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oneday.

「…っ、嫌だ…っ」 ぐい、と音がしそうな程無理矢理引かれた手は瞬時に振りほどかれた。困惑と怯えに歪んだ瞳が泳ぎ、やがて呆然と立ち尽くす雅秋の元へと辿り着く。助けてくれ。遼の目は確かに求めていた。 「若。後生ですから。貴方はこんな所にいる人ではないんです。帰りましょう」 「嫌だ。嫌だ…っ、帰らない。雅秋、」 頭を抱えて強く振る。縦に細長い体躯が一瞬くらりと揺れたかと思うと、足元から崩れ落ちる。危うく床へと倒れそうになった身体を雅秋が咄嗟に受け止めた。 「遼、」 「…っ、頭、…頭が、痛い、雅秋、」 泣きだしそうな目が訴える。 遼のその相貌を隠すように胸へと押し抱き、スーツの男を睨み付けた。 「帰ってくれ。見りゃわかるだろ。こいつは病人だ」 「……、」 雅秋をこいつ呼ばわりした事も、その腕に雅秋を抱くことも、要求が通らなかったことも全て憤りに繋がっている。それでもスーツの男は堪えるように2人を一瞥し、硬いフロアの床を蹴り上げ背を向けた。 ※※※※※ まるでこの世に二人きりになったようだ。 下着1枚だけを纏い、体温を分け合うように抱き合っているとそんな錯覚に襲われる。二人分の身体を包むには少し狭い布団を遼の肩口まで引き上げてやる。雅秋の胸板に額を押し付けたままの遼が淡く息を吐き出した。 「…昼間は」 その一言だけで、日中訪れた男の顔が蘇る。 遼をどこぞのヤクザの組の頭だと言っていた。 にわかに信じ難い話だったが、遼の腹の傷や、拾った時に所持していた物騒な道具の理由は合点が行く。 だがその記憶は今の遼には無い。昼間あの男を拒絶したのは本能的なものなのか、それとも雅秋を、雅秋との暮らしを選びたがったものからなのかは解らない。恐らく遼にもわかりはしないだろう。 「…すまなかった。…あんな…」 「…つまんねえこと気にすんな」 黒髪を柔らかく梳く。薄く窄まる双眸がごく浅く頷いた後、また困り果てたように泳ぎ、そして伏せられた。 「…もし、…いつか記憶が戻ったら、…俺はお前の事を忘れてしまうんだろうか」 「ーーー…」 身動ぎし、途方に暮れたような溜め息を吐き出す。胸の中の遼の表情は伺うことは出来ないが、雅秋は覗き見ることも止めた。きっと今も遼は泣いてしまいそうな顔をしている。 今の暮らしが無くなることは怖くはない。 これは転がっていた野良犬を拾って預かっているようなものだ。その証拠に今日は保護者が返せとやって来た。野良犬は野良犬ではなかった。帰ったのなら、きっとここより良い暮らしが待っている。それならばーーー遼を思うのなら、返してやるのが筋だろう。 それでも遼は眉を寄せる。腰に回った腕に不意に力が込められる。 「…だったら、俺は記憶なんか戻らなくて良い」 「…遼」 「お前の事を忘れるのなら…ここに居られなくなるのなら、記憶も、腹の傷の理由も、思い出せないままで良い」 掠れた声はシーツに、布団の中に吸い込まれていく。 遼がこの家にやって来てから始めて自分の意志を口にしているような気がした。 「今の暮らしより…雅秋より大切なものなんて無い。…ここに、居させてくれ」 「……、」 明確に頷く事が出来なかった。 眉根を寄せて遼を抱き締める。雅秋の腕の力を遼はどう捉えたかはわからない。 この世に二人きりだったら良いのに。 途方に暮れたのは、雅秋の方だった。

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