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番外編

 【 愛ゆえに 】  早瀬総というヤクザを口説き落としてから葉月の人生は全く変わった。  同じことの繰り返しをただただ続ける『医者』としての日々は、確かに充実していたけれど、ただそれだけだった。朝起きて、出かける準備をして、診察と手術と画像診断をこなして、帰宅して眠る。命を助けてくれてありがとうと感謝される仕事は確かに遣り甲斐はあるし、評価もされるけれど、それは医師としての評価であって日下葉月という男に対するものではない。仕事を離れた葉月の気がかりといえば、いつ命を狙われるとも知れない親友の無事だけだったが、それも葉月自身がどうにかしてやれるものではない。親友の佐伯巽の無事に関しては、とっくに総に委ねてしまった。巽が秘書として傍に置く総が命に代えてもと誓ってくれたので、それはもう信頼して任せている。そういうわけで、葉月の人生には何も特別なことが無かったのだ。  そんなつまらない毎日を過ごしていたというのに、総を手に入れてから葉月の人生はいきなり色づいた。いつも冷静でほとんど表情を変えることのない鋼鉄のヤクザは、実は感情豊かで羞恥心が強いかわいい男で、葉月が情熱的に誘うと渋々という顔で身を任せてくる。そういう天と地ともいえるギャップが、葉月の気持ちを満たし、つまらない日々を一変させてくれた。 「葉月さん、お忙しい中すみません。あなた、あまり時間はないんですよね?」  ホテルのロビーに現れた総は、相変わらずつんけんした口調で言った。 「そうだねぇ、いつだって俺たちに時間はないね」 「……あなたが医者だから」 「いやいや、きみが巽の秘書だからだろ」  葉月がさらりと核心をつくと、総はわずかに眉を寄せてソファに座った。  忙しくて時間が無いのはお互い様だが、勤務医の葉月には公休があるだけマシだ。総に休日は無い。巽が佐伯の屋敷にいる時は全て勤務時間だ。 「あなたの方が責任は重いじゃないですか。人の命を握っているのですから」  もし総がヤクザの秘書をやめて、無職になって、他に頼る人もなくなれば、喜んで全てを引き受けるのにと葉月は思う。どこかの会社に就職したいというならそれもいい。カタギとして生きるというなら大賛成だし、まだ若い総には、人生をやり直す機会なんて本当はいくらでもある。そうしないのは総自身だ。大ヤクザの佐伯巽の傍を片時も離れず、自分のこともヤクザだと言う。でも、本人がそうありたいというならそれでもいい。カタギになれないというのもしかたがないと葉月だって分かっている。一度でもそういう世界に足を突っ込んでしまうと抜けられないというのも真理だ。総の場合は軽く片足を突っ込んだ程度ではない、生まれた時からどっぷりなのだから。  そういうなにもかもをひっくるめて葉月は総を受け入れている。普通なら尻込みして当然の総の生い立ちすらも。むしろ、生まれ育ちの中で受けたトラウマのせいで色々臆病な部分もあるが、冷静なヤクザが見せるそういう弱点すらも可愛いのだ。 「責任はもちろん重いけどさぁ……俺は俺ができることしかできないんだ。自分ができることなんて限られている。手術は魔法じゃない」 「それもそうですね」 「それより今日はどうして連絡をくれたの?」  そうたびたび会うことができない二人だ。葉月の仕事はたいてい予定が立たないし、総は年中無休みたいなものだ。しかも葉月は一年のほとんどをアメリカで過ごしている。だから、こういうほんの短い逢瀬でも二人にとっては得難い時間だ。  そういえば、総がまだ子供の頃は季節ごとに一度だけ会っていた。春はいつも進級祝いか進学祝いで、環境が変わることが多いせいか総はよく不安定になっていた。もちろんそんなことに気づく人はそういない。葉月と、せいぜい総の義父の巽ぐらいだ。子供の頃から見守って来たのだ。傷つけられた子供が自分で立てるようになればと、総を引き取った巽はもちろんだが、巽の友人というだけの葉月も見守ってきた。  今はそんな風に見守るだなんて総に対して失礼でしかないと分かっている。大人になった総は立派に自立しているし、たとえ佐伯組を離れてもなんの問題もないだろう。学歴もある、優秀で見目もいい、どんな大企業でも欲しがる逸材だ。もちろんその出自に目をつむればという話だが、もし自分が経営者ならそんなことはどうでもいいから欲しい人材だと葉月は思う。  もちろん全て絵空事だ。現実での総はヤクザで、それをやめる気はない。 「巽さんからこれを預かりました、あなたから頼まれたものだそうです。あと、たまに帰国している時ぐらい連絡してこいとお怒りでした」 「……俺が頼んだ?」  連絡もしていないのに頼み事なんてない。そう言いたくなったが、特になにも言わず、差し出された紙袋を受け取った。軽い。まるでなにも入っていないようだが、中を覗くと小さなメモリーカードが見えた。 「…ありがとう」 「それよりあなたはどうして自宅に戻らないんです? 僕、あなたがいつ戻ってもいいようにちゃんと維持管理してるんですよ」 「ああ、すまない───このホテルが病院から近いから」 「早朝に手術が入っている?」 「ああ……まぁ、半月ほどここが拠点だ。全国から患者が集まってきている」  葉月の名声は相変わらずらしい。たまに帰国する名医の手で手術して欲しいという患者は日本国内だけでも数え切れないほどだし、もし国外の患者も受け入れるとでも言おうものならアジア各国から集まるだろう。葉月は希望する全ての患者を受け入れたいと思っているが、この世に日下葉月という医師は一人しかいない。手は二本だし、時間も限られている。そもそも、今はアメリカが本拠地で、本来、たまの帰国は休暇だというのに、望まれるまま葉月は自分の時間まで患者たちに提供する。 「もう日本に戻られた方がいいんじゃないんですか?」 「……どうかな」 「アメリカでの任期はあとどのぐらいなんです?」 「さあね、終わりと言われるまでだろう」 「あなたが優秀な医者だということは分かっていたつもりですけど、こうも自由にならないだなんて不便ですね。あなたにだって自分の時間を過ごす権利ぐらいあるでしょうに」 「んー、ま、そういう仕事だよね」  渡された小さな紙袋を持って葉月は立ち上がった。  もう終わりということらしい。逢瀬はいつだってほんのわずかな時間だ。顔を見て話すだけでもハードルが高い。  エレベーターに向かって歩き出した葉月の後を総は追った。ゆったりした動きなのに歩幅が広いせいか思ったより早い。ふいにたまらなくなり、総は無意識に手を伸ばした。前を行く広い背中に触れるのは簡単だ。ただ手を伸ばすだけでいい。それなのに、その手を総は引いてしまった。  総の身体はもうとっくに葉月のものだ。以前は巽を間に挟んで反目し合っていたぐらいだというのに、今ではすっかり心まで奪われてしまっている。アメリカに赴任したせいで会いたい時に会うこともままならない。だから、たまの帰国の時にはこんな風に押しかけてしまう。巽から無理にでも用事をもらって、自然に会うための口実を作って、ほんのわずかしかない葉月の時間を奪ってしまう。  葉月はエレベーターの前で止まった。なにも言わない。ついて来いとも、じゃあここでとも。なにか言ってくれたら従うのにと総は思う。帰れというならそれでいい。今夜の目的は果たした、ほんの少しの時間でも顔を見て話せたから。  エレベーターのボタンを押した葉月はくるりと振り返った。 「総くん」 「……はい」 「きみの複雑な立場とか巽の我儘な性格とか俺は一応ちゃんと分かってんだぜ?」 「はい?」 「んー……どうしようもない」 「なんの話です?」  すると葉月はわずかに唇を歪めた。苦笑しているように総には見えた。 「きみはあれかな、朝まで時間があったりするのかな」  目をそらして葉月が訊ねた。 「……ぇぇ…」  総は小さくそう返した。誘われていることぐらい分かっている。  ちょうどエレベーターの扉が開き、先に総が乗り込んだ。その背中を見て、驚いたように目を開いた葉月は、自分でも信じられないほど胸が昂ぶるのを感じた。オレは高校生のガキかよと思う。高校生の頃でもこんなに抑えがきかないなんてことはなかった。あれだけ欲しくてたまらなかった巽に対しても、だ。 「先生、いずれあなたは戻ってきますか?」  部屋に入ると、ドアが閉まる音に重なるように総が言った。 「任期が終わればすぐにも」 「ええ、そうですよね、分かっています───分かっているんです。それなのにどうしても気ばかり焦る。あなたが遠い国でキャリアを積んでいる間、僕は日本で同じ毎日を過ごしているんです。一年程度なら別に何も変わらないでしょう。僕の見た目だって、顔や身体も、あなたを見送った時のままで……でもさすがに五年も経てば変わります……」  年をとることや老いることで葉月の心変わりが起きるんじゃないかと心配しているらしい。大事な相手を、そんな下らないことで不安にさせていただなんて恋人失格だと葉月は反省する。むしろ、相手の心変わりを案じているのは俺の方だとも思うが、今それを言ったところで意味がないことに気づいて口をつぐんだ。  総を抱き寄せようか、それとも肩に手を置こうか、迷いながら葉月はぎゅっと手を握りしめた。ためらいがある。離れている時間が長く、こうしてたまに会うと、以前のように触れていいものかどうか確認するべきなのかもしれないとも思う。もしかすると総には新しい恋人ができているかもしれないのだから。 「……葉月さん」 「ん?」 「葉月さん」 「うん」  ゆっくり振り向いた総の細長い身体を葉月は反射的に抱きしめた。 「…先生……良かった───ほっとしました」  言った総の首筋に顔を埋めた葉月は大きく息を吸い込んだ。たまらない匂いだ。どうしようもなく葉月の気持ちは昂ぶる。 「あなたの気持ちがまだ僕にあるならいいんです───たとえ離れていても」  独り言のようにぽつりと言った総の、変わらない気持ちと口ぶりが、葉月のスイッチを簡単に入れた。         ■ E N D ■ **************************************************  【 飲酒の件 】  アルコールは飲まないと総は決めている。理由は単純だ、仕事は年中無休三百六十五日だし、いつ車を出さなきゃならないか分からないからだ。だから、弱くも強くも無いけれどアルコールは飲まない。敢えてもっと強い理由を挙げるとしたら、主人であり親でもある佐伯巽がそうしているから倣ったまでだ。  総は強い意志でそうしているのに、なぜだろう、葉月といるとその決め事は簡単に崩れる。葉月が強引に酒を勧めるわけではない。総が飲まなかったからといって葉月が不機嫌になるわけでもない。それなのに、普段なら絶対に流されたりしない総が、美味いよと笑う葉月につられて飲んでしまう。なんといっても心地いいのだ。葉月の低い声とときどき見せる優しい笑顔、そして甘い雰囲気が、総をただの普通の男にしてしまう。 「総くん、総くん、今夜はピッチ早くないか? 大丈夫?」 「…早くないし、大丈夫ですよ」 「いや、ちょっと早いよ」 「だーいじょうぶですって」  言った総の顔を葉月はじっと見た。 「んんん、いや、大丈夫とは思えないよ。どうしたの、なにかあった?」 「なんにもないですよ」 「きみに限って仕事が辛いとかないだろうけど、普段いつもきちんとしてるきみがそういう様子だと心配にもなるだろ」  すると総は小さく首を傾げた。いつも整髪剤で固めている髪がさらりと揺れる。それを見て、葉月は驚いたように目を開いた。 「あれ、勘違いかな? だったらごめんよ」  言って、葉月は総の頬にそっと触れた。 「───風呂、入ってきてるよね。それってそういうことでいいの?」  下心を隠さず言った葉月の手を総は軽く払った。  二十四時間三百六十五日常に臨戦態勢で、アルコールは飲まないと決めているヤクザの秘書の総が、今夜に限って飲んでしまい、それどころか酔っているのは、要するにそういうことだ。葉月の下心なんか関係なく、総もとっくにその気だったのだ。     ◆ E N D ◆ **************************************************  【 巣 立 つ 時 】  次に帰国した時には俺に一番に声をかけろ───二度目の渡米前、空港から電話をした葉月は、火山が爆発寸前で燻ぶっているような声で巽にそう言われた。  理由は分かっている。最初に渡米した時には渡米することすら言わずに行ったのに、今回はわざわざ電話をかけて巽に宣言したせいだ。  総くんは俺がもらうよ───宣言といっても伝えたのはそれだけだ。それだけだというのに全てを察したのか、電話の向こうで巽が身震いしていることまで葉月は分かった。いつも感情の起伏が無い、つとめて冷静に振る舞うヤクザが、今すぐにも怒鳴りだしそうな気配を隠さず、次の機会には腹をくくって来いと言ったのだから恐ろしい。  でも、葉月は、そのぐらいのことは分かっていて巽に言った。こそこそ隠れる気はなかったし、総に隠させる気もなかった。それに、巽に隠し通せるわけがない。たとえ相手が葉月じゃなかったとしても、恋人ができて生活リズムが変われば、ほとんどずっと一緒にいる巽には気づかれる。恋人でもできたのかと訊かれた時に、後ろめたくなるような返事をすることになるのは可哀相だ。言い出しにくいことを先に言っておいてやるのは自分の役目だと葉月は思っている。巽と葉月は対等だが、巽と総は主従だ。言いたいことを気持ちのままに言うことが難しいことぐらい分かっている。  だからといってすぐに巽と対峙したいわけじゃない。できるだけ時間をかけて作戦を練って、怒らせないような言葉を選んで言いくるめる方法を考えたかった。半年ぐらいは時間があると思っていたのに、脳腫瘍の学会での術式説明の担当に、回り回って指名されてしまったのだ。断ろうにも断る理由が思いつかなかった。貴方は日本人だしトーキョーに残してきている恋人にも会えるしついでに休暇もとってゆっくりしてくればいいなどと、大学の事務員に言われて断れる筈もない。その事務員の発言も、元をただせば教授の気遣いなのだから。神経に癒着して巻きつく腫瘍の除去の新しい術式の説明といっても、要は手術のビデオを流しながら要所要所のポイントで解説するだけだ。実際に執刀するわけではないからそんなに大変な仕事ではない。だから本当なら、経費で帰国もできて休暇も取れて恋人とも遊べて一石二鳥いや三鳥と喜ぶところなのだけれど、今の葉月の説明し難い微妙な立場を理解できる人はこの世にいない。  帰国して、すぐにそのままホテルに移動し、学会の一日目に出席した葉月は、夜になるのを待ってから電話をかけた。携帯電話にかけた筈なのに、出てきたのは屋敷詰めの組員で、取り次いでもらえるまでかなりの時間がかかった。ようやく電話に出てきた巽は、今そこにいるんだなと言った。会場近くのホテルに連泊の予定だと葉月が伝えると、今すぐ行くと電話を切られた。だから葉月は待っている。すぐといっても、佐伯の屋敷からだと車で飛ばしても一時間ぐらいはかかるだろう。電話を切ってから一時間、巽相手にどう言いくるめようかそればかり考えている。  ノックの音がした。一応、覗き穴で確認してからドアを開けた。 「……入るぞ」  自分より五センチは背が高い葉月を睨むように見て巽が言った。 「ああ」  ヤクザなのだ。葉月の大事な親友は、どう足掻いても抜け出すことのできない大幹部に上り詰めてしまっている。 「全くおまえはなにも言わずにアメリカに行ったかと思えば急に帰国して総をどうこうとか言い出すし、それも出国直前の空港から電話を寄越して宣言して俺になにも言わせないなんて卑怯だぞ」  スーツの上着をソファの背もたれにばさっとかけて巽が言った。 「それよりおまえガードはどうした? 征鷹は?」 「そんなものつれて話し合いなんかできるか」 「キレんなよ───ガードはつけとけ、いつも肉の盾に囲まれとかなきゃ危険だろ」 「こっちの事情はおまえには関係ないだろう」  冷たい巽の声に葉月はぎゅっと唇を噛んだ。  確かにそうだ、関係ない。巽が狙撃されようと爆破されようと、今の巽はそういう立場だ。雀翔会の、いや、更に上部組織の獣王連合の、看板を背負って歩くのが仕事だ。それが大幹部『朱雀』の役目だし、巽自身もそれを分かって『朱雀』を名乗っている。組のことにはあまり立ち入らなかったけれど、総から説明されてそのぐらいは知っている。  でも、葉月にとってこのヤクザは佐伯巽という名前のただの男だ。代わりのきかない親友なのだ。 「……それで……二ヶ月前のあの電話はどういう意味だ?」 「言葉通りだ」 「総をもらう? なんなんだ、あれは俺の持ち物だ」 「…雇用関係にあるのは知っているさ」 「その前に親子だ」 「盃関係だろ」 「違う───そんなのはうちの組の奴ならいくらでもいる」  吐き捨てるように巽は言った。 「覚えているか、巽。十年も前のことだ……総くんを俺が引き取って、大学に入れて就職させようかって話したことがあっただろう。あの時は総くんにその気がなかったから無しになったが、俺は今でもまだ考えている。東大を出てヤクザの秘書をやるのは酷いと思わないのか?」 「そうしろと命令したことは一度もない」 「そうだろうよ、そうだろう。もし俺が総の立場でもおまえの盾になるだろう」 「そんなつもりは無い。総は他の組員とは違う、頭脳労働者だ。俺のスケジュールを管理して書類の整理をして関係各所との調整をして、今は屋敷内のほとんど全てを取り仕切っている。組の仕事をさせたことはない」  自分が正しいと思っている人間特有の言い方に葉月はわずかに眉を顰めた。葉月は巽のことを愛しているが、巽の全てを肯定する気はない。佐伯巽は不遜なところがある男だ。生まれた時から組織の中枢を担う人材として育てられたせいかもしれない。それでも、佐伯組まで背負う予定ではなかった。長男の宗政を亡くしたせいで、巽が全てを負うことになったのだ。異母弟の冬矢は佐伯から解放してやったというのに、巽自身は死ぬまで『佐伯』という檻の中にいるのだろう。  そういう全てを知っていて、我が子同然に愛している義理の息子まで奪うのだ。なにも知らない他人なら総のためにという言葉も嘘ではないと巽にだって分かるだろう。でも、今、巽から総を引き離そうとしているのは、なにもかも知っている身内同然の男だ。だから巽も全力で抵抗している。分かっているくせになにを言っているんだという顔で親友を責めている。 「それでも外の奴らには同じだろうよ───佐伯の屋敷に住んでいる総をカタギだと思う人はいない。組の仕事はさせていないと言って通用するのは通いの家政婦ぐらいで、それは年配の女性だから信じてもらえる。もし少し華やかで若い女性だったら、組の人間のイロだと決め付けられるだろう。どうしてそのぐらいのことが分からない? もしおまえが外の人間なら、組の屋敷に住んでいる男をカタギだと思えるのか?」 「……」 「おまえはそういう男なんだよ、巽。俺はおまえが好きだし、俺自身がそういう家の男の子供だし、たいていのことは偏見はないが、十才から外に出されたからこそ一般の人の考え方だって知っている。おまえが望んでヤクザ稼業をやってるわけじゃないことも分かってるさ───総くんのことだって、おまえがあの時に引き取っていなければ、あの子がどんな人間になっていたのか想像できない。だから俺は全てを否定するつもりは無い……おまえはよくやってる。組のため、弟のため、総くんのため、他の誰かに飛び火しないように自分だけが標的になるように看板しょって佐伯を名乗って……俺だけはおまえのことを分かっている」  感情を汲み取ることができない巽の、整った美しい顔を、葉月はじっと見つめた。  ずっと好きだった男の顔だ。総と特別な関係になるまで、強引に組み敷いて貪りたいと思っていた相手だ。振り向くことがないと分かっていたのに愛していた。 「俺にとってあの子は自分の一部だ───腕をもぐようなことはやめてくれ」 「おまえを苦しめたくて言ってるわけじゃない……あの子のこともそろそろ解放してやってくれ」 「葉月が知らないだけで俺は何度もあの子に選択させてきた。そのたびにあの子が自分で今の立場を選んだんだぞ。それどころか俺は、高校には上がらずに組に入ると言った時に止めたぐらいだ。大学に行かせたのも俺だ。就職先に組を選んだのは本人だ。俺はいつだってあの子の自由にさせてきたつもりだ。おまえが引き取る引き取らないって話になった時だって、あの子に自分で決めさせた。それをおまえは俺のせいだと言うのか? 俺が総を束縛して俺の手元で働かせていると?」 「そうじゃない。総くんが自分の希望でおまえの傍にいることぐらい分かってる」  わずかに頬を紅潮させた巽はきつい眼差しで葉月を見た。  葉月はその挑発に乗らず、すっと視線をはずしてベッドに座った。 「……あと十年ぐらい経ったら……俺は今の仕事はやめるつもりだ」  呟くように葉月が言った。 「医者をやめてどうする」 「いや、今みたいな、最先端医療からは退くという意味だ……十人ぐらい弟子を取って技術をコピーして、それが完成したら俺がやめても問題ない。その弟子がまた十人の弟子を育ててくれたら、俺が作った医者は百人ってことになる」 「最先端から退いてどうするつもりだ?」 「どうもしないさ。無医村か離島にでも行って、畑で野菜でも作りながら往診して、地域医療に従事したい。国内じゃなくてもいい……簡単な手術ですぐに治るような病気や怪我で死んでしまう子供たちがいる国で、往診バッグ一つ持って診て回るのもいい……五十になるまでにそういう生き方に変えたいと思っている」 「どうしておまえはそういう突拍子もないことを言い出すんだ? 脳外科は誰にでもできるわけじゃないんだろう? 無医村の医者は、手術もできないような医者に任せておけばいいじゃないか。なにも優秀なおまえがしなく───」  ふいに手を握られ巽の声は途切れた。 「……無医村や離島の医者ってのは大変なんだ。都会の医者は自分の得意分野だけやってりゃいいが、医者が一人しかいない『そこ』では全てを自分でやらなきゃならない。看護士や事務員がやってくれるようなことまで全部だ。究極の技術は必要ないが、それなりに色々なことを知らなきゃできない。俺ならできる───救急や内科はバイトでやったし、外科はもともとやっていた。やってないのは精神科と耳鼻科と眼科、美容整形と泌尿器科ぐらいだが、それは一分一秒を争うような病状にはなりにくい。紹介状を持たせて都会の病院に行かせるだけで事足りる」  葉月は巽の手をぎゅっと握りしめた。以前の葉月なら、この手を、指を、思うまま舐めたい衝動に駆られたけれど、今はそんな気持ちはない。てのひらから伝わる体温が、生きていることを知らせてくれるだけで安心する。それだけだ、本当にただそれだけだ。 「……それに総を連れて行きたいということか?」  ぽつりと巽が言った。 「ああ」 「あの子に畑仕事や家事でもさせるつもりなのか?」  葉月は小さく首を振った。 「苦労させるつもりじゃない───家事は少しはさせるだろうが、家政婦代わりに連れていくわけじゃない」  巽は苦笑した。なんとも表現し難い複雑な表情だ。 「おまえは昔からそういうわけの分からないことをする奴だ」 「……」 「総がついて行くというなら俺の答えは一つだけ───なぜならあの子は自由だからな」 「…おまえならきっとそう言うだろうと思っていた」  子供が手元から巣立っていくことを嘆く親など存在しない。水商売と風俗とヤクザのイロしかしたことがない、何本かネジが飛んだような葉月の母親ですら、息子が医師として病院に勤めだしたことを喜んでくれたのだから。 「葉月───あの子を引き取って十七年……本当は俺が最初からあの子にそういう人生を歩ませてやりたかったよ」  低い声がそう言った。  いったい巽がどんな表情をして言ったのか、葉月が顔を上げた時にはいつものに冷静なヤクザに戻っていて、長い付き合いだというのに想像すらできなかった。 ■ E N D ■

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