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【1】

「杉尾! お前は、また……っ」  毎朝行われる朝礼の場で、日課になりつつある上司からの小言が始まる。  俺は耳に指先を突っ込んだまま、チッと舌打ちをした。  目の前に立つ我が上司、建築営業部部長である松島(まつしま)がこめかみに血管を浮き上がらせて俺を睨んでいた。 「また始まったよ……。部長の小言……」 「女王様(クイーン)に何を言っても無駄だって、まだ気づかないのかねぇ……」  背後から聞こえるのは、ボソボソと囁く同僚の声。  俺だって聞きたくない。まして、関係のない同僚たちまで巻き込んでの小言はいい加減うんざりする。  少しウェーブのかかった長いクセ毛を気怠げにかきあげて、フンと鼻を鳴らす。 「部長、今日は短めでお願いしますね。打合せ入ってるんで……」  目を細めて笑う俺の態度に、松島の怒りがヒートアップする。五十代にしてはまだ毛量のある頭のてっぺんから湯気が出そうな勢いだ。 「血圧上がりますよ……部長」 「うるさい! 誰のせいで上がると思ってる? 昨日のクレーム対応、どうしてまたクレームが倍増するんだ?どう考えてもお前が火種としか思えんだろうっ」 「どうして俺だって決めつける? 俺が勝手に動いてるみたいな言い方やめてくれないかなぁ……。何のために華城(はなしろ)が一緒に行ってると思ってるんですかぁ? 俺のお目付け役って名目でコンビ組ませたんでしょ? じゃあ、俺だけが悪いんじゃないよね? 連帯責任ってやつ?」  不遜に言い放って、隣に立つ長身の男を見上げた。 「そう思わないか? 華城……」  きちんとスーツを着こなしたその体は無駄に鍛えられていて、どこかの要人のSPをやっていてもおかしくないと思わせるほどの迫力がある。  鼻筋の通った端正な顔立ちにやや硬めの黒髪が、これまた無駄に男の色香を放つ。  彼は俺にチラッと視線をくれただけで、正面に立つ松島に向き直った。 「――申し訳ありませんでした部長。その件は今日、俺が責任を持って対応します」  口数は決して多くない彼が放つ低い声は、俺にとって耳の毒だ。ズクリと腰の奥が疼いて、その声だけでイケそうだ。  仄暗い欲望をひた隠す俺とは違い、真面目で几帳面、ついでに言えば愛想もいいとは決していえない男だが、松島からは絶大な信頼を得ている。  先輩である、この俺よりも――だ。 「悪いな、華城……」 「いえ……。俺にも責任の一端はありますから」  真摯な対応に、松島の毒気もすっかり抜かれている。松島がすぐに冷静になるのには、俺がただやる気のないダメ社員ではないということを分かっているからだ。  この営業部で受注率120%を誇る俺の実力を認めざるを得ないところにある。 (これで、やっと朝礼が終わる)  周囲が安堵のため息を漏らしたと同時に、松島の張りのある声が響く。 「以上! 解散……」  各々が自分のデスクに戻り、業務の準備を始める。  俺もまた、くるりと体の向きを変えて自分のデスクに戻るとパソコンの電源を入れた。  少し遅れてデスクに戻った華城が、そっとコーヒーの入ったカップを俺のデスクに置いた。 「どうぞ……」  毎朝の日課になりつつある、彼が淹れてくれるコーヒーは俺にとって一日の活力剤と言っても過言ではない。 「ありがと……」  目も合わせずに言うと、彼は小さく吐息した。 「ホントに、懲りない人ですね……」  そう言うのは彼だけではない。  この会社の社員、いや――俺の家族までもがそう思っているに違いない。  でも、俺は許される。なぜって……俺は、俺だから。  俺の父親はこの辺りでは有名な建築設計事務所の所長だ。雑誌やテレビなどでも何度か取り上げられているほどの有名人で、手がけた案件も数知れず……。  その父を支え、一緒に経営に参加しているのは兄で、次男坊である俺はお気楽に『修行』という名目で三流ちょっと手前のゼネコンで営業なんて仕事をしている。  建設業界ではよくある話で、大学を出て特に何をやりたいと思うことなくコネ入社したこのA建設で、仕事のやりがいさえ見出せずにいたある日、俺の日常を劇的に変える男が現れた。  それが、華城(はなしろ)騎士(きし)だ。  中途入社というには実に不自然な時期に突然現れた彼。同じ建築営業部に配属になり、部内のお荷物と言われていた俺の『お目付け役』という厄介な役目を押し付けられた。  後輩でありながら二歳年上の二十七歳。  営業部は基本的に二人一組で動くようになっており、売り上げもそれに準じる。  特別なノルマがあるわけではないが、ここ最近の不景気の煽りを受けて受注件数が激減しているせいで、上層部がピリピリした雰囲気になっている。官公庁の仕事だけでなく民間の受注も難しい今、リフォームや改修、耐震補強などに重点を置いているのが当社の現状だ。  当社の建築営業という部署は実にやることが多彩だ。大手ゼネコンなら絶対にしないだろうという事まで自分たちで動かなければならない。  それには工種や工事内容、現場や安全管理の内容なども把握しなければ、顧客はもとより他社と対等にやり合うことは出来ない。  この会社は何かと工事部との折り合いが悪く、揉めることが多々あり、気性の激しい現場サイドの顔色を窺いながらの仕事はストレスが溜まる。  小さい頃から父と兄の影響で多少の知識を持ち合わせていた俺でさえも、理解出来ない用語や工程があり、その度に頭を悩ます。  しかし、華城は違った。建設業自体未経験のはずなのに、俺よりも知識の幅は広かった。  独学で学んだと本人は言っているが、顧客先に出向いても的確な提案やアドバイスが出来てしまうのが悔しい。  以前、勤務していた商社でどんな営業をしていたか定かではないが、寡黙で愛想がいいとは言えない男が、どこまでこの業界でいけるかという不安を抱いていたのは、どうやら俺だけだったようだ。  独身で一人暮らし、某有名大学を出て一流商社に就職、そして現在に至る……ということしか分かっていないこの男のことが気になって仕方がない。  俺とコンビを組んで一年と少し。最初は戸惑っていたものの、俺の扱いにも部長の扱いにも慣れてきたようだ。 「今日の打合せの資料って出来てる? また、運転手よろしくね~」 「――はい」  低い声で短く答えた彼にほんの少し睨まれたような気がして、また感情の見えない冷たい視線に体の芯が熱くなる。  そう――俺は、この男に惚れている。  中途入社の挨拶で、初めて見た時に恋に落ちたと言っても過言じゃない。  元来、好きになったら男でも女でも構わないというスタンス。どちらかといえば、煩わしい女と付き合うよりも男と付き合った方が楽だと思っている。限りなくゲイ寄りのバイセクシャル。  しかし、神様が――正確には松島だが――せっかくコンビを組ませてくれた彼を、俺の性癖でやすやすと手放したくはないというのが本音だ。 「俺、積算部に寄っていくから、準備出来たらケータイ鳴らして」  そう言って席を立つと、打合せに必要な書類を入れたバッグを手にフロアを出た。  五階建ての社屋は、各部署がワンフロアーを占有する形になっている。俺は、営業部がある五階から階段を下り、四階にある積算部へと向かった。  フロアの手前にある廊下の一角にコピー室があり、そこには図面をコピーするための特殊な機器が置かれている。そこを通り過ぎようとした時、見慣れた後ろ姿にふと足を止めた。 「折原(おりはら)?」  控えめに声をかけると、栗色の髪をアップにした愛嬌のある顔が振り返った。 「あ、杉尾! またサボってんの?」  黒縁メガネの向こうの瞳がすっと細められ、露骨に顔を歪ませる。  彼女は折原(おりはら)夏樹(なつき)。俺と同期入社で、今は積算部のホープと言われている。  小柄で飾り気がなく、人懐っこいくせに、言いたいことは容赦なく口にする。  どこか俺と似ている部分がある彼女とは飲み仲間であり、良き相談役だ。 「俺様に向かってサボりとは……。打合せに使う積算書取りに来たんだよ」 「あ~、K邸の件? 出来てるよ。これから出かけるの?」 「あぁ。会社にいても部長の小言で耳にタコが出来るからな」  夏樹は大きなサイズの図面を両手で纏めながら、唇の端を上げて微笑んだ。 「――また、ドライブが出来るから嬉しいくせに」  図星をさされ、照れ隠しに視線をそらす。  彼女は、俺の華城に対する密かな恋心を知っている。  そういったセクシャリティを持った者に対しても一切偏見を持たない彼女は、身近に俺のような存在がいて楽しいようだ。しかも、それが仲の良い同期であれば尚更だ。 「別に……。会話もないし」 「またまたぁ……。まぁ、恋してる時って、相手を見てるだけでも幸せな気分になれるもんね? いや~、朝から羨ましいお話でっ」 「お前、なんか誤解してないか? 言っとくけど、俺はそういうんじゃないからな。相手がいなくて困るってこともないし」  折原にすべてを見透かされているとしても、俺は自分の気持ちを偽っていたかった。  この俺がたった一人の相手を――しかも、好きになったということを安易に認めたくなかったからだ。  いつでも優位でいたい。そうでなければ自身のプライドが許さない。  つまらないモノに縛られていると自分でもバカらしく思う時がある。でも、こうやって生きてきた。  父にも兄にも、そして……その取り巻き連中にも相手にされず、それでも自分を主張し続けてきた俺だから、易々と『恋におちました』なんて言いたくない。 「――っていうか、まだ摘まみ食いしてるわけ? いい加減、やめたら?」 嫌悪感を丸出しにするように露骨に顔を顰められ、大きな目を細めて睨んだ彼女は大袈裟にため息をついた。  なぜか折原は、俺が誰かと遊んだ翌日、必ずと言っていいほど不機嫌な顔をする。相手が誰か……とまでは聞かないし、俺も言うつもりはないが、どうやら分かってしまうらしい。  図星を指され、ちょっと喰い気味に問いかける。 「な、なんで分かるんだよ?」 「気付いてないのは自分だけ! そんだけ目立つ顔で、フェロモン垂れ流しでウロウロしてれば気づくって! ホント、女王様(クイーン)には敵わないわ……」  夏樹の言葉に否定はしない。  俺は小さい頃から女の子によく間違われた。母親譲りの女顔で次男坊という気楽さから、やりたい放題しても誰も咎める者はなく、俺のワガママは誰もがきいてくれた。思春期を迎えてからは言い寄る女は後を絶たず、ついには男までもが俺に跪くようになった。  女を抱くのも、男に抱かせるのも俺の気分次第。  しかし、騎士に出会ってからは昔ほど遊んではいない。  今はただ、生理的欲求――いや、満たされない想いを満たすためだけに相手を探していると言った方が正解だろう。 ただ……。相手がどれほどイイ女であっても、男にフェラチオテクニックを駆使されたとしても、気持ちよくイケなくなってしまったのは事実だ。  相手が俺の絶頂に疑問を持つような顔をしたら、気怠げな顔で恥ずかしそうに微笑めば済むだけの話だ。それでも責めたてる相手であれば俺は容赦なく強気で言い放つ。 「相手にしてもらっただけでも感謝しろ!」――と。  自他ともに認める美人だが、毒の含有率も半端ではない。美しいものには毒があるという言葉は、まんざら嘘ではない。  それ故に、自分が周囲から密かになんと呼ばれているか――知ってる。  名前の玖音(くいん)に掛けて『女王様(クイーン)』と……。  しかも、不思議の国の○リスにでも出てきそうな、かなり性悪な女王様。傲慢で口を開けば辛辣な言葉を並べて相手を罵倒する。  だが、なんと呼んでくれてもかまわない。俺は――俺なんだから。 「――片想いって、あんたが考えているほど楽なもんじゃないのよ? 何でも自分の思うようになると思ってたら大間違い! 今に天罰下るわよ」 「絶対に堕とすから……。今に見てろっ」  彼女はまたも呆れ顔でため息をつくと、コピーを終えた図面を両手に抱えて俺の脇をすり抜ける。  化粧も薄く、男勝りでサバサバした性格でありながらも、髪から香る柔らかいフローラルの香りに時々女を感じる。  けれど、夏樹は俺みたいなタイプは受け付けないらしい。  街を歩けば、女も男も振り返るこの俺様を拒否する唯一の女……。  だから気を許して何でも話せるのだろう。 「ほら、さっさと積算書持って行って!」  積算部のフロアに入り、すぐに分厚い書類の束を手にドア枠から顔を覗かせる。 「悪いな、ありがと」  苦笑いをしながら受け取り、スーツの上着のポケットからスマートフォンを取り出すと同時に、絶妙なタイミングで着信音が鳴り響く。  慌てて画面をタップし耳に押し当てると、華城の声がスピーカーから聞こえた。 『杉尾さん、もう出られますか?』  心の準備さえままならなかった無防備な俺の鼓膜をくすぐる心地よい低音……。  なぜか顔が熱くなるのを感じて、焦ったように応える。 「だ、大丈夫……だ」 『駐車場にいますから……』  たった一言でも鼓動が激しくなる。今までにこんなことがあっただろうか。  この俺が――数々の男を跪かせてきた俺が、あんな男に踊らされるなんて……。  アイツも然り。いつか俺の足元に跪かせて、「抱かせて下さい」と懇願する彼を見下し、欲望に猛った自身の砲身を口に突っ込んで何度も犯してから、ご褒美として後孔への挿入を許可する。  俺の誘いを断れるヤツなどいない。ノンケだろうがゲイだろうが、関係なく堕とす自信はある。  あの端整な顔立ちが欲望と苦痛に歪む顔を思い浮かべるだけで下肢に熱がこもる。  その時、ドア枠に手をかけたまま俺をじっと見つめる折原の視線に気づいて、慌てて邪な妄想を払拭した。 「性格、悪っ」  ぼそっと呟いた折原に抑揚なく「じゃあな」と告げると、俺は駐車場へと向かった。

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