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【5】

 あれから一週間が経とうとしていたが、華城の状況は変わることはなかった。  いろいろと調べていくうちに分かったことは、参加した三社が口を揃えてA建設の指示でやったと証言していることだった。  グループホームの発注元である企業も、この件が片付かない以上は工事に踏み切れないらしく、最悪の場合は今回の入札企業を除いた上で再公告、再入札を行うだろう。  そもそも談合というのは、自分が受注したいがために各社にこの値段で入札してくれと頼み、自分は依頼した価格よりも低い値段で入れるというのが普通だ。  だが今回は少し様子が違った。当社は確かに最低価格ではあったが、圧倒的な価格の差はなかったこと。そして、談合が行われたとするならば主となる企業から事前に提示される価格を記入するのが常だが、各企業に統一性がなくあまりにもバラバラだった。  わざとバラけさせた……と言えばそれまでだが、営業として場数を踏んできた俺から言わせれば、談合というにはあまりにも証拠がなさすぎる。  談合だという疑惑が浮上しなければ、何事もなく当社で決定していてもおかしくはない状況だった。  だが、A建設が首謀して談合を持ちかけてきた……と証言する他社に、どうも納得がいかない。現説が終わった後で、各企業の営業担当者に華城から直々に電話があったという。  その件に関して本人に聞いてみたが、そんな事実はないという。  どちらが本当で、どちらが嘘か。藪の中とはまさしくこの事だろう。  しかし、華城が受注ノルマに困ってやったということは考えられない。基本、二人一組になっての結果なので、俺たちはそれほど必死にならなければならない状況ではなかったし、今期の受注件数としてはそれなりの数字をすでにあげている。 「分かんないんだよなぁ……」  物憂げな目で窓の外を見る俺と、それを真正面から恨めしげな目で見つめる夏樹と、そしてそんな俺たちに熱い視線を注ぐ一般客。  会社での業務を終え、俺はまだ仕事中だという夏樹を強引に近くの喫茶店に連れ込んだ。何かと内部事情に詳しい彼女なら何か知っているのでは……と思ったのだ。  まだ会社の制服姿のまま、カーディガンを羽織っただけという軽装で出てきた夏樹は始終機嫌が悪い。  ムスッとしたまま俺を睨んだきり、何も言わない。 「――折原?」  俺は、コーヒーカップを持ちあげながら彼女に問いかけた。  夕方という時間帯、そう客は多いわけではないが落ち着かない。 「もしかして機嫌悪い?」  顔を見れば誰しもが分かることであるが、一応確認を取る。  夏樹は大仰とも取れるため息をつきながら、やっとテーブルの上に置かれたままのコーヒーのカップに手を伸ばした。 「あのさ……。もしかして、あの夜の事怒ってる?」  彼女を誘って飲みに行った夜、駅のコンコースで夏樹を置き去りにして最終電車を見送らせた事だ。夏樹を怒らせている理由で、思い当たる事といえばそれしかない。  その証拠に、あの日から彼女からのSNSは途絶えた。  積算部に行っても「忙しい」の一言で一喝され、内線をかけても俺からだと分かった時点で電話を切られた。  あぁ、これで良き相談相手としての仲も終わりか……と諦めかけたが、今回の件に関してはどうしても彼女の意見を聞きたかったのだ。  社内だけでなく、いろんな企業の情報が入りやすい積算部。そのホープである夏樹が、今回の事を知らないわけがない。 いろんな理由を並べ立て、嫌がる夏樹を半ば拉致同然にこの店まで連れてきた。 「あの夜の事は謝るからさ……。俺も悪かったって思ってる」  周囲で聞き耳を立てている客はどんな妄想を思い描いているのだろう。先程から興味津々という感じで、チラチラとこちらを気にしている。 きっと、俺と夏樹は付き合っていて、何らかのトラブルを起こした俺――チャラいリーマンが機嫌の悪い彼女に言い訳を繰り返している……と見えているのだろう。  夏樹もそのことには気づいているらしく、しきりに周囲を見渡しては重々しいため息を吐く事を繰り返している。  サバサバした性格の彼女だから、あの時のことを未だに根に持っているとは考えにくいが、とりあえず素直に謝っておくほうが後々の為だ。  ゆっくりとカップに唇をつけた彼女は小さく息をつくと、俺を恨めしそうに上目づかいで睨みながら抑揚なく言った。 「怒ってるわよ。あれからタクシーで帰ったけど、給料日前に予想外の出費だったわ」 「だから、あれは悪戯心が……」 「バカじゃないの。二十五にもなった男が……」 「お前見てると、つい苛めたくなるんだよ……」  彼女は呆れたように大きなため息をつくとテーブルの端に立ててあったメニュー表を手に取り、迷うことなくデザートのページを開いて「これ!」と指差した。 『フレンチトースト・ベリーソース添え』の文字に一瞬困惑した俺だったが、夏樹の機嫌を直すには彼女の要求を受け入れるしか方法がない。期間限定メニューともあり、そこそこ値も張る。だが、背に腹はかえられない。 俺は苦笑いを必死に堪えながら店員を呼んでオーダーした。  そんな俺を見てニンマリと笑った夏樹には、やはり勝てない……そう思った。  情報の代償としては、いたしかたない出費だ。 「――これで機嫌直してあげる。SNSも開通してあげる」 「安上がりだな……」  強気な姿勢でそう言ってみるが、かくゆう俺の財布も余裕があるわけではない。 「うるさい。――で、私をここに連れ込んだ理由はなに? 今、マジでめちゃめちゃ忙しいんだけど!」  部長を含めて五人もいる積算部が忙しいということは、近いうちに案件に動きがあるということだ。  それに官庁物件を担当している者たちも、大量の図面を積算部に持ち込んでいたことを思い出す。 「俺だって暇じゃないけどさ!――華城の件、お前も知ってるだろ? あれから何の音沙汰もなくて、いろいろ調べてる俺たちも行き詰ってるんだよ」 「営業が分かんないこと、私が知るわけないじゃん! ここのところ毎日残業だし……」  突き放すようにキツイ口調で言い放った夏樹だったが、運ばれてきたフレンチトーストを目にすると、店員に満面の笑みを浮かべて「ありがとうございます!」と嬉しそうに言った。まったくもって女の深層心理というのは不可解で面倒臭い。  早速、ナイフとフォークを手に食べ始めた夏樹を、俺はぼんやりとテーブルに肘をつきながら眺めていた。  人間、疲れている時には甘いものが食べたくなるというのはまんざら嘘ではないようだ。 物凄い勢いで食べ進め、時々コーヒーを飲む。再び、無言で口に運び、あっという間にフレンチトーストは姿を消した。 「美味しかったぁ……」  満足げに呟いてペーパーナプキンで口元を拭いながら、夏樹は不意にボソリと呟いた。 「――あのね。見ちゃったんだ、私……」  彼女の食べっぷりに呆気にとられ、ぼんやりとしていた俺はその呟きが聞き取れなくて身を乗り出した。 「え?……何っ?」  彼女は欲求を満たしたせいか、やっと重い腰を――いや、重い口を開いてくれるようだ。  巧妙でしたたかで、狡猾でありながらどこか単純……。本当に女という生き物は分からない。 「華城くんが男の人と話してるところ……」 「お前なぁ……。男の人がこの世の中にどんだけいると思ってんだよ」 「違うんだって! 普通じゃなかったっていうか……。むしろ……ラブラブ?」 「――はぁ?」  聞き捨てならない夏樹の言葉に、俺は眉間に皺をこれでもかというくらい寄せた。 「アイツは今、自宅待機中だぞ。普段だってその辺をウロウロするし、コンビニぐらい行くだろ? それに、どう見たってノンケのアイツが男とイチャつくって、あり得ないし……」  なぜか言葉の後半は自分に言い聞かせているように感じられた。  彼女の気配もない、まして男になんて絶対に興味を持つはずがないタイプだけに、夏樹の見間違いなのだろうと思いたかった。  華城がもし、夏樹の言う通り男もイケるクチだとしたら……。 「私もそう思ってた。でも、なんかこう……見ててイラつくほど、肩とか抱き寄せたりして」 「はぁ?」  俺が無意識に発した声が、やけに苛立っていたせいか予想以上に大きく店内に響き、周りの客が一斉にこちらを見た。  慌てて口元を押え、バツが悪そうに髪をかきあげながら俯いて周囲の視線をかわすと、わずかに目を細めて夏樹を見つめた。 「それ……いつの話だ?」 「んー。談合疑惑が発覚する二日ぐらい前かな……。忙しかったし、ムカついてたから、あなたには連絡しなかったけど」 「忙しくても、それは最優先事項だろーが。――で、どんな奴?」  夏樹は記憶を辿るように、ポツリポツリと口を開く。  普段から積算部には多くの営業マンが訪れる。同業だけでなく資材や積算資料、新しいソフトの売り込みなど。それに対応している夏樹の記憶力は俺たちの予想をはるかに上回る時がある。 「スーツ着てたからリーマンだと思うけど。身長は杉尾くらいかな……。こげ茶色の髪で、なんか可愛い感じの美人……。あぁ、男の人に美人っていうのも変だね……。杉尾と真逆のタイプ……」  俺が期待していた答えとは少し違っていたが、夏樹目線の印象でも大体のイメージはすぐに掴めた。 その理由は、俺の記憶の中に思い当たる人物がいたからだ。それは――K興産の営業、吉家(よしいえ)美弦(みつる)だ。  ゾクリ……と背中に冷たいものを感じて、自身の腕を抱きしめるようにギュッと掴んだ。 「――肩、抱いてただけか?」  急激に渇いてしまった喉から出たのは、掠れた声だった。 「ちらっと見ただけだから良く分からないけど……。すごく親しげな感じがしたのは事実」 「それ……K興産の営業だ」  無意識に震えてしまう声を誤魔化しながら、声のトーンを押えたまま呟く。 それを聞いた夏樹は大きな目を更に大きく見開いて、両手で口を覆ったまま動きを止めた。 「――うそっ! え、え……ちょ、ちょっと待って! じゃあ、あの話って本当なわけ? 華城くんが首謀したって……」 「分からない。発覚する二日前――入札の当日ってことか? 何らかの話し合いであれば入札前にするのが普通だろ……。それ、何時頃の話だ?」  夏樹は慌てたようにスマートフォンをポケットから取り出すと、細い指先で画面をタップしスクロールを繰り返す。どうやらスケジュールを見ているらしい彼女は、何かを見つけたようで画面から視線を上げた。 「夜八時前だったと思う……。私、設計事務所から図面のデータもらって帰る途中だったから。会社帰りに会ったって感じで、華城くんもスーツだったし。――杉尾。本当はずっと黙ってるつもりだったんだけど……ごめんね」  スマートフォンのケースをパタンと閉じながら申し訳なさそうに見る夏樹に、俺は力なく笑い返した。  疑惑が発覚した日の前日、外回りから帰る途中の車内で俺たちは揉めた。  普段は寡黙な彼が、あの日に限って妙に饒舌だったこと。そして、俺の日々の行動を咎め『尻軽クイーン』とまで言った。  自分のことは何一つ明かさない華城。険悪な空気の中、罪悪感を抱いたことだけはハッキリ覚えている。  その後で、やめていたはずの煙草を求めた華城……。何もかもが変だと感じた日。  前日、吉家と何があったのだろう。あの二人はそういう関係なのだろうか。  こうなると悪いことしか考えられなくなる。ぐるぐると思いを巡らす頭が正常な判断を鈍らせていく。  胸の奥がキューッと締め付けられるように痛み、目を閉じれば華城の苦しげな顔しか浮かばない。 「――折原。忙しいところ悪かったな。残業、頑張れよ」  今の俺は、夏樹に対してそう言うのが精一杯だった。急激に重さを増したような体を両手で支えながら力なく席を立つと、伝票を手にレジへと向かう。 「杉尾……」  夏樹に呼ばれ肩越しに振り返ると、夏樹の目が心なしか哀しそうに見えた。  華城へ向けられていた想い。その想いを告げられないまま失恋した俺への憐れみなのか……。  今までの経緯をすべて知っている彼女だけに、複雑な思いをさせてしまっているかもしれない。  男の俺を慰める言葉なんか、そうそう見つかるわけがない。だから黙っているつもりだったと言ったのだろう。  連絡が途絶えていたのも、本当はそれが理由だったのではないか……と思う。  俺に会えば真実を告げざるを得なくなってしまうから、夏樹は俺を避けた。  夏樹はああ見えて誰よりも俺に気を遣っている。家庭事情のことも華城のことも、一歩踏み出して話すことを躊躇う。  支払いを済ませ店を出ると、雨が降り出していた。  ここのところ、まともに当たることのなかった天気予報。なぜ今日に限って当たるんだろう。  しかも、こんな気分の時に……。。  俺の足は迷うことなく大通りに向かい、何かに縋るかのようにタクシーをつかまえた。  乗り込むと同時に行き先を告げる。それは――華城が住むマンションだった。 *****  タクシーを降りた大通りから二本目の路地を曲がった場所に華城の住むマンションはある。  周囲は閑静な住宅街で、夜になれば人通りも少なくなる。その一画に建つ築年数も浅い三階建てのマンションだ。  外壁はタイル張りで、各階の境目には意匠的アクセントとしてボーダーと呼ばれる色分けしたタイルが張られている。エレベーターや段差解消のスロープなどがないため、低年層・単身者をターゲットにした造りだとすぐに分かる。その証拠にエントランスのすぐ脇に用意された自転車置き場には、大学生のものと思われる自転車やバイクがあった。  駐車場は建物前面にあり、一部屋につき一台分のスペースが確保されている。  以前、一度だけここを訪れたことがあったが、それは本人には知られてはいない。  恋は盲目とはよく言ったもので、彼に一目惚れした俺は社員名簿を手掛かりにここに来た。そして、華城にパートナーの気配は感じられないと断定したのだ。  俺は雨から逃れるようにエントランスに駆け込むと、スーツについた水滴を軽く叩き落した。  喫茶店を出た時よりも激しくなった雨に軽く舌打ちをしながら華城の部屋のある三階へと階段を上る。  後ろめたいことは何もないはずなのに、靴音を忍ばせている自分がいた。  階段を上り切り、息を軽く整えてから廊下の角を曲がった時、奥の方から聞こえた声に反射的に身を隠した。  静まり返った廊下では、たとえ小さな声での会話であっても反響して聞こえる。  俺は壁に背を預けたまま、その声に耳を澄ました。 「――華城さんは、俺のこと嫌いなわけじゃないんでしょう? じゃあ、どうして?」  責めるような男の声から華城の名前が紡がれ、俺は息を呑んだ。 (まさか……吉家?)  しかし、その男の顔はハッキリと確認できない。 「――好きな人がいるって。でも、報われないんでしょ? だったら俺をその人の代わりにしてよっ」  華城の声は何も聞こえない。  そっと顔をのぞかせて目を凝らすと、ぼんやりと照らされた廊下の蛍光灯の下で、華城と小柄な男が向かいあっているのが見えた。  華城はジーンズに黒いパーカーといったラフな格好で、相手はスーツ姿だ。  いつもきちんとセットされている髪は何も手をつけておらず、彼の目元をわずかに遮っている黒髪のせいで表情がハッキリ読み取れない。  一八〇センチの長身である華城と対峙する小柄な背中がわずかに震えている。 「その人を助けるために俺と取引したんでしょ? だったら……もう、俺のものになってもいいんじゃない?」  華城に好きな人が――いた? 助けるために取引?  初めて耳にする情報に、俺は眉間に皺を寄せながら耳に全神経を集中させた。 「俺は……あなたとはそういう関係にはなれない」 「そんなことない! だってこの前、俺を抱いたじゃないかっ」  小柄な青年が声を荒らげて食い下がる。その時見えた彼の横顔に、俺は目を見開いたまま息をすることを忘れた。 (吉家……っ)  俺は、即座に顔を引っ込めると壁に全体重を預けて天井を振り仰いだ。 「――抱いたって……なんだよ」  グッと握りしめた手が小刻みに震え、額には嫌な汗が浮かぶ。  ノンケだと思っていた華城が男を抱くなんて信じられなかった。しかも、その相手が吉家だったなんて……。  耳を疑っただけじゃなく、自分の不甲斐なさに涙が出そうになる。  同じ性癖を持った者同士というのは、本能的に相手が同じモノであると察することが出来る。  それなのに俺は気づくどころか、自分が毛嫌いしている男に先を越されるという大失態をおかしたのだ。  緊張と不安でカラカラに乾いた喉に何度も唾を流し込み、気持ちを落ち着けるために深呼吸を一つすると、再び顔をのぞかせる。  彼らの言い争いは続いていた。 「こんな事になった以上、A建設にはいられないよね? あんな会社さっさと辞めて、俺のとこにおいでよ。そしたら、ずっと一緒にいられる」  背伸びをして華城の首に両腕を絡ませる吉家は、表情をまったく変えない華城に問いかける。 「――もし嫌だっていうんなら、あなたの大切な人に直接手を下すよ? それでも断れるの?」  華城は苦しそうに眉を顰め、唇をきつく噛みしめている。  彼に思われている相手は幸せ者だ。そもそも、その人を助けるために吉家と何らかの取引までしたというのだから、華城が相当熱をあげていることに間違いはない。  それなのに、今の俺には『嫉妬』という言葉は見つけられなかった。  男であろうと女であろうと、華城の周りをうろつく者がいれば誰かれ構わず嫉妬していた俺が、なぜか今はそんな感情も持てずにいた。  自分はもう、彼を愛する資格がないと気づいてしまったから。  華城には自分を犠牲にしても守りたい人がいる。そのために吉家と取引をした。  そして、彼を抱いた……。  これだけのことを突き付けられ、俺に何が出来るというのだろう。  彼に出逢って、自分の方向性が確実に良い方へと変わった。一緒にいることで安らぎを感じ、程よい距離感を保ちながら絶大な信頼を抱いていた彼への恋心。こんなに呆気なく終わりを迎えるなんて思ってもいなかった。  すべては俺の独り善がりであり、思い込みに過ぎなかったということなのだろう。  誰もが俺の前に傅き、この体を欲しいと望む。  そんな考えを彼にも強要してきた俺は女王(クイーン)なんかじゃない。ただの道化だ。  そして……史上最悪のヘタレだ。 「――キス、してよ。ねぇ……」  耳を塞ぎたくなるような吉家の甘え声に、ギリッと奥歯を噛みしめる。 (――するな。キスなんて……するなっ)  心の中で何度も叫び続ける。しかし、その声は華城に届くことはなかった。  華城は苦しそうに目を閉じると、下ろしたままだった自身の両腕をゆっくりと吉家の細い腰に回して引き寄せた。そして、ゆっくりとした動きでわずかに首を傾けると唇を重ねた。  その瞬間、ガクンッと俺の膝が折れた。脚に力が入らなくなった俺は立っていることもままならなくなり、壁に背中を預けたまま、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。  体も唇も震えが止まらない。 「なんで……。なんで……キス……すんだ、よっ」  声が出ない。唇から洩れる空気だけを吐き出すことが精一杯で、体中が痺れたように動かない。  肺が上手く酸素を取り込んでくれずに、浅い呼吸を何度も繰り返す。  その間にも心臓が早鐘を打ち、こめかみにツキンと痛みが走った。  来るんじゃなかった――。今更後悔しても何の役にも立たない。 (俺はただ、アイツの口から本当の事を聞きたかっただけなのに) 「こんな……の、酷い……よぉ……。」  我慢すればするほど込み上げてくる嗚咽に両手で口を覆う。  涙がとめどなく溢れ、零れないように天井を仰いでみるが、頬から顎に伝い落ちる滴は止まることがなかった。  これが雨だったらどれだけいいか……。  雨に濡れたのであれば、その水滴を拭ってしまえばいい。  彼と共にいた時間は、心から、記憶から拭えない。その結晶が……涙だから。  流れるだけ流したら、俺はすべてを忘れることが出来るのだろうか。  雨の音に混じって、玄関ドアが閉まる音が聞こえる。  吉家がこちらに来る気配がないということは、華城が部屋に入れたということだろう。  それから先は考えたくない。  俺は髪をぐしゃぐしゃと何度もかきあげる。行き場のない怒りと悲しみをぶつけるために……。  その時初めて、俺は華城への想いがどれほど大きくなっていたかということを身を以って知ったのだった。

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