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【4】
あれから俺は何も知らないフリを決め込み、華城に何を問うでもなく、淡々と仕事をこなしていた。
あの日を境に、早川からのクレームの電話はピタリとなくなり、理不尽な呼び出しが掛かることはなかった。
相も変わらず隙なくきちんとスーツを着こなした華城がハンドルを握る営業車の助手席で、シートを倒して煙草をふかしている俺がいる。
水面下で動いていることは分かっていても、そのことに関して俺には発言権はない。
口にした時点で夏樹から漏えいしたと、すぐにアシがついてしまうからだ。
「――華城。K邸の最終見積り、松島部長に見せた?」
「いえ。まだ設備業者との折衝が出来ていないと工事部長が言っていたので」
「ふ~ん。催促した方がいいかもなぁ……」
「そうですね」
当たり障りのない会話。狭い空間には、煙草と華城が纏う香水の匂いが微かに漂っている。
F不動産の応接室で俺に見せた華城の妖艶な笑みは、あれから一度もお目にかかってはいない。
夜、ベッドに入って思い出すたびに体が疼いて、自ら慰めてしまう事が多々あった。
(そう言えば、遊んでないな……)
今まで一週間と間を空けずに誰かしらと体を重ねていた俺が、毎晩一人の夜を過ごしていることに気づく。
あんな話を聞いた後で、杉尾設計のバカ息子がナンパに明け暮れていると言われるのも癪だったからだ。
こんなに近くにいるのに、報われることのない恋心を抱えたまま、俺は小さく吐息した。
「――そう言えば。最近、杉尾さん大人しいですね?」
俺の心を見透かしたとしか言いようのない華城の問いに、煙草の煙を吐き出しながらすっと目を細める。
「どういう意味?」
「噂で耳にしたんですが、結構遊んでいるんですよね? もしかして……彼女とか出来て、落ち着いたとか?」
「どんな噂だよっ。お前には関係ないだろっ」
「黙ってはいましたけど、俺も薄々気づいてはいましたよ。昨日と同じスーツとネクタイ……朝帰りだな、とか。杉尾さんのものじゃない香りが残っていたり……とか」
ハンドルを握り前を見たままで、淡々と言葉を紡ぐ華城に俺は目を瞠った。
今日の彼はいつになく饒舌だ。普段は寡黙で、この車内でも沈黙の時間の方がはるかに長い。
それに、俺が話を振らない限り、自分から率先して何かを話す事はなかった。
何より驚いたのは、気づかれていないと思っていたことがすべてバレていたことだ。
確かに朝帰りもあったし、相手の香水がスーツに残っていた時もあった。
いつも行動を共にしている彼が、今まで口に出さなかったことをなぜ、このタイミングで言ったのか……俺には理解が出来なかった。
「――お前だって、あるだろ? そういう気分な時って」
「……」
華城からの返事はない。
黙ったまま前を見据える彼の目は前方の信号に向けられている。
「無視かよ。一人で抜くのも……なぁ」
ボソッと口から零れた心の声。華城に聞かせるわけでもなく呟いたつもりだった。しかし次の瞬間、華城から発せられた硬質な声音に、俺は息を呑んだ。
「――だからって、誰でも抱けるんですか? いや……抱かれるほうか」
「え……」
ちらりと視線を向けた彼の唇が意地悪そうな微笑みを浮かべる。
「あなたに傅く者ならば、誰にでも慈悲を与えるんですか……。なんて尻軽な女王 だ」
俺のあだ名は、彼ももちろん知っている。でも、こんな言われ方をされたのは今日が初めてで、なぜか狼狽えている自分がいる。
叱られているのか、それとも冗談の延長なのか……。見極めが出来ないだけに、うまく切り返す言葉が見つからない。
「そ、そういうお前はどうなんだよっ」
信号が赤になり、ゆるりと踏み込まれたブレーキによって車が徐々に減速し動きを止める。
そのタイミングで俺の方を見た華城が、あの応接室で見せた妖艶な表情で皮肉気に微笑んだ。
「――あなたに話す必要はないでしょ」
低く、短く言い放った彼の色香に、俺の心臓が大きく跳ねた。
グッと胸元に拳を押し付けて何とか落ち着こうとするが、狭い車内では逃げ場がない。
それに、こんな中途半端な場所で車を降りたとしても、自分が不利になるだけだ。
彼の視線から逃れるように窓の外に目を向ける。
それでも息苦しさは拭えない。
再び動き出した車の振動に身を委ねたまま、俺は身じろぐ事さえも出来ないくらい体を強張らせていた。
どうして、好きな人にこんな事を言われなきゃならない?
俺の何を知ってて、そんなことが言えるんだ?
もとはと言えば、すべてお前のせいなんだぞ……。
ぐるぐると頭の中を回る言い訳じみた言葉を、口に出して吐き出せたらどれだけ楽だろう。
近くにいるのに触れることも叶わない。
そもそも、俺の想いに気づいているのかさえも分からない。
たとえ気づいたとしても、見るからにノンケな彼に同性である俺の想いなど通じるはずがないのだ。
大概は気持ち悪がって離れていくか、好奇な目で見られるかのどちらかだ。
華城の場合は……前者の可能性が高い。
離れてしまうくらいなら、いっそこのまま黙っていた方が近くにいられる時間はずっと続く。
そう、俺たちがコンビである以上は……。
なぜか機嫌の悪い華城をそっと盗み見て、俺は彼に背を向けるようにして倒したシートに横になった。
自分の好きなことをして欲望に忠実なだけなのに……。急に襲われた罪悪感に酷く心を痛めている。
誰に咎められることもなく、誰もが俺の言いなりになっていたはずなのに……。
そっと目を閉じて、未だおさまらない心臓の鼓動を聞いていた。
「――杉尾さん」
不意に耳元をくすぐる低音に、自分がいつしか眠っていたことに気づかされる。
慌てて体を起し、緩んだネクタイに手を掛けた。
「悪い……寝てた」
乱れた髪をかきあげながら、気怠げに運転席の方を見る。
「もうすぐ五時三〇分ですけど、このまま直帰しますか? 俺はまだ仕事が残っているので会社に戻りますが……。家まで送りますよ?」
「あぁ……。そうだな。も……帰ろ、かな」
いつもと変わらない華城の様子に、さっき俺が目にしたのは夢の中の出来事であって、随分と長い間眠っていたように思える。むしろ――そうであってほしい。
これ以上、苦しくて、胸が痛くなるのは耐えられない……。
「じゃあ、送ります。部長には俺から上手く言っておきますから」
サイドブレーキを解除し、アクセルを踏み込んだ彼の横顔をぼんやりと見つめる。
まだ寝惚けているのだろうか……。いつもの二割増し、彼がいい男に見える。
すっと通った鼻梁は高く、顎のラインもいい具合だ。
夕方ともあり、さすがにセットされた髪は乱れていたが、額に落ちた幾筋かの髪も彼の男らしさをよりひき立てている。
帰宅時間帯に突入した市街地は、車の量も格段に増え始めていた。なかなか思うように進まない車の列に、華城もイラつきを隠せないようだ。
「――杉尾さん。煙草、貰ってもいいですか?」
「あ?……あぁ」
自分のパッケージから一本引き抜き、彼の唇に咥えさせると、そのままライターで火をつけてやった。
細い煙を吐き出す唇がやけに色っぽく、浅ましくも俺の下半身がズクンと疼いた。
その時、あることに気付く。
「お前……煙草、吸うんだな?」
二年近く一緒にいるにもかかわらず、彼が煙草を吸っているところを見たことがないような気がしたからだ。
忘年会や新年会、社内で行われる無礼講の場所であっても、彼が煙草を吸っていた記憶がない。
薄い唇の端に煙草を咥えて、ちらっとこちらに視線を向けた華城に、俺はわずかに目を見開いた。
(う……! それ、ヤバいからっ)
思わず勃ちそうになった自身を手で押さえながら、体を半身捩じって悟られまいと慌てて隠した。
「しばらく、やめてました……。けど、吸いたくなったんです。どうしてですかね……」
何かを考えながら、ぼんやりと呟く彼の声と共に煙が揺れる。
やはりさっきのやり取りは夢でなく、現実だったのではないか。
俺に対する苛立ちを押さえるために、やめていた煙草をあえて吸ったということも考えられる。
「――俺の、せい……か?」
尻すぼみに小さくなる声に、華城が再び視線だけをこちらに向ける。
そして、ふっと口元を綻ばせた。
「――かも、しれませんね」
その言葉に、俺は頭を抱えてこの場から走って逃げだしたい気分になった。
彼にストレスを与えている。そのせいでやめた煙草に手を出させるなんて……。
(あぁ……。俺って最低、最悪だ)
先輩ヅラは、彼にしてみたら『ヅラ』でしかない。
事実二つも年上で、人生経験も二年余計にある彼に勝とうなんて、到底無理な話だったのだ。
どう足掻いても追い越すことは出来ない年齢の差……。
たかが二歳、されど二歳……。
こんな大人に敵うわけがない。俺はまだお子様なのだから。俺みたいな子供相手に、クレームの尻拭いやら運転手やらをさせられている彼の事を思うと不憫でならない。
(コンビ……解消しようかな)
彼の傍にいられないのは哀しいが、彼の事を思えばこその決断といえよう。
早速、明日にでも松島に相談してみようと思い立つ。
そんな動揺を見抜かれないように、務めて平静を装う。先程まで昂ぶっていた自身が、急激に萎えていくのを感じ、それと同じくらい気持ちも沈んでいった。
そう――この時はまだ、自身に言い聞かせる余裕があったと言えよう。
*****
翌朝――。
タイムカードを押し、営業部のフロアへ足を踏み入れた瞬間、いつもと違う異様な雰囲気に思わず足を止めた。
そこにいた全員が一斉に俺の方を見る。
「え……。な、なに……?」
物凄い威圧感に耐えきれなくなり、自身でも予想だにしない声が洩れる。
「杉尾! ちょっと、来い!」
部長の松島が手招きし、フロアの奥にあるパーテーションで仕切られた書庫代わりに使っている小部屋へと呼ばれた。何か怒られるようなことをしたか……と記憶を辿ってみるが、ここ最近、思い当たるような事は何もしていない。
自分の机にバッグを置き、みんなの視線に見送られるようにして部屋に入ると、会議用の長机の向こう側に置かれたパイプ椅子に腕を組んで座る松島の鬼のような形相が飛び込んでくる。
静かにドアを閉め、近くにあった椅子を引き寄せて座ると、松島がグッと身を前に乗り出してきた。
「おい……。これからする俺の質問に、すべて正直に答えろよ」
「え?……な、なんですか。朝っぱらから……」
「隠すとお前も不利になるぞ」
「はぁ?――一体、何のことですか?」
眉間に深く皺を刻んだ松島に圧倒されつつ、この場を借りて華城とのコンビ解消の話も出来たらいいなぁ~ぐらいに思っていた俺だったが、重々しく口を開いた彼の言葉に完全に意識がぶっ飛んだ。
「入札での談合が疑われた。その札を入れたのは……華城だ」
「――え?」
全身が硬直し、嫌な汗がぶわりと吹き出る。
お気楽にしている俺でも『談合』という言葉を聞けば、さすがに落ち着いてはいられない。
俺の知らない昔、建設業界は談合あっての世界だった。
特に狭い地域などではその率が高く、今回の工事はどこどこがやるというように、順番で工事を回していったり、民間でもいわゆる天下りと言われる人たちの口添えで、入札に参加する者にあらかじめ入札金額を伝え、その価格よりもより低い価格で受注するということが行われていた。
しかし最近では、コンプライアンスを打ち出す企業が増え、設計者や発注者も談合に関しては厳しく目を光らせている。
公官庁入札では、発覚した場合、指名停止措置が取られる。その年数は機関によってそれぞれだが、入札に参加出来ず工事も受注出来ないとなると、価格以外に適用される評価点が著しく低くなり、ランクも落とされる。
そうなると、規模が大きい高額な工事を受注することが出来ず、それまでの実績や信用を取り戻すまでに膨大な時間と労力を費やすことになりかねない。
それに一度落とした信用は回復させることは難しく、民間工事の受注にも確実に影響が出る。
「談合って……。官庁物件ですか?」
「いや、今回は民間だ。お前も現説 行ったろ? 老人福祉施設グループホームの……」
松島に言われて、数ヶ月前に華城と共に現場に出向いたことを思い出す。
入札業者を一同に集めて現場説明会を行い、工事の施工条件や支払いの関係などを明示する。
その後で参加した業者すべてが指定された場所、時刻に同時に入札を行う。その時に工事内訳明細書という工種ごとに細かく見積りしたものを提出する。発注者がそれを精査し、後日落札した業者に決定通知が来るというシステムだ。
この方法は各業者が皆、顔を合わせる形になるので、談合のきっかけとなりやすく、最近ではあまり行われていない。この方法をとる場合、現説や入札の時間をずらし、業者同士が鉢合わせないように配慮するのが常だ。
この入札方法を選んだ発注者に「談合している」と疑われても、自らやりやすい環境を作っているわけだし、談合が発覚しても仕方がないと言いたいところではあるが反論するわけにもいかない。
「一昔前のやり方だなぁ……って話してたんですけど」
「最近じゃ考えられないな。設計士が無知なのか、発注者が無知なのか……。まぁ、そんなことはどうでもいい。状況からして、起こるべくして起きたと言っても過言じゃない状況だが、お前……アイツと一緒にいて不審なところとかなかったか?」
毎日、刻々と変わる事情に対応しながら、なおかつその案件だけに張り付いているわけではないので正直なところ分からない。社内で精査して仕上がった工事明細書付きの入札書を先方に提出してしまえば、結果が出るまで待つことしか出来ない。
「不審って……。入札に出向いたのは華城一人だったし、内訳書も入札書も封緘して持参してるんでしょ? 彼がすり替えるとか、改ざんするなんて無理ですよね?」
「お前、一緒じゃなかったのか?」
「ええ。その日は出掛ける直前に電話があって……。以前うちで施工した物件で、至急対応してもらいたい箇所があるからって。入札だけなら委任状さえ持っていけば華城一人で十分だったんで、俺はそっちの方に向かったんですよ」
「そうか……。じゃあ、入札会場には行ってないんだな?」
「俺が戻ってきたのは夕方近かったし、華城と会ったのも帰る直前だった……と思う」
松島は落ち着きなく何度か自身の髪を撫でつけるようにして、低く唸った。
いつになく険しい表情の彼を見れば、相当ヤバいことになっていると察しが付く。
「現説に参加した業者は全部で八社と聞いているが……」
「え~と……。ちょっと待って下さい……」
俺は椅子から立ち上がり一度部屋から出ると、自分のデスクの上に置いたままのバッグの中から手帳を取り出し再び小部屋に戻った。そのわずかな間にも、周囲の目は俺の動きを追っていた。
松島と向かい合うように椅子に座り、俺は手帳を開いた。
そこには顧客情報やメモ、入札の日程などを書き込んでいる。俺だけの秘密の手帳だ。
「――ん。八社……ですね。でも、入札を終えた華城から聞いた入札参加企業は、K興産、W建設、O建工……そして当社の計四社。みんなクセ者ばっかりだって思ったんですよね。特にK興産……」
名をあげた業者名を聞いた松島も苦言の様相だ。
民間企業が運営する老人福祉施設というのは、近年確実に増えてきている。
高齢化の影響で公官庁が運営するものだけでは足りていないのが現状で、施設や条件などをクリアすれば開設は民間企業でも運営可能だ。
当社でも民間企業発注の介護施設はいくつも手掛けているし、実績もあった。
しかし名を挙げた企業は、そう大きな案件を手掛けたという実績は少なく、この辺りの同業者に言わせればあまり評判も良くない。
なかでもK興産は、規模的には当社と同等クラスの企業であり、ここ数年は利益を出しているようだが、当社をライバル視する傾向が強く、何かにつけて張り合って来る場面がいくつもあった。
今回の入札でもおそらく何らかの情報を得て「A建設が行くなら、うちも……」的な感じなのだろうと思っていた。
「あそこの営業……。吉家 って言ったかなぁ。オレ的に、いけすかない奴なんですよね……」
頭の中にファイリングされた営業マンの顔と名前を一致させていく。
なぜ気に入らないかと言えば、俺とキャラが非常に被っているからだった。
俺も平均身長ではあるが、周りの男性から見れば小柄なほうだ。彼も同様で、しかも女顔ときている。
ふわっとした天然風の雰囲気を持っていながら、その目はいつも笑ってはいない。
黙っていれば、思わず守ってやりたくなるような男……というのは変な言い方だが、そういった魅力を兼ね揃えた奴だ。非情に個人的な見解ではあるが、吉家という男が嫌いだった。
俺はといえば強気な女王様タイプゆえに、彼とは真逆といってもいい。
世の男――いや女からすれば、母性本能をくすぐるような可愛い男の方がモテるに決まっている。
俺にはない魅力を武器に周囲に笑顔を振りまき、いざ顔を合わせれば挑む様な目で見返す。そんな、二面性を持った腹黒男を、俺は以前から毛嫌いしていた。
手元にあったメモ用紙に参加した企業名を書き込んでいく松島の表情はいつになく硬質で、その緊張感が俺にも伝播してくる。
「――で、華城は?」
「状況の把握が出来るまでは、自宅待機という措置をとらせた」
「部長、アイツがそんなことするような人間に見えますか?」
「そこなんだよ……。お前ならともかく」
「俺? それってすごく失礼じゃないっすか? こう見えても、家の事とか気にかけてるんですけど」
「そうだよなぁ……。また、本人にも事情を聞いてみるが、この話はここだけにしておいてくれないか。お前にも何か関わってくるかもしれないし……。しばらくは一人で動くようになるが、こっちでも出来るだけフォローするから。あと……無茶なことだけはするなよ」
「――俺って、信用ないんですね」
「当たり前だ。日頃の行いってやつが、こういう時どれだけ大事か」
ほんの少しだが、松島の雰囲気が柔らかくなる。こういう時、俺も何らかの役に立てているのかも……と思う。
もしかしたら俺も容疑者なのでは……という不安要素が一つ消えたことで、松島も安堵したのだろう。
それにしても――。
真面目で上司からの受けもよく、社内的にも好印象な華城が、どうして談合の疑いを掛けられているのかが分からない。
初心者ならともかく、今までも入札会場に何度も足を運び、その要領は心得ているはずだ。
工事明細書も積算部から上がったものを営業部、工事部、役員で精査して、最終金額を決定した上で社長決裁となり、細かい単価の変更などを経て入札書と共に提出される。
総額金額を改ざんするには、各項目の単価や数量なども同時に変更しなければならない。
それを提出前に操作出来るかといえば、社内を巡り巡ってほぼ前日に渡される書類だけに、そんな時間的余裕はなかったはずだ。
そもそも、華城は俺とほぼ行動を共にしている。
アイツにそんな時間があるとすれば、残業する夜間、または帰宅後ということになる。
あの日はたまたま別行動になったが、彼に不審なところは見当たらなかったし、帰社後に話した時も当社の提示金額を口にしていたから、本人は一式の書類が入った封筒をそのまま提出してきたに過ぎない。
(だったら、どうして……?)
すべてに於いて腑に落ちないといった顔で部屋を出ると、そのままフロアを出て階下にある喫煙所へと向かった。
廊下の端に設置された喫煙所は三階にしかない。どんなに離れていようと、この場所でなければ喫煙は許可されず、それを機に煙草をやめた者も何人かいるが、数少ない愛煙家たち唯一の憩いの場所となっている。
パーテーションで仕切られ、長椅子と灰皿を置いただけという喫煙スペースだが、工事部の面々が気を利かせて大容量の換気扇を取りつけてくれたおかげで、狭い空間が煙で充満することはなくなった。
長椅子に足を投げ出すように腰掛け、上着から取り出したスマートフォンで華城のアドレスを呼び出すと発信ボタンをタップした。
耳に押し当てて、何度も繰り返される呼び出し音を聞くでもなく煙草を咥えた。
いつもなら数回のコールで出る華城だが、当人が出る気配がない。もうそろそろ切ろうか……と思った時、掠れた低い声が耳元で響いた。
『――もしもし』
「あ……華城? 俺、だけど……」
後先何も考えずに電話をしてみたが、何から切り出せばいいのか思い浮かばない。
単刀直入に問いただすというのも、事情が分からずに混乱している華城にしてみれば迷惑な話だ。
「あの……さ」
『すみません。杉尾さんにもご迷惑をおかけして……』
「え? あ……まぁ、仕方ないよな……。ってか、お前、ホントにやったの?」
このまま、うやむやにして電話を終わらせる気にもならず、俺は思い切って口を開いた。
長い沈黙が俺の不安を煽る。これで本人の口から関与したと言われたら、俺は何て答えればいいんだろう。
最悪の事態を想定しながら、彼の言葉を待ち続ける。
『――いえ』
たった一言だが、俺の体中に込められた力を解放するには十分だった。
「それ、信じていいんだよな? さっき部長から話を聞いて、かなり驚いたんだけど」
『すみません。俺自身、何がどうなって、そういう疑惑が出たのか分からないんです。持参した封筒は事前に開封された形跡はなかったですし、俺はそのまま提出しただけですから。いつもと、なんら変わりない入札でした』
「じゃあ、なんで……お前が疑われる? ほかの会社の奴らだって談合したって可能性は出てくるはずだろ?」
『わかりません。それは俺じゃなく、上層部の判断にお任せしてありますから……。杉尾さん、一人で大丈夫ですか?』
「お前さぁ……。人の心配するより自分の心配しろよっ。このままクビとかってなったら、どーすんだよ? それに、相棒をなくした俺はどうなる? 部内でお荷物扱いされてる俺に、そうそう次の相棒を探すなんて無理な話だ。部長だってその事を考えただけでも血圧あがるぞ……」
耳元でクスッと笑う声が聞こえた。それまで重々しい雰囲気を醸し出していた華城が笑った瞬間だった。
『どれだけ自虐ネタ……』
「うるさいよ。人が心配してるってのに……」
ムッとして切り返すと、小さく吐息した華城が甘い声で応えた。
『ありがとうございます……』
たった一言……。その言葉に顔が火照るのを感じ、この場所に自分以外誰もいないと分かっていても、思わず周囲を見回してしまう。
直接、本人の顔を見て話しているわけじゃない。耳に押し当てられた電話から聞こえた声だからこそ余計に、普段の声がより甘く、そしていつになく切なさを含んでいるように聞こえた。
彼から見えないところでの醜態に気づかれないように、俺は務めて明るい声で応えた。
「俺は平気だから。何かあったらいつでも連絡しろよ。俺も状況が分かったら電話するし……」
『そうします。すみません……』
申し訳なさそうに何度も謝る彼に、ふっと唇を綻ばせる。
(どんな顔で謝ってるんだろ……)
責任感の強い彼のことだ。本当に申し訳なさそうに、綺麗に整えられた眉をハの字にしているんだろうか。
そう考えると謝罪されているにもかかわらず、彼の違う一面を見た様な気がして心が弾んだ。
不謹慎だとは分かってる。でも……体が反応してしまうのだから仕方がない。
「じゃあな……」
それだけ言って電話を切ると、俺は無意識に下肢に伸ばされていた自身の手をじっと見つめた。
スラックスの上からでも分かるその硬さに、どれだけ自分が節操無しで欲求不満であるかとウンザリする。
そっと形をなぞる様に掌で撫でて、じわりと這い上がる快感に顎を上向けて吐息する。
「俺って……最低」
吐き捨てるように呟いて、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けると、そのままトイレに直行したことは言うまでもなかった。
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