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光の先へ
いつも通り、総 は約束の時間に一分たりとも遅れることなく、葉月 のマンションの地下駐車場に到着した。来客用の駐車スペースに車をとめ、持ってきたバッグを左手に下げ、なにかを決意するように大きく息を吐いてから歩き出した。葉月から預かっている鍵でマンションのオートロックを解除し、エレベーターに乗り込んだ。
緊張する。
エレベーターが一つ上の階に上がるたびに胸の鼓動は早くなり、目的の階に着いた時にはまた大きく息を吐いた。
死ぬ思いをしたことだって数え切れないぐらいだというのに、総の緊張はあっというまに頂点に達し、心拍数はなかなか元に戻らない。駐車場からずっと心臓はばくばく鳴り、今にも口から飛び出しそうだ。
できるだけのろのろ廊下を歩いたけれど、あっというまに玄関の前に来てしまう。鍵は葉月から預かっているが、家主が在宅していると分かっているので、震える指で総は呼び鈴を押した。返事が無い。もう一度と思い右手を上げた時、目の前でドアが開いた。
「…おはよう、総くん───勝手に上がってくれたら良かったのに」
風呂の途中だったのか、濡れた身体にタオルを巻いた葉月がそう言った。
「貴方がいると分かっていて上がり込むわけにはいかないですよ」
「上がり込んでくれ、是非とも上がり込んでくれ」
バスルームに戻っていく葉月の背中をちらっと見て総はまた息を吐いた。どうしてこんな男と…そう思わずにいられない。こんなだらしない男に……性格が違い過ぎて腹立たしいことこの上ない。緊張していたことすらバカらしい。
総はキッチンに直行し、おそらく起きたばかりの男のために朝食を準備した。なにか食べるものは無いかと冷凍庫を開けると、前に来た時に総が入れておいた食パンがそのまま残っていた。卵ぐらいはあるかと期待して冷蔵庫を覗いてみたが、そんな気の利いたものはもちろん無かった。もし卵が有ったとしても、新鮮かどうかはまた別の話なのだが。
凍った食パンを総はトースターに放り込んだ。ちょうどコーヒーが入った時、葉月がリビングに顔を見せた。
「おはようございます」
「…ああ」
「朝食をどうぞ」
「ああ」
まだ目が覚めていないという顔で葉月は総を見た。
「……」
「なんです?」
「…可愛いな、今日も」
「早く目を開けて下さい」
「……起きてるよ」
「でしたら早く食べて下さい」
「───きみを?」
すると総は呆れ果てたという顔を葉月に向けた。
「パンとコーヒーをどうぞ」
総に冷たく言われて諦めたせいか、そんなことは全く気にしていないのか、葉月は席についていただきますと手を合わせた。自分の分もいれておいたコーヒーを持ってきて総もイスに座った。
緊張していた自分がバカみたいだと総は思う。
目の前にいる、十才の頃から付き合いのある年上の男に、総はもう二回も抱かれてしまった。一回目はかなり強引に。二回目は一週間前、総自身がねだった。
思い出すだけで総は堪らない気持ちになる。一度目はともかく、二度目はどうしてあんなことになってしまったのか───。
「総くん、明日まで大丈夫? 俺は休暇だからな、明日の夜まで完全フリーだ」
「ええ、たぶん大丈夫です───でも、カチコミでもあったらすぐ戻ります」
「承知した」
ヤクザの秘書なんかやっている自分と、詮索の一つもせずに付き合おうなんてお人好しは、カタギの人間では葉月ぐらいだろうと総は思う。一緒にいるだけでなにか危害が及ぶ可能性も高いというのに、それすら葉月が気にする様子はない。いや、総と付き合うだけじゃなく、葉月は佐伯巽ともずっと付き合ってきた男だ。巽は総なんかとは格が違う、本物の大ヤクザだ。
ぼろぼろパン屑をこぼしながら葉月は食パンを食べている。テーブルに落ちたものを拾って口に放り込む。外で食べる時にはそこそこのマナーで頑張れるくせに、家だと途端にだらしなくなる。それを今さらどうこう言う気は総にはない。なにか言うのもバカらしいぐらいだ。
「どこに行くかは決めてないんだが」
「まぁいいでしょう。ビジネスホテルならどこにでもあります」
「ビジネス~? 嫌だぜ、そんなの」
「ビジネスにだってそこそこの部屋はあるでしょう、金さえ出せば」
「いや、そういう意味じゃなくてさ、シングルしかないようなのは嫌だ」
「ツインだってあるでしょうよ」
「ツインってきみね、そんな狭いベッドで二人も寝られないだろ」
「願ったりです」
先週の別れ際、来週も休暇を取ってあるから、良かったらどこかに泊まりに行こうと誘ったのは葉月だ。総は少し考えてから頷いた。どうせ総は自分から誘うことはない。今まで一度だって、プライベートで総から葉月に連絡を取ったことはない。季節毎の誘いだって、律儀に葉月が誘ったからこそずっと続いた。だから葉月は知っている。特別な関係になってからも、自分からアプローチしなければ、会うことすら叶わないということを。誘っても総は嬉しそうな顔なんかしない。仕事のスケジュール管理でもしているかのように無表情のまま、その日ならいいでしょうなどと返してくるのがせいぜいだ。嬉しそうにしないことぐらいでいちいち落ち込んでも切りが無いので、葉月は全く気にしない。じゃあ朝の九時にうちに来てくれと言って別れた。
だから今日、総は九時に葉月の部屋を訪ねてきた。
「きみさぁ……父親のことは恨んでいるの?」
「どうでしょう。もう死んでいる人間に対していろいろ感情を渦巻かせても無意味だということは分かっています。だから、もう今は思い出すこともないですよ。先週は、貴方があんまり上手く誘導するもんだから、ああいうふうに言ってしまいました」
朝食を食べ終えた葉月は、手の甲で口元をくいっと拭った。
「きみのさぁ…身体……」
「……」
「父親がつけたって傷なんだが───あれは確かに酷いなぁ……どうしてああいう酷いことをしたがる人種がいるんだか……俺は確かにきみが痛がる顔を見ると感じたが、それはあれだよ、俺がきみに入れて、きみが感じているようだから感じたわけだ」
「……葉月さん…もう…」
「きみの父親は違うな……性的サディストというのとも少し違うと思う。性的サディストってのは、セックスもするし、苦痛を快感と感じる相手を選ぶし、その苦痛ってのも、きみにしたようなのだと本当に苦痛を与えるだけだ。ああ、いや、完全な主従が出来あがってる場合はセックスは無しの場合もあるが、それは女王様と下僕の関係だからな……」
「…妙なことに明るいのですね」
すると葉月は顔を上げ、総を見て苦笑した。
「昔、当直のバイトをしてた頃、繁華街のど真ん中だったからさぁ…風俗嬢とかもよく来たわけよ。ああいうお嬢さんたちはおしゃべりでね…」
「良かったじゃないですか。大金を出さなければ話すこともできないような女性と話せただけでなく、診察までできたのでしょうから」
「医者はそういう目で患者の身体は見ねぇもんなの」
「…そうですか」
「きみの身体ならちらっと見ただけで完勃ちだがね」
「二度と見ないでもらいましょうか」
「それは困るな───まぁ…俺ときみのことはまた別の話として、今はきみと父親のことだ。きみの父親は、性的なものを抜きにしても、サディストだったんじゃないか?」
いつものように誤魔化せる雰囲気ではないことに気づき、総はきゅっと唇の端を噛んでから顔を上げた。
「サディストだったのは間違いないでしょうね。でも、残念ながら僕はあまり覚えていないんです。父と暮らしたのは十才まででしたし、ほとんど帰ってきませんでしたから。でも、僕の身体に傷をつけたのは間違いなく父です」
「他にはなにをされた? カッターで刻まれたのと、画鋲を刺されたのと?」
「平手で叩かれたり、棒で打たれたり、手足を括られて押し入れに入れられたこともありましたよ」
「───ちょっと驚くな」
「驚いてもらえて良かったです」
「ああ、いや、行為そのもののことじゃなく、それをしたのが実の父親ってところだ」
言った葉月を総は不思議そうに見た。
「きみの父親は、きみを恋人みたいに愛していたんだな……セックスしないだけで、父親ときみは完全にSとMの関係だ───形としては間違っているが、きみはちゃんと父親に愛されていたと俺は思うよ」
「……」
「もちろん、子供だったきみは、普通に愛されたかっただろうけど、愛されてもいないと思っていたなら安心していい……きみは父親に愛されていた、間違いなく」
「…そう…ですか……でも…僕は…今はもう…父にそれを確認できませんから…」
葉月は手を伸ばし、小刻みに震える総の右手を握りしめた。
「巽にしか愛されていない…親にも愛されなかった……きみはそう思って今日まで生きてきたんだろう……でも違う───きみは父親にちゃんと愛されていたさ」
「───方向性が間違っていただけで?」
「ああ、間違っていただけで」
総は小さく頷き、左手で葉月の手をそっと剥がした。
「…総くん?」
葉月は呟くように名前を呼んだ。
「───あなたがそう言うならそう思うことにします。僕は父に愛された、愛していないからああいうことをしたわけではない……そう信じます」
総は立ち上がり、テーブルの上を片付けた。流し台でマグカップと皿を洗い、丁寧に拭いてから食器棚にしまった。
総が取ってきた新聞にざっと目を通してから、葉月はバッグに着替えを放り込んだ。
「じゃあ行こうか」
そう声をかけた葉月は、総のバッグも持って玄関に向かった。戸締りとガスの元栓を確認してから、総も後を追った。玄関の鍵は総がかけた。エレベーターで地下の駐車場まで下りる。
「貴方が車を出したら、そこに僕の車を入れてもいいですか?」
来客用スペースを占領したままだと申し訳ない気がして総が言うと、そんなことどうでもいいのにと思ったけれど葉月は頷いた。車をどこに置くのかなんて、総の好きなようにさせてやればいい。先に車を出した葉月は、総を待つために駐車場の出入口で停車した。バックミラーで見ていると、総が車を移動させているのが確認できた。
こうして見ると、この子は本当にカタギではないのだなと葉月は思う。乗っている車はとてもカタギの人間の持ち物ではないし、立ち姿も隙が無さ過ぎる。いつも気を抜かず、あんな風にピリピリ神経を張り詰めておかなければならない世界に生きているなんて、本当にこのままでいいんだろうか。そう考えると、葉月は躊躇わずにはいられない。
「お待たせしました」
総はするりと助手席に座った。
「相変わらず派手派手しい車ですね」
「情熱の赤だよ」
「真っ赤のアルファロメオなんて、タダでくれると言われても僕なら断ります」
「フルスモ黒塗りヤー公丸出しのきみの車だって俺は嫌だぜ」
「はぁ…まぁ…ヤクザですから」
皮肉っぽく総が言うと、葉月は車を発進させた。
「葉月先生は南方平和 という人を知っていますか? 巽さんの幼馴染みなんですけど」
「ああ、何度か会ったことがある───巽よりもずっと優男っぽい奴だろう?」
平和を指す『優男』という表現があまりに的確で総は思わず笑ってしまった。
「その平和様ね、ヤクザ丸出しの車を嫌がる友人のために、白いベンツに乗ってらっしゃるんですよ。貴方が嫌だというなら、僕も白やグレーを買ってもいいですよ」
「……いいよ、別に。俺の車で移動すればいいだけだ」
行き先を決めていないというのが嘘なのか本当なのか総には分からないが、葉月は迷いなく高速道路に上がった。真っ赤のアルファロメオが平日の高速道路を疾走する。ときどき混雑していてスピードは落ちるけれど、ほとんどは空いていて葉月が好きなように走ることができた。
そういえば、アメリカに行っている間、この車はどうするんだろうと総は思う。まだ新車に近い。買ってから一年も経っていない筈だ。おそらく数年は戻ってこないだろうに、駐車場に放置しておくだなんてもったいない話だ。それに、たぶん、車体はともかく、エンジンなどの内部がひどく傷んでしまうだろう。
「そうそう、きみに頼んでおこうと思っていたんだが、この車をたまに転がしておいてくれ。あと、車検の前になったら、ディーラーに連絡して取りに来させてくれないか」
車検はともかく、転がすって……こんな派手な車に乗って走れというのかと総は思うけれど、葉月だって好きで日本を離れるわけじゃないんだからと思い直す。
「…分かりました……できるだけのことは…」
「助かるよ、ありがとう」
あと三週間も経ったら、この人は本当にアメリカに行ってしまうんだと総は思う。
二週間前に初めて抱かれた時は波にさらわれるようにあっというまの出来事だった。一週間前の二度目は、一度目のようなショックと恐怖はなかったけれど、父親とのことを初めて他人に言ってしまった。
巽に引き取られた時、父親からの仕打ちを決して口にするまいと総は決めていた。言ったところでどうにもならないことだったし、言うことによって誰かを驚かせるつもりもなかった。天涯孤独になった十才の頃から、総はそれをずっと守ってきたのだ。自分の心の中だけにそっとしまい込み、傷つけられた体を人前で晒すこともなかった。きっちり着込んだスーツは、総を硬質なヤクザに見せてくれた。傷痕を隠すためだなんて、誰にも気づかれることはなかった。
それなのに、葉月にはあっさり話してしまった。ただ単に肌を見られたから言ってしまったんだと思っていたけれど、そういうわけではないことに、三日も経ってから総は気づいた。全身に傷痕があるとバレてしまったから話したのではない。知ってもらいたかったのだ───他の誰でもない葉月に、本当の自分を知ってもらいたかった。誰にも告げず、胸の中にしまっていた暗い澱を、全て吐き出してしまいたかった。巽に対してはできなかった告白も葉月にならできた。体内への侵入まで許した相手だからだろうか。それとも、きみに愛されたくなったなんて言われたせいだろうか。
「ああ、総くん、家に帰ったら書類の場所なんかも教えるよ」
「車検証はダッシュボードでは?」
「ああ、そうだが、任意保険の更新なんかも頼まなきゃならないし───他にもいろいろね。あとは銀行のキャッシュカードも」
「お金なら別にいつでも…」
「いや、カードを置いていく。ATMで好きな時に出金してくれ。だってきみには家の管理も頼みたいしな」
「今までみたいに掃除をすればいいだけでしょう? 貴方がいないぶん楽でしょうね、ゴミも無いし……僕がソファでゴロゴロしながらテレビを見るぐらいですね」
ゴロゴロしている総を想像できなくて、葉月は不思議そうな顔をした。
「まぁ、うちで寛ぐならなんでも好きにしていい。光熱費やマンションの管理費は口座から自動引き落としだから支払いの必要はないよ」
「それならますます、車検代と任意保険ぐらいなら次に会った時に…」
「だから駄目だよ、金は俺が出す。きみになにもかも押しつけていくんだ、そのぐらいは素直に聞いてくれ」
そういえば、葉月は、総が社会人になってからも、一度だって財布を出させたことはない。子供の頃から贅沢な食事を食べさせてもらったけれど、支払いはいつも葉月だった。
「……はい……では…実費だけ…」
譲歩するように総が言うと、葉月はようやく安心したように表情を和らげた。
「ああ、今ついでに教えておく、キャッシュカードの暗証番号は巽の誕生日だ」
言われ、ついつい総はぽかんとバカみたいに口を開けて葉月の横顔を見つめた。
そんなに簡単に他人に暗証番号なんか教えるもんじゃないとか、それってきっと貸金庫も同じなんでしょうとか、いろいろ思うところはあったけれど、それよりも、あまりに葉月が葉月らしくて総は笑った。なぜなら総も同じだからだ。暗証番号やパスワードを設定する時、総も巽の誕生日を使っている。
「じゃあそろそろ本気でどこか探すぜ」
「…どこか…?」
「できたら温泉がいいなぁ…アメリカに行っちまうと当分は入れそうにない」
「そうですね…それもいいかもしれません」
珍しく総が素直に同意したので葉月は満足そうに笑ってアクセルを踏み込んだ。
「ちょっとサービスエリアで休憩してもいいか?」
助手席でぼんやり前を見ている総に葉月が言った。
「ええ」
相変わらず総の返事は短い。他の人に対しては必要以上の気遣いを見せるくせに、葉月に対してだけは思いの儘に振る舞う。
「なんだか喉が渇いてさぁ。きみは?」
「そうですね」
後ろに飛んでいくように見える緑色が総にはひどく眩しい。日本という国がいかに自然豊かなのかということをこういう時に思い知る。東京のど真ん中の佐伯邸を出ることがなく、移動手段はほとんど車で、普段は自然を満喫することなんてない。子供の頃は葉月に連れられてあっちこっちに行ったので、その頃には自然の中を歩くこともあったけれど、景色に目をやるような余裕は総にはなかった。巽に恥をかかせないように、日下葉月と上手く過ごすことだけに全神経を向けていた。
サービスエリアの表示を見て、葉月はすーっとハンドルを切った。派手な真っ赤な車が本線を逸れていく。
「わりと大きいSAだな…思ったより車が多い」
「いいじゃないですか。平日ならこんなものでしょう」
「ちょっと歩くがいいか?」
「ええ」
売店やトイレから少し遠い所に駐車したら、総と並んで歩く距離が長くなるという葉月の姑息な計画だ。葉月は総のルックスが自慢でならない。美しい総を連れて歩くことにたまらない優越感を持っている。
そんな思惑になんか気づくことなく、車の中で待っているつもりなのか、葉月が外に出ても総はシートに背中を預けたままだ。
「総くん、きみも行こう」
助手席のドアを開けながら葉月は言った。
「僕は結構です」
「付き合ってくれよ」
葉月が頼むと、総は少し考えてから顔を上げた。
「じゃあ僕はなにか買い物でもすることにします」
別行動らしい。トイレに付き合うのは嫌だなんて、意識し過ぎの総が葉月には可愛いくてしかたがない。
駐車場に入ってくる車に気をつけながら彼らはゆっくり歩いた。二人ともが長身なので妙に目立つ。葉月は百八十五、六あるし、総もだいたいそのぐらいだ。痩身の総は、がっしりしている葉月よりも、ぱっと見ただけの印象では背が高く感じる。並ぶと葉月の方が少し大きいのだが。
奥のトイレに向かう葉月と別れた総は売店を見て回った。静岡名産や伊勢名産なんかが並んでいる。五百円ぐらいの抹茶チョコレートを買い、支払いが終わったばかりの総は、どんっという鈍い音に顔を上げた。外から聞こえたその音の理由はすぐに判明した。サービスエリアに入ってきた車が、駐車した車から出てトイレに向かって歩いていた女性をはねたのだ。
「……救急車を」
売店の女性にそう頼んだ総はトイレに向かって駆け出した。
救急車なんか待たなくても医者はいる。優秀な外科医だ。脳外科が専門で、バイトで救急救命もしていた医者だ。この場面で居合わせる医者としては最高の男だ。
「先生! 葉月先生!」
思ったより広いトイレを総は名前を呼びながら一周した。
「先生!」
声が聞こえていない筈はない。これだけ呼んでも姿が見えないということは、もうトイレの中にはいないのかもしれない。
トイレを出た総は事故現場をちらっと見た。あっというまに出来た人だかりでよく見えない。はねられた女性の姿すら確認できない。売店の女性は救急車を呼んでくれただろうか。葉月は気づいていないのだろうか。
その時、わずかにできた人垣の隙間から、総は葉月の横顔を見た。
「良かった…先生…」
普段は葉月さんと言うくせに、葉月に医師としての姿を求める時には無意識に先生と呼んでしまう。先生とつけるだけで、なんとも不思議な安心感があるのかもしれない。
人垣に向かって総は歩き出した。もう必死で走る必要はない。自分なんかがいち早く駆けつけたところでなんの役にも立たないことを総は知っている。葉月が応急処置をして助からなかったなら仕方がない。たとえ即死だったとしても、医師が居合わせたことはあの女性と家族にとって幸運なのだ。もしもう少し早く処置していたら助かったかもしれないという無念さを遺族に抱かせずに済むのだから。
人垣越しに総は中心を覗いた。葉月の上着の上に女性は仰向けになっていた。傍で膝をついているのは家族か友人だろう。葉月はなにか言っているけれど総のところまでは聞こえてこない。ひどく重傷なのだろうか? 或いは即死だったのだろうか。
「先生」
総が呼ぶと、葉月は反射的に振り返った。
「総くん、トランクからオレのバッグを」
言った葉月は、総に向かって車のキーを投げた。長い腕を伸ばしてそれを空中で握った総は、事態が思ったより切迫しているらしいことに気づいた。
どうしてこんなに広い駐車場でわざわざ遠いところに車をとめたんだと思いながら総は走った。真っ赤のアルファロメオ真っ赤のアルファロメオ真っ赤のアルファ…口の中で呪文のようにそう唱えながら探す。看板をつけているようなものなのですぐに見つかるかと思っていたら、ワゴン車や小型バスなどの影になっているのかなかなかそれらしい赤は見当たらない。かなり奥の方だったと記憶を頼りに走る。車に戻る時はどうせ葉月と一緒だからと油断していたことを総は悔いた。
それでも、あと数列で一番奥というところでアルファロメオが見つかった。キーのボタンを押してロックを解除し、トランクを開け、葉月のバッグを取り出す。もしかしたら自分の荷物の中のものもなにかの役に立つかもしれないと思い、両肩にバッグを一つずつかけた。トランクを閉め、キーを押してロックをかけ、来たばかりの道を戻る。戻る時は簡単だ、人だかりという分かり易い目印がある。
「先生、遅くなってすみません」
総が言うと、人垣は自然と割れた。
「総、中の白いボックスを」
葉月のバッグを開けると、かなりの体積を占める白い救急箱らしいものが入っていた。
「はい! あります!」
「開けてくれ」
「はい」
その時になって総はようやく横たわる女性を見た。いや、横たわる女性の頭を押さえている血塗れの葉月の両手を見た。
「おまえ、ミネラルウォーター持ってただろ。手にかけてくれ」
言って、葉月は右手を差し出した。
「はい」
自分のバッグに入れていた二リットルのペットボトルを取り出した総は、洗えという意味だと理解し、葉月の手の血を少しずつ落とした。
「中にゴム手袋がある、袋から出して被せてくれ」
言われた通りにする。医療ドラマで見るような薄いゴム手袋だ。
「そっちのパックに針と糸が入っている。おまえも手袋をして、糸を通してくれ」
素人に対する指示としては素っ飛ばし気味だが、葉月の思考回路や物言いに馴れている総は特に戸惑うことはない。むしろ、素早い指示に従うことは、目の前の大量出血を意識させず、総をすぐに冷静にさせた。
糸を通した針を葉月に渡すと、女性の同行者らしい男性を葉月は見た。
「応急ですが、これ以上の出血を止めるために仮縫いします。こういう状況なので麻酔はできませんが、それよりも止血を優先します」
男性は頷いた。たとえなにか言い分や希望があったとしても、目の前の医療従事者に対して別の提案があるわけもない。もし総がこの男性の立場でも、ただお願いしますと頭を下げただろう。
頭皮の縫合は馴れたものなのか葉月はさっさと縫っていった。普通なら痛む筈だが、傷の痛みの方が上回るのか、意識を失っているのか、女性は特に痛がらない。葉月のテクニックも素晴らしい。普通の手術なら頭髪を剃って手元も見やすいだろうけれど、今はそんなことすらできない。
捲れあがった頭皮が無惨だったが、縫合によって出血が収まっていくだけでも同行者を安心させた。あの出血のままいつ来るか分からない救急車を待つのは不安だったし、救急車が来たところでいつ病院に搬送してもらえるのか、処置に入れるのかはもっと分からない。
「おそらく今から病院に搬送され、私が縫った糸は抜かれます。病院でちゃんと消毒し、レントゲンやMRIで検査を……ああ、いえ、搬送先の医師から正確な説明があるでしょう」
「…妻は…大丈夫でしょうか…こんなに出血が…」
「確かなことではありませんが、事故の瞬間を見ていたので感覚としてですが、内臓破裂なんかはないと思います。骨折は…大きな骨折は無いと思いますが、ちょっとヒビという程度はあるかもしれません。それより問題は脳です」
出血が多いせいだろうかと総は思う。葉月の全身はもう血塗れだ。
「頭皮の傷の出血…今こうして見えている出血ですが、こんなものは大丈夫です。貴方もカッターで切ったりして出血した経験はお有りでしょう? こういう表面の傷はすぐに治りますし、後遺症が残るようなこともまずありません。傷痕だって、髪で隠れます。そういう意味でなく、搬送先では入念に検査をしてもらって下さい。見えない部分……要するに頭蓋骨の内部でという意味ですが、出血したり脳が損傷を受けたりという可能性があります。そして、直後の検査で出血が見られないからといって安心せず、何度も検査は受けて下さい。頭蓋骨の中での出血は、かなり時間を置いてから起こすこともあります。その場合は頭が割れるような頭痛がしたり、言動がおかしくなったり、指先が麻痺したりということがあります。もちろん、必ず頭蓋骨の中で出血したり血が溜まったりするわけではありません。そういう症状が出た場合は気を付けて下さいということです」
目の前の男は総が見知った日下葉月ではなかった。総に美味いものを食べさせ、ドライブに連れ出し、ヤクザ者の親友を相手に軽口を叩く人間には見えない。卑猥なことを言っては総を怒らせるその口は、医学知識の無い相手を気遣い、つとめて分かり易い説明をしている。低い落ち着いた声には安心感があり、この男に全幅の信頼を置いて治療を任せたら大丈夫と思わせ力がある。
この人は医者なのだと総は改めて思う。脳外科の権威の先生が是非にと望むほど優秀で、患者や患者家族に対して気遣いを忘れず、人間的にも好ましい、素晴らしいドクターなのだと。
その時、ようやく救急車のサイレンが聞こえた。総は慌てて音の方に駆けて行った。どこから来たのかは分からないが、高速道路のサービスエリアのせいで通常よりかなり時間がかかったらしい。救急車の方も、タオルを振って合図をした総に気づき、サイレンの音を消してすーっと近づいてきた。
「先生、誘導してきました」
総が言うと、葉月はようやく安心したような表情を見せた。救急箱一つではもうなにもできないのだ。さっきの手当てにしてもただの気休めに過ぎない。
ストレッチャーを持ってきた救急隊員は、医療従事者が現場に居合わせたことにすぐに気づいたようだった。
「搬送先はどこになりますか?」
女性をストレッチャーに移している隊員に葉月は聞いた。
「この辺りの総合病院で受け入れ可能となると……S医大か…S市民病院か…」
「S医大の脳外の成田先生に頼んでみてもらえないでしょうか。K大の日下と言ってもらったら引き受けると思います」
すると隊員は、受け入れ先を探して四苦八苦しなくて済むのがありがたいらしく、すぐに連絡してみますと言って救急車の中に消えた。
ようやく一段落したことを肌で感じ、総は小さく息を吐いた。
「……葉月さん……すみません…」
「どうしてきみが謝る」
「だって、肝心の時に傍にいなくて、すぐにバッグを取りに行けませんでした」
すると葉月は手を上げ、なぜかその手を下ろし、総の肩にそっと頭を乗せた。総に触れるには、彼の手は血に塗れ過ぎていた。
「疲れました?」
「いや、こんなことは普段の手術を考えたら平気だ……ただ…応急でもあんなことして良かったのか…居合わせただけで」
「いいんですよ───貴方がしなくちゃいったい誰がするんです」
すると葉月はひどく満足そうに笑った。
「すみません、先生?」
女性の夫だった。
「もしよろしかったらお名刺を…」
言って、男は財布から自分の名刺を出してきた。営業職なのだろうか、名刺の差し出し方が板についている。
「総くん」
促され、総が代わりに男性から名刺を受け取った。なぜなら葉月の手は血が付いたままだ。
「すみません、今日はプライベートなので私は名刺を持ち合わせていないのです。K大の日下葉月です。ただ、あと三週間でアメリカに赴任しますが」
「K大のクサカハヅキ先生ですね、ありがとうございます。本日は本当にありがとうございました」
「いいえ、医療者の義務ですから……搬送先になるだろうS医大の成田先生は、国内で五指に入る名医です。安心してお任せになって大丈夫ですよ」
「あのー、すいません、日下さん、日下先生? S医大の成田先生がすぐに連絡がつく電話番号をとおっしゃっていますが」
「ああ、旅行中だから携帯の方に───総くん」
自分の電話番号を覚えていないらしい。
「090-1××3-1225です」
逆に、総は完璧に記憶していた。隊員はその番号をメモして車内に消えた。
女性の夫から同乗をと頼まれたが葉月は断った。S医大はここから十分程度だし、成田という医師を信頼しているので自分がでしゃばる理由が無かった。男性は何度も何度も葉月に頭を下げてから救急車に乗り込んだ。救急車が走り出し、二人はようやく解放された。
「総くん、もう少しいいか?」
休憩が必要なのだろう、総は無言で頷いた。それに、すぐに出発すると、S医大から連絡があった場合に対応できない。
前を歩く葉月の背中を見つめて総は思う。この人と僕は棲む世界が違うと。日下葉月は、その名の通り、陽の下を歩んでいくべき男だ。素行は褒められたものではないかもしれないけれど、あんな風に人から感謝される稀な能力を持った人だ。
二週間前のあの日、知らない奴の希望になるよりも目の前のきみを救いたいと葉月に言われ総の心は震えたのだ。その言葉だけで救われた。まさかあの後、あんなことになるとは思っていなかったけれど、そう言われた瞬間、あらゆる呪縛から総は解き放たれた。救いの手が差し出されているというだけで安心した。その手を取るかどうかは別にして、最終手段としてその手があると思うだけで降りかかる火の粉をなんとか自分で払える気がした。まるで目に見えないお守りだ。
葉月はまたトイレに戻った。個室が空いているようだったので、代わりに総がボタンを押すと、自動でドアが開いた。なんせ葉月の手は血塗れのままだ。
「驚いた…広いのですね」
「オストメイト仕様だな」
「オストメ…?」
「人工肛門の人のことだ……パウチの処理ができるようになっている。ここなら車椅子でも楽に使えるし、最近のSAはいい設備を整えているな」
「……僕は…本当に物知らずなんですね…」
ゆっくりドアが閉まった。付き添いや介添えが必要な場合も少なくないので、内部は本当に広々としている。
「健常なら分からないだろう───自分から知ろうとしない限り、勝手に入ってくる情報ではない」
「……ええ」
「罪ではない───知らないということは…」
「…ええ」
「総くん、荷物はそこの棚に置いて。あと、上だけでいいから脱いでくれ……血で汚れるには惜しいスーツだからな」
二人分の旅行荷物を棚に置いた総は、付け足しのような理由のおかげで素直に服を脱ぐことができた。
「水道を出しっぱなしにしてくれ……横のボタンを押すと出たままになる……上の部分を押しただけなら数秒で水は止まるけれどね」
前半はこういう公衆トイレの特別な仕様で、後半は総も使ったことがあるよくある水道の蛇口だ。一般の人がトイレの後に手を洗うだけなら数秒の流水だけで十分だし、環境面や水道代やイタズラ防止などを考慮して数秒で止まるようになっている。
スーツの上着を脱ぎ、薄いノースリーブのシャツだけになった総は、言われた通り水道のボタンを押した。ちょうどいい量の水がずっと出たままになる。
「総くん、大きめのビニール袋を持ってる?」
「…ええ……僕の着替えが入っていますが、出せばいいだけですから」
着替えを出した総は、空になったビニール袋の口を大きく開けてもう一つの棚に置いた。
葉月は薄い手袋を皮でも剥がすように取り、ビニール袋に投げ込んだ。血塗れのジャケットとズボンを脱いでそれもビニール袋に入れ、シャツも少し血が滲んでいたので脱いだ。シャツの下に着ていたTシャツは汚れていなかったので着たままだ。
下着とTシャツだけの葉月はようやく手を洗った。血がついたまま無理やり手袋をつけてしまったので、どうにも表現しがたい不快さがあった。血液が気持ち悪いわけではなく、汗と湿気が不快にさせていた。
備え付けの、除菌用の液体ソープがとてもありがたかった。指の先から肘までを葉月は丁寧に洗い、おそらく血が飛んでいるだろう顔も洗った。総はそっと洗顔料を差し出した。葉月がてのひらを出したので、総は洗顔料を絞り出してやった。
ようやく満足したらしい葉月が水道を止めると、今度は総はタオルを渡した。
「ありがとう」
「……いえ」
総は自分も手を洗ってから葉月をじっと見た。
「なに?」
葉月はタオルを総に返した。
「僕が脱ぐ必要はあったのでしょうか?」
「…ああ…うん……もしかしたら血が飛んでしまうんじゃないかと思ってな」
葉月は自分のバッグから着替えを出して服を着た。
「……そんなわけないじゃないですか、布なんですから吸収してますよ」
「ああ……そうだな…」
上着に伸ばした総の手を葉月はぎゅっと握り締めた。
「…なんです?」
「抱きしめても?」
「……」
「キスしたい」
「…トイレで?」
「ここでさせないというなら、車に戻ってからするぞ」
なんて下品な脅しなんだと思っていると、あっというまに抱き寄せられた。
「……葉月さん…」
「うん」
「……どうして……」
「キスだけだ……もっとさせろとは言わねぇよ…」
総の頬に手を添え、葉月はゆっくり口づけた。
もしかしたら昂ぶっているのだろうかと総は思う。外科医ということを考えると、血を見たぐらいで興奮するようなことはないだろうけれど、それでも葉月は今まで一度だって外でこういう行為を求めたことはない。
ぬるりと入ってきた舌があっというまに総の舌を絡めとる。すっかりご無沙汰だと言ったくせに、なかなかどうして葉月は積極的だ。この場合、総が全くの未経験というのは別の話として。
「……総くん…」
そんなに貪ることなく葉月は離れ、総の肩にそっと顔を埋めた。袖のない薄いシャツ一枚の総の肌に、葉月のジャケットのボタンが擦れて少し痛い。
「きみはああしていつも巽の補佐をしているの?」
「…ああして?」
「さっき、救急箱を…とても手際がいい」
「……ええ」
「巽が手放さないのも道理だ」
「……貴方こそ…いつもああして手術をしているのですか? あんな…おそろしいほどの集中力で…」
「ああ」
総はそっと葉月の身体を押して離れ、荷物の上に置いてあったワイシャツと上着を着た。
その時、葉月の携帯電話が鳴った。
「はい、日下」
電話に出た葉月は、総に『頼む』というふうに手を上げ、トイレから出ていった。
残された総は二人分の荷物を整え、血塗れの服が入ったビニール袋の口をくくり、ついでにトイレも使った。自分では分からなかったけれど、どうやら酷く緊張していたらしい。時計を確認すると、このサービスエリアに入ってから一時間以上が経っていた。
両肩に荷物を、手にはビニール袋を下げた総がドアを開けて出て行くと、すぐ傍のベンチで葉月はまだ電話中だった。総は無言で葉月の隣のイスに荷物を置き、財布や携帯電話が入った女性用のバッグを持って売店に向かった。
葉月の手を洗うために使ってしまったミネラルウォーターと、おそらく喉が渇いているだろう葉月のためにスポーツドリンクを五本、たぶんまだ長居するだろうからとサンドイッチを四パックとガムをカゴに入れた。レジに行くと、救急車を頼んだ女性だった。支払いながら総が礼を言うと、あなたはお医者さんなのと聞かれた。僕ではなくツレが医者なのですと返すと、助けて下さってありがとうございますと逆に礼を言われた。尽力したのは葉月だったけれど、全くの他人に礼を言われるのは悪い気分ではなかった。
こんなに大量にSAで買い物するなんてと思いながら総がベンチに戻ると、葉月はまだ話していた。なにか良くないことでもあったのだろうかと総が不安そうに見つめると、葉月は心配するなと言いたげに片目を瞑ってみせた。じゃあツレが戻ってきたからと葉月は言い、まだ途中だったかもしれないのに電話を切ってしまった。
「……葉月さん?」
「安心していい、彼女は問題ないよ。意識レベルも問題ないそうだ」
「…そう……良かった。まだここで待機していた方がいいのでしょう? 食べませんか?」
木製のテーブルにサンドイッチやスポーツドリンクを出すと、予想通り葉月はスポーツドリンクに手を伸ばした。あっというまに一本が空になり、すぐに二本目の栓を開けた。
「搬送先の先生になにか言われませんでしたか?」
「ん? ああ、言われたよ。めちゃくちゃ怒られたさ」
瞬くまにサンドイッチが葉月の腹に消えていく。
「ああいうのはさ、普通はしないんだ。清潔なタオルか布で押さえるだけにした方がいい。縫ったところですぐにとらなきゃならないし、なにか菌が入ってしまう恐れも高い。でも、あのまま皮がベロベロになってたらショックが大きいだろ。脊椎損傷が無いのは最初から分かっていた……手も足も自分で動かせたからな」
「……」
「まぁ、きみが手袋を被せてくれたから頭蓋骨も触れたし、割れたりしてる様子もなかったし、あとは硬膜下血腫なんかにならないように……ああ…脳と硬膜の間に血が溜まって脳を圧迫すると良くないからな、そういうのは少し経ってから症状が出ることも少なくない」
「こうまくかけっしゅ?ですか…」
「頭蓋骨のすぐ内側にあるのが硬膜、脳を覆っている膜だ。外から衝撃を受けた場合、その部分の脳の血管が破れて、そこから出た血が脳と硬膜の間に溜まってしまうのが硬膜下血腫だ……急性と前につけるとなお正しい」
「……大丈夫なのでしょうか…」
「どうかな…ラグビーボールが当たった程度でも起こりうる症状だ、今回はかなり衝撃があったから…成田にはCTを繰り返し取ってもらえるように頼んでおいた」
「もしその硬膜…というのになっていたらどうなるんですか?」
「初期段階で分かり、処置が早ければなんということもないよ。要するに、硬膜と脳の間に溜まったゼリー状になった血液を出してしまえばいいだけだから。彼女は若いし、全麻にも耐えられるだろうし、妊娠している様子でもなかったし、開頭手術すればいい。S医大なら設備もあるし医者もいる、大丈夫だ」
「妊娠していないというのはなぜ分かるのです? 触ってみたのですか?」
「男の方がなんにも言ってなかったじゃないか。もし妊娠しているのが分かっていたなら、妻は妊娠しているんです、お腹の子供は…とか慌てて言うだろ」
なるほどと総が思っている間に、サンドイッチは三パックなくなっていた。さすがに総も少し空腹だったので残ったサンドイッチのパックを開けた。
あと三週間でこの人とは簡単に会えなくなると総は思う。今までは、確かにお互い多忙だったけれど、その気になりさえすれば、顔を見るぐらいのことは容易にできた。お互いの時間の調整さえできれば、会うのは簡単な距離だった。でも、アメリカなんかに行ってしまったらそうはいかない。顔を見るだけで何十万円もかかってしまう。いや、何十万かかろうと構わないのだ。問題は時間だ。ほんの少し顔を見るためだけに、何時間も飛行機に乗るのは不可能だ。葉月が金を出すと言っても総には時間が取れないし、総が航空券を送ったところで葉月も長期休暇取得は無理だろう。今、こんな風にちんたらドライブなんかしているのは、電話で呼び戻されたらすぐそれに対応できるからだ。
「どうした、妙な顔をして」
「……」
「悪いな、時間取って。最初から救急車に任せてしまった方が良かったな」
「なに言ってんです。僕もあれを見ていて、貴方を探し回ったんですよ。もし貴方が見て見ぬ振りをしていたら僕は愛想尽かしてましたよ」
「ヤクザのくせに」
「ヤクザでも、です」
表向きはカタギの秘書とはいえ、総は裏社会しか知らない男だ。そんな男にしてはわりとまともな感覚を持っている。それは他ならぬ葉月の影響を多分に受けたせいなのだが、葉月本人はそんなことに気づいていない。親代わりの巽がそういう風に育てたせいだと思っている。それこそ、いつ総が裏社会から足を洗っても大丈夫なように。
するとまた葉月の電話が鳴った。
「はい、日下……だから言っただろ、CTきっちり取ってくれって───うん……開頭できるか? 始まったら早いぞ…」
口ぶりが重いことが総を不安にさせる。
「───小開頭が無理なら穿頭で出来るだけ血腫を取ってから開頭だ……というか、成田はどうした? ああ、分かった、少し待ってろ」
ふいに葉月は電話を切った。何事かと驚いたような顔で見つめる総に、葉月は本当に申し訳ないという風に頭を下げた。
「総くん、今からS医大に行ってもいいか」
緊急事態ということはすぐに分かった。
「もちろんすぐに」
そう言って立ち上がった総は、凄いスピードでテーブルの上のものを片付け、両肩に二人分の荷物を下げた。
カーナビのおかげで、一度も行ったことがないS医大にはすぐ到着した。時間にしてほんの十分程度だったけれど、運転している葉月の手は、一分一秒でも惜しいという風に小刻みに震えていた。
途中、やっぱり同乗したら良かったと呟いたのを総は聞き逃さなかった。もちろんそれは聞かなかったふりをしたけれど。返事をしたところで後の祭りなのは明白だったし、むしろ携帯電話の番号を先方に教えておいたのは上出来なぐらいだった。
かなり時間がかかると言い残し、葉月は手術室に消えた。待合室に一人残された総は、最初の二十分ぐらいはやることもなくぼんやりしていたけれど、結局、すぐに病院を出た。車のキーは、預かった葉月のバッグに入っていた。
適当に市街を走らせてクリーニング屋を探した。いざ探すとなかなか見つからず、商店街を歩いていた主婦に尋ねた。血の染みがあるのでと言うと、評判の店を教えてくれた。クリーニング屋の主人は、袋から出した服に付着した、想像を超える血痕に驚き、良からぬ事件でも起こした犯人なんじゃないかという顔で総を見た。血痕があると最初に言われた時、せいぜい鼻血で汚したぐらいに思ったに違いない。ここで通報されたら厄介だと思い、事故現場に遭遇して応急手当をした医者の服だと総が言うと、店主は更にその医者はどこに行ったんだと訊ねた。店主の疑問も当然だ、本来ならその医者自身が店に服を持ち込む筈だ。総が素直にS医大でその患者の手術を手伝っているからと説明すると、S医大かと嬉しそうに笑って引き受けてくれた。
おそらく葉月は服は全て捨ててしまうつもりだったのだろう。でも、それらの服が巽から贈られたものだと知っている総は、簡単に捨てるという結論にしたくなかった。血痕があまりに広範囲に染み込んでいるためかなり時間がかかると言われたが、K大の日下あてに送ってもらえるように頼んだ。支払いとして総は取り敢えず十万円出した。後払いでいい、振り込みでいいと店主は言った。上手く血痕が落ちるかどうか分からないからというのが店主の言い分だが、逆に総にとっては上手くいってもいかなくても出す価値のある金だった。東京に戻ってからでは間に合わない、引き受けてもらえるだけでありがたかった。
思ったより時間がかかったと思いながら総はS医大に戻った。もう外来の診察時間は終わったのか、午後は休診なのか、待合室も廊下もがらんと静まり返っていた。葉月と別れた待合室のベンチに座り、腕時計を見ると、ざっと二時間が経っていた。出産中の妻を待つ男のように総はうろうろ歩き回った。そうかと思うとベンチに座り時間を確認する。また立ち上がってうろうろする。やることもなく、また座る。
「…あのぅ…」
ふいに声をかけられた。事故現場にいた、女性の夫だった。総は立ち上がり、腰から曲げるようにして頭を下げた。
「もしかしたら日下の手当てが不十分だったのかもしれません、申し訳ございません」
「そ、そんなこと……お二人とも十分よくして下さいました」
男は総の肩に手を置き、強引に身体を起こさせた。
「それに…先生はわざわざここに来て下さった……お二人の旅行の邪魔をしてしまって申し訳ないのはこちらの方です」
「旅行のことは…お気になさらないで下さい───アメリカに赴任する前にどこかに行こうかということになっただけで、なにも目的なんてなかったんです。それより奥様の容態は如何ですか?」
総が尋ねると、男性は力なく崩れるようにベンチに座った。
「…あれから…すぐに処置も済んで、病室で私と話したりもしていたんです……そうしたら…なんだか……おかしくなって……どんどん……先生を呼びました……そうしたら……血が溜まっているかもしれないといってまたCTというのをとって……そのまま手術室です」
もしかして、葉月が言っていた硬膜下血腫というのが本当に発症したのかと総は思う。もしそうなら、葉月は分かっていたのだろうか。分かっていたなら、どうして救急車に同乗しなかったのか。
男性の、握り締めたこぶしが小刻みに震えているのが分かった。自分の妻がただならぬ状態だというのを分かっているのだ。
「日下は……優秀な脳外科医です……私の自慢の父が優秀な医者だと言っていました」
すると男性は総を見て薄く笑った。
「……ええ……今は…先生方にお縋りするしか…」
「こんな時にとは思うのですが、相手の運転手との話し合いは? すぐに警察も来ていたようですが」
「一応…保険会社の方からは……連絡がありましたが」
「問題なく話し合いは進みそうですか?」
「……」
「もしなにか困った時にはご連絡下さい。親切な弁護士に当てがあります」
もちろん速水数馬の方だ。南方李壱はカタギ相手の仕事は受けないし、カタギと関わらせることに総の方にも躊躇いがある。
総は男性に自分の携帯電話の番号を教えてから立ち上がった。なんとなく喉が渇いていた。会計をする待合室に自動販売機があったことを思い出し、紙コップで出てくるコーヒーを二つ買った。一つは砂糖とミルク入り、もう一つはブラックだ。喉が渇くというよりは、手持ち無沙汰でいることが苦痛だった。
男性のところに戻ると、全く同じ姿勢のまま座っていた。ひどく痛々しい。総は何度もこういう人たちを見てきた。佐伯宗政を失った巽も、巽が刺されたのを目の前で見ていた数馬も、同じように痛々しかった。
「コーヒーをどうぞ───砂糖とミルクは? それともブラックの方が?」
「…あ……ええ…すみません…ブラックで…」
総は男性に紙コップを渡した。
いつになったら手術が終わるんだろう。まさか徹夜になるんだろうか。医療に全く明るくない総には予想もつかない。
男二人、無言のままただ待った。共通の話題なんかある筈がない。待って待って待って待ちくたびれた頃、手術室の赤いランプが消えた。
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