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深淵より 2

 全裸でベッドに押さえつけられ、背後から圧し掛かられ、体内をぐちゃぐちゃに掻き回される行為を総が許したのは、片手では数えられないけれど両手を使えば数えられる程度だ。要するにまだそんなに何度も抱かれたわけじゃない。しかも、相手がアメリカに赴任しているせいで、行為と行為の間が長い。帰国している時に続けて求められても、その次は三ヶ月以上も先になるので、馴れるということがない。二晩続けて身体を拡げられたところで、空港で別れた後はすぐに堅く戻ってしまう。総が自分で愉しむことは無い。自慰すらほとんどしない男だ、自分の尻になにかを突っ込むなんてことを試すわけがない。恒常的に自分で拡げておけば次の行為が楽なのだが、総がそんなことに思い至るわけがない。葉月はもちろんそうすれば楽だろうにと気づいてはいるが、それを教えてやる気は無い。  総の恋人は医者だ。しかもかなり押しが強い。まだ肌が触れることにすら躊躇いがある総にとってはおそらく最も性質が悪い相手だ。人間の身体を知り尽くした外科医に身を委ねるだなんて恋愛初心者には荷が重い。もし相手が普通の男なら、痛いから許してくれと懇願すればやめてくれるかもしれない。でもそれは医者相手に通用しない。逆にまだ拡がるから大丈夫だと言われ、ぐいぐい拡げられたとしても、その知識に間違いは無いので身体は無傷なのだ。しかも、巧みに刺激されて体が反応してしまったりすると、耐え難い羞恥心に襲われるに違いない。現に総は、あからさまではないとはいえ、葉月にそうして抱かれている。壊れたりしないから大丈夫だなんてなんの慰めにもならないのに、耳元でなだめるように囁かれ、侵入を許してしまっている。  総の心や身体が現実に追いついてくるまで待ってやるなどと言いながら、その実、葉月は、そう気が長いわけではない。きみが前に進むために変化を起こしてやるなんてもっともらしいことを口実に、日本とアメリカで離れ離れになる前に既成事実を成立させてしまったのだから。初めての時、全身を硬直させた総の、まだぜんぜん準備なんてできていない体に、強引に侵入したのは葉月の我儘だった。体だけじゃなく、心の準備もできていなかった。それでも総は、物心ついた時から葉月に抱かれるその瞬間までずっと受け入れるばかりの生活だったせいか、強引に進められる『変化』を受け入れた。そしてその初めての変化から今もなお葉月の強引さに翻弄され続けている。日下葉月は強引だ。総の養父であり主人でもある佐伯巽もかなり強引な男だが、まだ常識的ともいえる巽の強引さと葉月ではレベルが違う。 「はづ、きさ…まだです、か」  不自由な体勢のまま訊ねた総の声はほとんど枕に吸収されてしまったけれど、かろうじてなにか文句を言っていることだけは葉月に伝わった。  巽の命令で届け物を持ってきただけなのにどうしてこんなことになるんだと、自分の下半身から聞こえてくるぬちゃぬちゃという濡れた音を無視して総は思う。最初の頃はそんな音にまでいちいち反応して青くなったり赤くなったりしていたけれど、小さなことに拘っていたら精神的にもたないことに気づいてからは無視を決め込んでいる。もちろん総にとっては全く『小さなこと』ではないのだが、自分と葉月のしていることの内容を考えると『小さなこと』と分類していいと思う。体内を性器で掻き回されるなんて、冷静になって考えると恐ろしいことだ。しかも、自分は女性ではなく男で、わざわざセックスする意味がない。こんなことをするなんて本当にどうかしていると総は思う。 「まだだよ」  ひどく優しい声で葉月が言った。 「…もぅ…そろそろ」  今夜はもう二度目だ。一度だけで解放してもらえるとはもちろん総も思っていなかったけれど、抵抗せず求められるまま応じていたら気絶しても離してもらえないかもしれない。うっかり気絶なんかして、身体を好き勝手にされるのは嫌だ。さすがにそれは怖い。意識がある時に色々されるのもたまらなく恥ずかしいけれど、意識がない状態でなにかされるのはもっと耐え難い。なにをされたのか分からないせいで怖いのだ。  日下葉月という男が思ったよりずっと執着心が強く、独占欲も強いのだということに総は最近になってようやく気づいた。総が十才の頃から知っているけれど、もっとドライでさっぱりした性格だと思っていたのだ。ドライはドライに違いないけれど、全てに関してドライではないと言うべきかもしれない。どちらにしても、総が考えていた人物像と実際の葉月は微妙に違う。 「総くん、できれば今夜は次のステップに進みたいんだがどうだろう」  挿入したまま、総の背中を全身で覆うようにして身体を倒した葉月がそう言った。 「……嫌です」 「なにをするか聞く前に拒否するなよ」  耳元で低い声が抗議した。 「嫌です。そういうことを言う時のあなたはろくなことをしない」 「確かにきみは嫌がるだろうけどね」 「絶対に嫌です! だいたい二ヶ月ぶりに帰国してきたくせにこんな…」 「こんな? なに?」 「酷く…するなんて…」 「ゆっくり丁寧にやったつもりだが……痛かった?」  囁くように問いかけられるだけで総の背筋をぞわぞわとしたなにかが駆け抜ける。それが性的快感だということを総は知らない。そんなことも分からないほど初心者同然の身体なのだ。  自分の下で総が全身を強張らせていることに気づいた葉月は軽く突き上げた。経験が少ない総のために葉月はいつも激しくはしない。今日だって無理なことはしていない。ちゃんと馴らしてから入れただけだ。身体の奥を力任せに突いたりはしていない。 「もうやめ…」  総はがくりとベッドに突っ伏した。 「総くん?」  さっきまでどうにか上半身を支えていた総の腕は、力尽きたようにぐにゃりと肘が曲がっていた。 「ごめん、そんなに酷く…したつもりは無いんだが…」  会うのが二ヶ月ぶりなら、抱くのも二ヶ月ぶりだ。脳腫瘍に特化した脳外科学会の分科会で講師をすることが決まり、アメリカから戻ってきたが、予定外だったので会うつもりもなかった。でも、巽とは、帰国した時は知らせると約束していたので連絡した。滞在先のホテルに訪ねてきた巽とは珍しく激論になった。二ヶ月前に日本を離れる時、総をもらいたいと葉月が一方的に電話で宣言していたせいだ。二ヶ月もの間ずっと溜め込んでいた巽の怒りは凄まじく、長い付き合いだというのに初めて見るような激昂ぶりだった。それでも巽は納得してくれたのだ、いずれ秘書としての役割を終えた総を解放するべきだと。解雇という形になるので総は苦しむかもしれない。でも、たとえ「大ヤクザとその秘書」という雇用関係はなくなっても、「養父と里子」という関係までは無くならない。養父とはいっても戸籍上はもともと無関係で養子縁組はしていないが、親子のように過ごした二人だけの濃密な時間は確かに存在した。総にとっての父親は巽だ。佐伯組の鉄砲玉として命を落とした実父ではなく、十才で孤児になった総を施設まで迎えに来てくれた巽こそが父親だ。  巽と総の、誰にも割り込めないそういう特殊な関係を葉月はときどきうらやましく思う。  自分の巨体で組み敷いた総の、小刻みに震える肩を葉月は優しい眼差しで見つめた。今回は会うつもりがなかったのになぜ総がここにいるのかというと、葉月への届け物を巽が総に頼んだからだ。その届け物は、総の父親としての巽から、総を引き取りたいと言い出した相手への贈り物だ。父親だからこそ持っている、総の成長を見ることができるたくさんの写真なのだが、もちろん総はそのことを知らない。巽から渡された届け物を総はただの書類かなにかだと思っていて、それだけでなく、巽と葉月の間で自分の人生を左右するような口論が起きただなんて気づいていない。しかも、間抜けなことに、総をもらいたいという葉月の真意を巽は知らないのだ。屈折した性格のくせに巽はなぜか裏を読むことがない男だ。『総くんは俺がもらうよ』という葉月の宣言をただ単に葉月が総の身元引受人になるだけだと捉えていて、まさか恋愛関係にあるだなんて考えもしない。もし巽が少しでもそのことに気づいていたら、花嫁の父親よろしく本気で葉月を殴っていただろう。その姿が簡単に想像できるぐらい、佐伯巽という大ヤクザは、ヤクザのくせに総の父親だ。 「はづ…きさ…もぅ離し…」  崩れた総の両肩がずっと小刻みに震えている。それを見た葉月は無意識にまた突き上げた。  堪らなかった。二十七になるまで誰にも触らせることなく生きてきたストイックな男が、抵抗らしい抵抗もせずこうして身体を提供しているなんて、本気じゃなければ説明がつかない。自分は流されただけだと総は思っているし、葉月も総がそう考えるように仕向けてきた。だから、未だに総は決定的な言葉を口にしていないが、間違いなく本気になっていると葉月は信じている。恋愛という意味で総が自分を見るようになったと葉月は思っている。  すっかり力が入らなくなった総の身体に腕を回して支え、葉月はゆっくり抜き挿しした。激しく動くことはしない。無理なやり方で怯えさせてセックス嫌いになられると困るし、身体を傷つけたいわけでもない。葉月の普段の性格はどちらかというとサディスト寄りだが、性的にはノーマルだ。優しく抱いてやりたいし、終わった後は抱きしめて眠りたい。 「……総くん? もう無理そうか?」  奥まで入り込んだまま総を包み込むように抱きしめて葉月は訊ねた。二ヶ月ぶりに会えただけでなく、巽の計らいでこうして過ごすこともできたので、できれば次のステップに進みたい。 「無理に決まっ…」  とはいえ抱くのは二ヶ月ぶりだ。葉月がアメリカに赴任しているせいで二ヶ月も三ヶ月も間が空く。総の身体が馴れることはない。もし続けて抱けばある程度は馴れて新しいこともできるだろう。でも、今は、総はバージン同然だ。  葉月はぐっぐっとまた奥を突いた。ぐったり身を任せている総は、あっあっと小さく悲鳴を上げる。押し拡げられることがまだ苦痛としか感じないのだろう。抜かれる時や入ってくる時の摩擦が快感を生まないまま総は葉月に抱かれている。葉月にとってはただ久しぶりなだけの行為でも、総はいつまでも初めてレベルで、前回のことをすっかり忘れてしまっている身体ではすぐに限界になってしまう。葉月は無茶はしていないつもりだが、総はまだまだ当たり前の挿入だけでも許容量いっぱいで、更に上乗せして他のことまで求められたら耐えられそうにない。精神的には今でも十分に限界だが、肉体的にもとっくに限界だ。 「じゃあそろそろやめようか」  もう一度だけ総の身体を抱きしめた後、葉月はゆっくり引き抜いた。  支えを失った総はぐったりベッドに突っ伏したまま肩を上下させている。その様子を横目に葉月はバスルームに入った。  なんせまだ射精していない。葉月は取り立てて遅いわけではないけれど、自分が達するまで総を攻め立てるのが難しいことを知っている。こっそり一人で処理するのだ。もちろん総がそんなことに気づく筈もなく、それどころか相手もそれなりに満足していると思っている。  ついでにゆっくり風呂につかってから葉月が部屋に戻ってくると、総はまだベッドに伏せたままだった。下に敷いていたバスタオルを身体に掛けている。身体を隠すのは無意識なのだろうが、そんな風にいつもいつもガードが固いと余計に剥ぎ取って辱めてやりたくなるだけなのに、恋愛経験が乏しい総には分からない。 「総くん、こっちに泊まってくの?」  葉月とは別に部屋を取っているからだ。 「……先生」 「ん?」 「先生はどうして僕と…その気に…なるんです?」  普段の冷徹な物言いからは想像もつかないほどおどおどした口調で総が言った。 「どういう意味?」 「先生と…過ごしたい人は他にいくらでもいるでしょうに……僕は……僕では……」 「んー? どうした? アメリカで浮気なんかしてないよ。毎日毎日、人の頭蓋骨の中をいじってんだぜ、夜になって人間の身体の穴をいじろうなんて気力は残っちゃいない」 「……僕を怒らせようったって無駄ですよ」 「怒らせるつもりなんかない。本当のことだ」  総はゆらりと身体を起こした。 「───次のステップとやらは、最初からそれができる人とやって下さい。僕はもう無理です、これ以上はとてもじゃないけど無理です」  まるでサラ金の追い込みに同行した弁護士が債務者に対して言うように総は冷静に言った。一点を見据えた瞳は意志が強そうで、気持ちを変えさせるのが至難の業だろうことを容易に想像させた。  もう長い付き合いだ、総のきつい性格ぐらい葉月はよく知っている。佐伯巽の敏腕秘書として裏社会でその名を轟かせ、正式な構成員でもないくせに暗殺リストに名前が上がるほどのやり手だ。その早瀬総が、カタギの医者を相手に白旗を上げている。これ以上はできないと告げるなんて、今までは恐る恐る眉根を寄せて受け入れてきただけに悔しいだろう。葉月が考えていたよりもずっと総の許容量は小さかったらしい。 「きみの意見は分かった。ただ、一応、説明しておくけど、痛いとか辛いとかそういうのじゃないよ」 「知りたくありません」  ついさっきまで突き上げられて悲鳴を上げていたなんて思えないほど冷たい態度を取る総の隣りに葉月は腰を下ろした。手を伸ばせば簡単に触れる距離だ。その近さが嫌なのか総はじりじりと退いた。  総が退いたのと同じだけの距離を葉月は進んだ。結果的に二人はまた簡単に触れられるぐらい近くなった。 「───相互フェラチオしたいと思って」  知りたくないと言う総に葉月はストレートに言った。  最初は言われたことをすぐに理解できず、総は不思議そうな顔をし、しばらく経ってから葉月に向かって枕を投げつけた。だいたい予想していたのか、葉月はそれをひょいっと避けた。避けてしまった。それがますます総の怒りを煽ってしまい、二つ目の枕も飛んできた。 「あんたって人は! あっ、あっ」  二つ目は葉月の頭に命中した。 「ぼ、僕、に、こんなことまでして、おいて、そんなことまでなんて、なにを考え…」  そんなに特異なことじゃないという言葉を葉月は飲み込んだ。言ってもどうせ通じない。異なる言語で話し合う外国人同士のように。 「悪かったよ。この話はもうやめよう。きみ、風呂はどうする?」  さっきまではわりと甘い空気だったのに、葉月が要望を口にしたせいで台無しだ。言わなきゃなにも伝わらないと葉月は思っている。事実その通りだし、もともと葉月はわりと遠慮なくなんでも口にする方だ。だから外科や救急は性格的に向いている。  総は手を伸ばし、ベッドの脇に落ちているワイシャツを拾った。そして、それを着ようとしたが、少し考えてからやめた。着るならシャワーを浴びてからだ。  ベッドに座っている葉月に見えないように注意しながら、総は腰にバスタオルを巻いた。ベッドが汚れないように敷いていたタオルだ。そういう生々しさが総は本当に苦手なのだが、正直、敷いておいてもらって本当に良かった。背後から挿入され、抱きしめられ、葉月の手で強引に射精させられたからだ。その瞬間にティッシュペーパーで包んでくれたので飛び散らせるようなことはなかったけれど、そんなことは結果論で、もしバスタオルを敷いていなかったらと考えるだけで目眩がする。潔癖かそうでないかという点ではなく、そういう痕跡がありありと残ってしまうことがまず嫌なのだ。  総はゆっくりベッドから立ち上がった。行為の後は上手く身体を動かせなくなるということを総はちゃんと学習している。こんな場面で床に崩れたりしたら葉月を喜ばせるだけだということも知っている。嬉しそうに駆け寄ってきた葉月に抱き上げられたりしたら総は当分は立ち直れない。張れる意地は張れるだけ張ってしまうところがどうしようもなくヤクザなのだということに総自身は気づいていない。  できるだけゆっくりゆっくり歩いて総はバスルームに入った。自分を見ているだろう視線を背中に感じながら裸に近い状態で歩くのは抵抗があるけれど、本当はそんなことは今更なのだ。そのぐらいは分かっている。ついさっきまで性器を尻に入れられていたのだから。  総はできるだけ時間をかけてシャワーを浴びた。学会で疲れているだろう葉月が先に寝てしまっていたらいいと思いながら。  翌朝、いつもよりどんより重い頭を抱えて総は目が覚めた。年中無休に近い勤務体系のせいで朝が早いのはいつものことなのに、普段と違う時間を過ごすだけでこんなにも全身が重くなる。目が覚めた時は頭が重いと感じて額に手を当てて体を起こしたけれど、実際に重いのは全身だった。それも腰の辺りから下……もっと詳細に説明するなら尻とその内部。もっと言うなら尻の穴の縁がぐるり一周ずくずくと脈打つように疼いている。擦られたせいだからということぐらい総も分かっているし、これはもう毎度のことで、自分の身体がどうにかなってしまったんじゃないかと驚くようなことはない。夜は不思議と眠れるのに、翌日は午前中いっぱいぐらいはいつも疼く。まるで、ここで愛を確かめさせられたんだと主張でもするかのように、葉月が執拗に拡げたり擦ったりした部分が脈打つのだ。そのせいで総は、朝になってもリセットすることができず昨夜の出来事を引きずり、なにもなかったようにけろりとしている相手にどんな態度を取ればいいのか分からなくなる。  でも、本当は総にだって分かっているのだ。葉月と同じように、なにも無かったような顔をしておはようございますと言えばいいということぐらい。軽くそう言って朝食を済ませ、一日を始めればいい。それなのに総にはそれができない。たったそれだけのことなのにできないのだ。世の中の人はこんな説明できない気恥ずかしさをどうやって昇華しているのだろうと総は考えるけれど、結局はこれといった結論には達しない。もしかしたら恥ずかしいなどと思う方がおかしいのかもしれないとも思うけれど、これが恥ずかしくなければ何が恥ずかしいのだと考えてしまい堂々巡りだ。 「総くん、朝、食べてくだろ」  いつのまに起きていたのか、堂々巡りの自問自答に目を白黒させていた総は、まだ寝転がっている葉月を驚いたように見た。 「……ええ…」  結局、昨夜は、風呂を済ませた総を抱きしめたまま葉月は離さなかった。身体に巻きつく葉月の腕から逃れられず、ついうつらうつらしてしまい、気がついたら朝だった。  今までそんなことはなかった。行為が終われば添い寝も終わりで、シャワーを浴びた後は別々のベッドで眠るかそれぞれの部屋に引き上げた。こんな風に、まるで恋人同士が朝を迎えるように同じベッドで目を覚ます日が来るなんてと、今さらながら総は驚く。相応の年頃に恋愛の一つもしたことがない自分が、人並みにこんな経験ができるなんて思いもしなかったからだ。 「今日も学会はあるのですか?」 「ああ、まぁ、有志の集まりだが」 「そうですか。何時に出るんです?」 「十時に部屋に集まることになっている」 「部屋?」 「主催したやつの部屋でなんか話すらしい。俺が呼ばれた学会自体は昨日で終わりだったんだ」 「そうですか。では、朝を頂いたら僕は帰ります」 「やっぱりもう一泊は無理?」  軽く誘われている。珍しく総は気づいたけれどさすがにもう付き合えない。朝食を一緒にとるだけでも総にとってはかなりの譲歩で、本当ならすぐにも帰りたいぐらいだ。  もちろんそれは仕事があるせいだ。もし仕事がなければ葉月の言うもう一泊に従ってもいい。そう思うぐらいには総だって恋愛している自覚は芽生えてきたし、すぐにアメリカに戻ってしまう相手と少しでも長く一緒に過ごしたい。今はもう、初めての時のようになにもかも葉月に責任があるなんて思っていない。 「仕事を休むとは言わずに出てきましたから」 「それは残念……俺は明後日は手術が入ってるから動けるのは今日だけだ」  そう言って、葉月は裸のままベッドを下りて歩き出した。その背中を見ながら、僕も残念な気持ちぐらいありますと言ってやりたくなったけれど、そうしてぶつけたところでなにも変わらないことぐらい分かっている。  バスルームから水音が聞こえてきた。ざっとシャワーを浴びてから髭を剃るのだろう。  仕事に出る時、葉月はわりとちゃんとしている。年に四回しか会わなかった頃は、そんなプライベートなことまで分からなかった。医者だということすらずっと知らなかったぐらいだ。  二人の関係は特殊だ。総にとっては、年に四回、季節が変わる毎に、あっちこっちで美味しいものを食べさせてくれる養父の親友というだけの存在だった。もちろん今は、養父の親友がそんなことをしてくれるのが特異だと総は分かっているけれど、当時は葉月の厚意を『変な趣味』程度に捉えていて、飽きるまでそれに付き合ってもいいぐらいにしか思っていなかった。結局、葉月は全く飽きることなく、総が大人になっても律儀に誘ってきた。年に四回、一度たりとも抜けることなく。その真意を葉月に確認したことはない。本当にただの変な趣味だったのか、巽から頼まれていたのか、おそらくどちらかだろうとは思っているが、それを追究してなんらかの答えを得たとしても今はもう意味が無い。恋愛しているからだ。総にとっての葉月は養父の親友ではない。  バスルームから出てきた葉月はもう服を着ていた。長身で長い手足、頑丈な身体、そして外科医として天性の才能───一人の人間が持つ能力としては出来過ぎだと総は思う。 「きみはシャワーは?」 「家で使います」  そう言って総はスーツを着た。佐伯の家に出入りしている仕立て屋のものだ。最近になって命を惜しいと感じるようになった総が頼んだもので、身体の主要部分を中心に強化繊維が使われている。どんなに巽が言っても仕立てることがなかったスーツだ。秘書の僕なんかを狙う人はいませんよと言い続けていたのに、葉月と付き合うようになってから簡単に死ぬのは嫌になった。自分が葉月とできるだけ長く一緒にいたいという気持ちはもちろんあるが、それよりも、恋人が抗争で死ぬなんていうろくでもない経験を葉月にさせたくなかった。総は実父を抗争の中で亡くしている。総にとってはいない方がよほどいいような父親だったけれど、実父の遺体を前にした時の表現し難い気持ちを思い出すと、しなくていい経験はする必要がない。  丁寧にネクタイをしめた総に葉月は軽く口づけた。 「……なんです?」 「美人だなと思って」 「昨日から同じ顔ですよ」 「もちろん昨日も美人だったよ」  アメリカなんかで過ごしているせいで口までアメリカ人みたいになってしまっているんだなと総は呆れる。だいたい葉月はよく美人だとか可愛いとか言うが、自分の容姿がそういう枠に入っていないことぐらい総は分かっている。そこそこ整っているというのを美人というならまだ納得できるが、百八十を軽く超える長身の男が可愛いなんてありえない。最初は視力が悪いんでしょうなどといって取り合わなかったけれど、だんだん葉月の頭が気の毒な出来なんじゃないかと心配になってきた。  眉を寄せてなにか考えている総に葉月はまたちゅっと口づけた。どうせろくなことを考えていない。行為の最中の態度はかなり柔らかくなってきて合格点だが、愛し合った翌朝の糖度はまだまだ葉月には物足りない。もっと甘えてくれたらいいのにとか、可愛くおねだりでもしてくれたらなんでも買ってやるのにとか、水商売の女性に貢ぐ中年男性のようなことを葉月が本気で考えているなんて総が気づく筈もない。  そして葉月はふふっと笑った。 「……なんです?」  気の毒な脳がついに沸いてしまったのかと思いながら総が尋ねた。 「いいや、なんにも」 「なんにもって、人の顔を見ながらそんな不気味に笑われたら心配になります」  脳外科医の脳を総は案じている。 「いやぁ、俺は愚かだなと思って」 「…愚か?」 「きみはお金に困っていないし仕事もできるし、なんでも買ってあげるよなんて誘い文句がなんの誘惑にもならないことが残念と思う自分が愚かだなって」 「……はぁ…そうですか」  回りくどい言い方のせいで総に上手く伝わらない。 「きみがそんな単純な誘いに乗ってくれる相手なら楽なのに……そんな失礼なことを考えてしまったから。じゃあ朝メシに行こうか」  葉月は部屋のドアを開けて総を見た。 「部屋の鍵、ちゃんと持ってます?」  昨夜、葉月は鍵を持って出るのを忘れて締め出され、総をフロントに走らせたのだ。バスローブ一枚という情けなくも恥ずかしい姿だったせいで、総が代わりに行くしかなかった。 「ああ、持ったよ」  朝食は、一階のレストランで洋食バイキングだ。ホテルも食事も学会がセッティングしたので葉月にはよく分からないが、総はフロントに確認に行き、朝食をつけてもらうように言ってきた。どこまでも律儀な総がヤクザだなんてきっと誰も信じないだろう。フロント係りはもちろん、今、隣りのテーブルに座っているご婦人も。  丸い大きなプレートに葉月は山盛り色々なものを乗せてきた。トーストはもちろん、クロワッサン、スクランブルエッグやサラダ、そしてコーンスープ、コーヒーとグレープフルーツジュース。入れ替わりに総が席を立つと、ついでにオムレツも取ってきてくれと言った。もしかしたら百キロぐらいあるんじゃないかというほどの巨躯が維持できる理由を総は知った。巽と比べたらまだ食べる自分の倍は食べる。子供の頃からよく一緒に食事をしたけれど、決まった量が出てくる料亭やレストランでは本当の量は分からなかったのだ。バイキングになるとリミッターが無い。食べたいと思うだけ食べるのでその量に圧倒される。  それでも総は言われた通り自分のプレートにオムレツも乗せた。ぐるりと一周すると、最後にドリンクとフルーツ、デザートがあった。美味しそうなバニラアイスがある。銀縁メガネと細身のスーツで精一杯クールに装っているけれど総は甘党だ。アイスだけでなくミニケーキがいくつも並んでいるのを見て心が躍る。食事を控えめにしてデザートを多めに食べよう、そう決めてテーブルに戻ると、あれだけ大量に乗っていた葉月のプレートはとっくに半分になっていた。 「お先」 「ええ。オムレツどうぞ」 「お、美味そう」  総のプレートからオムレツを掠め取る。  こんな男が高名な脳外科医だなんてと総は思う。巽のような男がヤクザだなんてと言い回しはよく似ているけれど意味合いは正反対だ。もし医者という肩書きがなければカタギには見えない。  総はトーストに軽くバターを塗って齧った。舌の上で丁寧に味わう。ホテルで提供しているだけあってとても美味だ。 「あれ、日下先生」  プレートを手に横を通った女性が言った。 「おはよう」 「詰めて詰めて」  テーブルいっぱいに広げた葉月の皿を押しやって自分の皿を置いた女性は、葉月の隣りのイスに座った。 「おい、邪魔するな」  葉月は笑顔だったけれど、声は思いっきり不機嫌だ。 「こちらはどちらのドクター?」  女性は全く取り合わず、じっと総を見つめて言った。 「佐伯の」  面倒臭そうに葉月が返した。 「佐伯病院? 佐伯医院かしらー。はじめまして、S医大の脳外の成田です、成田あやめ。よろしくお願いします」  さらさらの長い黒髪と大きな黒い瞳はまるで日本人形だ。脳外科ということは葉月と同じ診療科で、こんな日本人形のような若い女性が頭蓋骨を割って手を突っ込んで脳をいじるということだ。  そして総ははっとする。聞いたことがある名前だったからだ。 「ああ、あの時のだよ」  総が気づいたことが分かったのだろう、コーヒーを飲み干した葉月が言った。 「もう一度行ってくる。きみはなにかいる?」  まだ食べるつもりらしい葉月に、行かないでくれと思うけれど、かろうじてその言葉を総は飲み込んだ。目の前の女医と二人きりにしないで欲しいなんて、とてもじゃないけれど口にできない。 「デザートとフルーツをお願いします」  総の低い声があまりにイメージ通りで、成田女史はうっとり目をつむった。  葉月が席を立つと、成田はきらきらと大きな目を輝かせて総に詰め寄った。実際には間にテーブルがあるので距離は全く縮まっていないけれど、なんとなく酷く追い詰められているような気がして総はわずかに身体を退かせた。 「先生はご専門は?」  大きな黒い瞳は更に輝きを増した。 「あ、いえ、私は…」  葉月が『佐伯の』と言ったということは、同業者ということで口裏を合わせろという意味だ。少なくとも総はそう取った。それなら脳外科と言った方がいいのか、別の返事の方がいいのか、医療に全く明るくない総には判断できない。  成田はサラダをぱくぱく食べている。この女性があの時の医者だというのだから凄い偶然だ。 「産業医さん? それとも精神科とか」 「……いえ…」  葉月がアメリカに赴任する直前、最後だからとドライブに行った時、サービスエリアで車にはねられた女性の救助に当たったのだ。医療者の義務だからと葉月は躊躇わなかった。救急車の隊員に搬送先の候補病院を訊ね、S医大の成田医師なら自分の名前を出せば引き受けると言った。女性はS医大で受け入れ可能になり、処置を受けることができたのだ。  最初、総は凄い偶然だと思ったけれど、考えてみれば脳外科の学会が開催されていたのだから、脳外科医が日本全国から集まっているのも当然だ。それなら、自分も脳外科ということにした方がいいのだろうかとも思うけれど、なにか少し突っ込まれたらすぐに嘘だと見抜かれる。それならまだ学会から派遣されている事務員とでも言った方がいいかもしれない。葉月が自分との関係を医療者で済ませておきたいなら、病院事務員や製薬会社の営業ならなりきってごまかせるかもしれない。いやいやどれも無理だ。相手はプロで自分は素人だ、とても嘘をつきとおせるとは思えない。  総が返事に窮していると、一体いつからそこにいたのか背後に男が立っていた。知らない人間の気配に総はがたっとイスの音をさせて立ち上がった。 「ああ、すみません、驚かせて───あやめさん、人様のテーブルを荒らしちゃ駄目ですよ」 「人様じゃないもの。日下先生のテーブルだもの」  成田が言うと、彼はなるほどと微笑み、空いていた総の隣りのイスに座った。同席してもいいかと断られなかったことに総は少し驚いたけれど、葉月の関係者ということを考えるとおとなしく受け入れた方がいい。損得ではなく、葉月の立場を優先させると自ずとそうなる。 「はじめまして、どちらの先生ですか?」  また同じ質問だ。医療者はみんなこうなのかと総が考えていると、プレートを二枚持った葉月がようやく戻ってきた。 「伊勢くん……きみまで…」 「日下先生がプライベートレッスンしてくれるって成田先生から聞いて来ちゃいました」 「それなら学会に出なさいよ」  葉月はどこか呆れたという声で言った。 「学会より日下先生の非公開レポの方が有益なんですもん。僕はあなたの技術の後継者を目指していますから」 「ああ」  葉月はただそう短く返事をした。  席に着いた葉月は総の前にプレートを置いた。色とりどりのフルーツと小さなケーキが四つ、そして真ん中にはバニラアイス。総が好きそうなものがちゃんと選ばれていて、わざわざ自分で取りに行く必要はなさそうだ。葉月は総の好みを的確に把握していて、しかもこういう時でも照れずに実行してくれる。この知人女性になにか勘繰られでもしたらどうするのだろうだなんて、考え過ぎなのかもしれないと総は思う。 「伊勢くんはどうして学会には来られなかった? 仕事か? リストに名前はあっただろ」 「僕だって来るつもりではいましたよ。ただ、担当患者さんが急変してしまって、呼び戻されました。新幹線の駅に向かう途中で」 「それはしかたないな」 「日下先生にもお会いしたかったから残念だったなぁと思っていたら、昨日の夕方、あやめさんから電話があって、今から来なさいよって。飛んできました」  内容はかなりの勢いでという印象なのに、のんびりした口調で伊勢が言った。そのアンバランスさがなんだか面白いなと思ったけれど総は口出ししなかった。 「で、日下先生、こちらは?」  まだ忘れていなかったらしい成田が総をじっと見つめてそう言った。 「さっきから聞いてるのにご本人も教えて下さらないんですもの」  とっさに総は助けてくれという目で葉月を見た。もうどう返事をすればいいのか分からなかったし、葉月がどういう形で収めたいのかも想像がつかなかった。全くの他人ならどう言っても構わないだろうけれど、成田も伊勢も葉月とは親しいようだし、後輩医師らしいというだけでも迂闊なことは言えない。なんせ総は葉月の知人に会うという機会に巡り合ったのが初めてで、どう対応すればいいのか指示されたこともないし、葉月が自分を他人にどう説明するつもりなのか確認したこともない。総の場合はいい、簡単だ。育ての親の友人ですと言えばほとんどの場合で丸く収まるし、特殊な関係にあることを伝えないだけでほぼ百パーセント真実だ。特殊な関係だと吹聴するのは危険すぎる。恥ずかしいとか世間体がというよりは、巽や葉月に総は迷惑をかけたくない。  すっかり困ったという表情の総を見て葉月はくすっと笑った。それに気づいた総が再び顔を上げると、任せなさいという風に小さく笑った葉月は、皿の上に残っている小さくなったケーキをフォークで刺して口に入れた。葉月が説明してくれることが分かり総は心底ほっとしてコーヒーカップに手をのばした。 「───この子は早瀬総、俺の恋人だ」  けろりと、全くなんの躊躇いもなく葉月が言った。  あまりになんでもないことのように言うので、最初は総もその内容が分からなかった。でも、ゆっくりその言葉を反芻して考えてみると、とんでもないことを葉月は簡単に白状していた。 「は、葉月先生…ご冗談、を…」  掠れた声で総が言った。  上手いごまかし方なんか頭になく、これまでの経験を総動員しても対処法は浮かばず、とっさに口をついたその言葉もなんの足しにもならない程度だ。冗談として簡単に納得してくれるような人たちとは思えない。特にこの、女医の方は。 「で、ご専門は?」  総の心配を余所に女医はまたそう尋ねた。葉月はもちろん、成田も伊勢も、葉月の『恋人発言』に特に拘っている様子は無い。それどころか、最初から冗談としか思っていないようにも見える。 「総は医者じゃないよ、ある男の秘書だ」  恋人ということは隠さないけれど、ヤクザということは隠すらしい。この場合、どちらがより隠すべき情報なのか総には判断できないけれど、少なくとも、葉月にとっては、男と付き合っているということを隠した方が無難なんじゃないかという気もする。一緒に食事をしていた男がヤクザの秘書という事実は、葉月にとっては大したことじゃない。少なくとも総はそう思う。  それなのに、あれこれ考えを巡らせているのはこの場では総だけで、他の三人は重要な情報が露呈したという様子には見えない。親しい先輩医師が男と付き合っていると告げたことなんて、後輩医師たちにとって特筆すべきことではないのだろうか。  いや、世間一般の常識ではそんなことはない筈だ。もし葉月が元々そういう性癖の人種で、周囲にカミングアウトしているならともかく、葉月が男と付き合うのは総が初めてだ。しかも、今だって別に男色に宗旨替えしたわけでもない。だからこの親しそうな二人の医師だって寝耳に水の筈だというのに、全く拘らないなんて逆に不可思議だ。 「秘書さん。そっかぁ……」  まだ総の仕事に拘っている。そこは大して拘る部分じゃないだろうと総は思うけれど、職業に拘る人にとっては大いに拘るべき部分なのかもしれない。 「そういえば成田、あの時はどうしてすぐ手術に入らなかったんだ?」  ふいに葉月が不機嫌な声で言った。 「あの時って、日下先生が救急で捻じ込んできたあの時のことかしら」 「それ以外に無いだろ。俺はきみを脳外科医として日本最高峰だと信頼して任せたのに、肝心な時に執刀しないんじゃ意味がない。しかも、硬膜下血腫の穿頭なんてそんな難しいわけじゃない。誰か一人ぐらい回せよ」 「日下先生が救急車に同乗してくれば良かったんじゃないですか。受け入れた時には人員にも余裕があって大丈夫だと思っていたし、あの女性の容態も落ち着いていたし、まさかあんな立て続けに急変があるなんて想像もできませんでしたわ。日下先生なら左右の手術室を行ったり来たりして同時進行で手術できるでしょうけど、私には無理です。そんな冒険はできません」  女医の意見は至極真っ当だ。全くの部外者である総ですら正しいのだろうということぐらい分かる。 「きみねーどうしてそんなこと言うの。医者なんだからどんな状況でも挑戦しなさい」 「日下先生の挑戦は、私なんかには大冒険です。患者さんの命を危険に晒してまで賭けに出るなんて馬鹿のすることです」  日本人形のような見てくれなのにこの女医はかなり辛辣だ。高名な脳外科医と言われている葉月に対してこんなに強く言えるのは、おそらく成田もそれなりの技術を持った医者なのだろう。医療界のことなんか全く知らない総ですらそのぐらいは分かる。  なんとなく関わりたくなくて総はただ無心にフルーツとケーキを食べた。コーヒーを飲んでしまったので取りに行き、ついでに他の三人の分も取ってくると、いい奥さんもらったんですねと伊勢に言われて驚いた。  もしかしたらこの二人は『恋人』という葉月の言葉を全く信じておらず、ただの冗談と思っているのかもしれないと総は考え始めていたけれど、実はそんなことはなく、ちゃんと理解しているのだということが分かってしまった。  席に戻った総は残ったケーキを口に入れ、なんとなくたまらなくなって俯き、急激に恥ずかしくなった。自分の顔が熱くなっているのが分かる。頬も赤くなっているだろう。総にとっては、ここで分かれたら二度と会うこともない人たちだが、葉月が平素から親しくしている相手に『恋人だ』と紹介されたいう事実が、じわじわと総を驚かせる。驚くというよりは、心のどこかがくすぐったいと言うべきかもしれない。  葉月は本当に本気なのだ。二人だけの関係を人に知られることなく続けるならいつでも無かったことにできるけれど、こんな風に誰かに告げてしまうと簡単に無かったことにはできなくなる。しかも二人はおそらく葉月の直弟子で、すぐに関係を絶ってしまえる相手でもなく、特殊な性癖を理解した上での人間関係でもなく、そんな状態で真実をあっさり口にできる葉月の感性は驚嘆に値する。少なくとも総のような波風を立てない生き方を好む人間には絶対に取れない行動だ。  この人は本当に恋人なのだと総は思う。  強引に葉月に口説かれ、逃げる隙も与えられないまま抱かれ、関係はとっくに出来上がってしまっていたけれど、こうして他人に宣言されるとぐっと重みが増す。もしこれが巽に対して言われたのならたまらなく嫌だっただろうけれど、総にとっては相手が全くの他人なので一切の痛手が無い。葉月の今後を少しは案じているが、不安点といえばそれだけで、葉月自身が自分で勝手に言い出したのだからフォローの必要は無い。 「ところであなたは日下先生のどの辺りが好きなのですか?」  いつのまに口論が終わったのか、二人の医師の興味は総に向いている。総にというよりは、葉月と総の関係に興味があるのかもしれない。 「……え…?」 「総くん、言ってやれ言ってやれ」 「日下先生は黙ってて。そんな怖い顔で脅されたら褒める気がなくても褒めちゃうじゃない」 「あやめさ~ん、付き合ってんだから彼だってそんなことで怯えたりしないでしょう」 「いえいえ、分かんないわよ。恋人だと思ってるのはこの大男だけで、彼は脅されて付き合ってるだけかもしれないじゃない」 「まさかぁ」  日本人形はちゃきちゃきしていて、男の方はハンサムでおっとりしている。自分より少し年上だろう二人の医師がなんだか可愛くて、総は無意識に微笑んだ。 「あらあら、つまんないの」 「だから言ったじゃないか、日下先生と彼はちゃんと本気なんだって。だって本気じゃなきゃこんな大男と一緒にいると暑苦しいだけだし、金目当てというには日下先生は薄給だし。彼は有能そうだし仕事できそうだし、たぶん先生より稼いでるんじゃないかな。ってことは、先生を好きじゃなきゃ付き合う意味がない。僕とあやめさんと同じだよ」  なるほど、二人の医師は特別な関係にあるらしい。以前の総なら気づかなかっただろうけれど、さりげない会話の中から情報を拾った。  ずっと黙って成り行きを見ていた葉月がふいに立ち上がった。 「総くん、行こう。部屋に戻ろう。きみ、今日も朝から仕事だろ」  思わぬ相席者が現われたせいで思ったより時間が経ってしまっていた。もちろん総に否はなく、促されるまま席を立ち、成田と伊勢に失礼致しますと頭を下げた。  先に歩き出した葉月を総は追いかけた。ロビーで追いつき、少し待ってから到着したエレベーターに乗り込んだ。二人きりの狭い空間だ。葉月がなにも言わないので総もなにも言わなかった。  葉月の部屋に置いていた自分のバッグを総は持った。 「……悪かったな……人に言う気は無かったんだが。きみは前になにもかも一緒くたにされるのは嫌だと言っていたのに」  ドアの前で葉月が言った。  総は足を止め、ゆっくり葉月を振り返った。 「構いませんよ、僕より貴方は大丈夫ですか? お仕事の方にあんなことを言ってしまって」 「いいんだ、俺は───なんの問題もない」  言った葉月の唇に総はちゅっと口づけた。 「…総くん?」  驚きを隠さず葉月は総を見た。 「今夜、仕事が終わったらまた来ます。貴方がすぐアメリカに行ってしまうから…」 「……ああ」 「そして、昨日の夜、貴方がしたいと言っていたことをしてもいいですよ。相互…っていう例の……夜になってもまだ貴方の気が変わっていなかったらですけど」  あまりに淡々と言うものだからまさかそんな色気がある内容とは思わなかった葉月は、かなり経ってから意味を理解し、力任せに総の身体を抱きしめた。 ■ E N D ■  【本編終了になります】 今後、番外編などを追加する場合があります。 誤字脱字修正、本文加筆訂正などで更新履歴に上がることがあります。 不都合な方はしおりやお気に入りの解除をお願いします。

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