからみたいだ。
「わ、あったかい……幸せ……」
次郎太を起こさないよう気を付けて布団の端に座り、焚火で暖を取るように両手をストーブに向ける。
「いいなぁ、これ……いいなぁ」
「彰星も若にねだればいい。安価な物もあるらしいぞ」
「へへ。今月はもうオセロを買ってもらったので、おねだりできないんです」
「まるで父親とその子供だな」
くすくすと笑う一朗太さんは、季節を問わず一年中美しい。流れるような黒髪に、すっきりと整った顔立ち。いつか天凱さんに見せてもらった本に若い剣士の話があったけれど、挿絵の剣士にそっくりだ。
「窓の外、どうして見てたんですか?」
「ああ、……ここからでは見えないが、近くに弥代の海があるだろう。耳を澄ませば波の音でも聞こえるかと思ってな」
「海、好きでしたっけ?」
窓に顔を向けた一郎太さんが、俺の方は見ずに少しだけ微笑む。
「末弟の三郎太が、もしかしたら外国にいるかもしれない」
「えっ?」
「客として船乗り達がたまに来るだろう。その中の一人に馴染みがいて、三郎太の居場所探しに協力してもらっている」
港の近くに遊廓があるのはそのためだ。定期的にやってくる大勢の船乗りが意気揚々と遊廓に流れ込み、その日はどの娼楼も大忙しになる。「港に船が停まった時が、唯一無二の稼ぎ時」。それはお義父さんの口癖でもあった。
「そうだったんですか……。確かに三郎太くんなんですか?」
「いや、日本人の男の子子であることと、見た目の年齢が近いこと、くらいしか分からないんだが……。その船乗りも一度見かけただけで、話して名前を聞いた訳じゃないそうだ」
「無事だといいです……」
「ああ、本当にそう願う」
外国にも娼楼みたいな物があるんだろうか。話す言葉も日本語では通じないと聞くし、俺だったら外国なんかに売られてしまったら不安で不安で仕方がない。
……三郎太くんは、まだ六歳なのだ。
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