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深淵より

 日下葉月という外科医と特別な意味で付き合うようになってから、医師という職業について総はいくつか知ったことがある。  一般に医者は激務だと言われていて、総もある程度は想像していたけれど、その激務のレベルが尋常では無いということ。日勤のまま当直、そのまま午前診に突入ぐらいなら珍しいことではなく、更に午後診まで休み無しだなんて無茶をさせる。  手術などでは、人の生死の全てを否応無く握らされる場面も少なくない。自分の命なら無駄に使おうが切り売りしようがどうとでもすればいいが、救急だと名前すら知らない人の命を左右することになってしまう。胸を切り開き、手を突っ込み、直に心臓を握って命を繋ぐなんていう恐ろしいこともする。  脳外科医の葉月は、血管や神経に絡み付く腫瘍を、一ミリにも満たない精密さで取り除く技術を持つらしい。CTにも写らない癒着があると大変だ。なんせ血管や神経は、ほんのわずかでも手元が狂って傷でもつけたら取り返しがつかない。大出血を起こせば命に関わる。神経を傷つけてしまうと、身体に麻痺が出たり五感を失ったり、予後が悪くなるのは必至だ。元の生活を取り戻せないなら命が助かったところでなんになる───それが俺の持論だと、総が葉月から聞いたのはつい最近だ。  今、日本に戻ってきている。脳腫瘍に特化した学会の分科会らしい。昼過ぎ、葉月の奴が癌研の傍のホテルで昨日から連泊しているからこれを渡してきてくれと総は巽から命じられた。連泊しているなら宅急便でホテル宛てに送りましょうと総は提案したが、急ぎだからと断られた。じゃあバイク便を頼んでと続けると、とにかく至急だから今すぐ行ってきてくれ、頼むよとついにはお願いまでされてしまった。主人にそう言われるともちろん総は断れない。届け物なんかしたらあの人に会ってしまうじゃないかという総の心の葛藤に気づいていない巽は簡単に言うけれど、葉月をそういう意味で意識し始めた総にとっては顔を合わせるだけでもなにかの勝負のように気負ってしまう。だからといって、それを巽に説明する気はないし、巽を納得させるだけの自白はできそうにない。あの人とそういう行為をするかもしれないと思うだけで会うことを躊躇ってしまうのですなんて、巽の前で言葉にするだけで気絶するんじゃないかと総は思う。  それでも総は葉月に感謝している。  いつの頃からか、こうして巽を前にしても説明できない程の苦しさを感じることはなくなった。巽の安全や健康に関しての不安はいつも持っているけれど、それはただ親しい人の身を心配しているだけで、手に入らない相手に焦がれて苦しんでいるわけではない。巽の前でいつもギリギリと胸を締め付けられていたのが嘘のように、今日も無事でいてくれて嬉しいとか、この義理の父を誇りに思うとか、そういう感情しか無いことがこんなにも自分の心を軽くするだなんて総は知らなかった。もし葉月がそれを分かっていて自分に恋愛を持ちかけてきたのだとしたらなるほど慧眼だと思うし、知らずに総を選んだのだとしたら運命ということで片付けても構わない。  十才で孤児になった総を引き取ってくれた佐伯巽と、その巽が俺の悪友だと紹介してくれた日下葉月は、総が第二の人生を始めた時からの道連れだ。義父の巽と今も切れていないのは当然でも、義父の友人と交友関係を続けているだなんて普通じゃない。普通じゃないならなんなんだと突き詰めると、要するに運命だと片付けると簡単なのだ。だから総は、葉月にはそう言ったことはないけれど、十才の時に出会ったあの瞬間から運命は始まっていたのだと最近は思っている。  自室に戻り、巽から渡された小さな紙袋をテーブルに置いた総は、姿見に自分の全身を映してみた。屋敷での仕事用のスーツだ。窮屈だと仕事にならないので、少しゆとりを持って作ってある。見えている肌の部分はほんのわずかだ。手首から先と首から上、それだけだ。大人になってからは、いや、たぶん高校に上がった頃から、学校でも屋敷でも誰にも肌を見せたことはない。水泳の授業はあるにはあったが、肌を露出するようなことはできないと総が言うと、教師は誰も無理にとは言わなかった。もしかしたら、総が佐伯の人間だと知っていて、しかも佐伯がどういう家なのかも分かっていて、肌を見せられないという妙な理由が理由として通ったのかもしれない。全身に刺青でも入っていると勝手に想像したのだとしたら、たとえ授業でも免除になるだろう。心臓病だというのが免除の理由になるなら、全身の刺青が免除の理由になっても不思議はない。なんにしても総は、誰にも肌を見せず、触れさせることもせず、二十七まで生きてきた。  仕事用のスーツを脱ぎ、屋敷の外で使うスーツに着替えた。身体の主要部分に防弾素材を仕込んである。佐伯の家がいつも呼んでいる仕立て屋に総がスーツを頼むようになったはこの半年ぐらいのことだ。今まで総は、自分はいつ死んでもいいと思っていた。鉛玉を食らって死ぬことになっても構わなかった。でも、今は、事前に打てる手は打っておきたいと思っている。葉月にはいつ死ぬとも分からないと言っているけれど、防ぐことができる災厄なら防いでみせる、そう思っている。だからこそ防弾素材を仕込んだスーツを着るし、脹脛にはナイフを忍ばせる。まさか自分がそんな特攻みたいな真似をすることになるなんて考えもしなかったので、変われば変わるものだと自分で自分に呆れてしまう。命への執着は無いと思っていたのだ。でも今は、葉月のためにも死にたくない。アメリカから戻ってきて向かう場所が墓だなんて不義理は嫌だ。それに、あと十年も経って、巽の傍にいなくてもよくなる頃、柵に縛られた医療界から抜け出した葉月と、どこか田舎で過ごしてもいいと本気で思っている。敵対する組の手も届かないような田舎でなら自由に生きられるかもしれない。葉月の目指す地域医療に少しでも協力できるかもしれない。そんな夢みたいなことを総はときどき考える。  葉月がいつも嫌がる、ヤクザ丸出しの黒塗りベンツに乗ってエンジンをかけた。自分の車だ。もちろん普通の装備ではない。フロントガラスも窓のガラスも変えてある。いや、外側はほとんど全て変えてあるので、装甲車と言った方がいい。車体が重過ぎて恐ろしいほど燃費が悪いけれど、普通の車に乗ることは巽から禁止されている。誰を乗せることになるのか分からない車だからというのが理由だ。佐伯の人間ならまだいい。でも、もし、なにかの流れで南方や南雲の人間が乗ることになって、どこかの組織から襲撃でもされたら大変だ。運が悪かったでは済まないのがこの世界だ。  ホテルの駐車場から電話をかけると、葉月はひどく驚いた声でどうしたのと言った。巽さんの命令ですよと返すと、時間があるなら上がって来いと言われた。時間なんかあるわけないという総の声を聞く前に電話を切られてしまい、上がって来いったって部屋番号が分からないじゃないかと思っているとメールが入ってきた。 『1103』  なるほど十一階ですかと総はエレベーターに乗り込んだ。  届け物をしろという命令だ、時間は無い。巽もなにも言わなかった。前の時のように明日の朝までに戻ればいいからなどという時間は与えられなかった。だから本当は葉月に下りて来てもらうか、フロントに預けるだけで済ませるつもりだったのだ。でも、葉月が関わる総のプランはいつもたいてい上手くいかない。  部屋の前に着き、ノックをしようとした時、総の鼻先で薄くドアが開いた。 「……お久しぶりですね、葉月先生」  総が部屋に入ると、バスローブをだらしなく引っ掛けた葉月が、携帯電話をテーブルに置きながら小さく苦笑した。 「二ヶ月ぶりだ、総くん」  言った葉月の胸元に、総は巽から預かってきた袋を突きつけた。 「巽さんからです」 「ああ───奴に頼んでいた」  受け取ったその袋を、窓辺のソファセットのテーブルに葉月は置いた。 「まさかきみが届けてくれるなんて思ってなかったよ」 「巽さんの命令です。では確かにお渡ししましたよ。お元気そうで安心しました、失礼します」  それだけ言って総は部屋を出て行った。まさかすぐ出て行くなんて予想もしていなかった葉月は、なぜ手首を掴んでおかなかったんだと後悔しながら部屋を出て追いかけた。背が高い総は歩幅も広い。みるみる遠ざかるほっそりしたスーツ姿を追って葉月は全速力だ。 「待って、総くん、待てって」  ちょうど開いていたエレベーターの扉が、葉月の願いを聞き入れたかのようにすっと閉まった。ようやく追いついた葉月は、エレベーターのボタンを押そうとしている総の手首をぎゅっと掴んだ。 「総くん、待って」  言った葉月を総は見た。 「───貴方、なんてカッコウで出てきてんですか」  葉月はだらしなく引っ掛けたバスローブのままだ。 「きみがとっとと出て行くからだろ」 「僕のせいですか」  総が言うと、葉月はまた苦笑した。 「いや、違うな、俺のせいだ」  掴んでいた総の手首を離した葉月は、ふと、己の大失敗に気づいた。 「総くん、すまない、フロントで鍵を借りてきてくれないか」 「……まさか部屋に鍵を置いたまま?」 「そのまさかだよ。慌ててきみを追いかけたから」 「それも僕のせいですか」 「いやいや、俺のミス」  言いながら葉月は笑った。ルームキーを忘れて閉め出されるなんていう初歩的なミスが総の気持ちを少し和らげたことに気づいたからだ。  総は冷静な男だが、環境のせいか穏やかな性格ではない。いつもぴんと張り詰めて緊張し、こぼれる言葉は刺刺しい。総の棲む世界の中では物静かな部類だが、一般の社会に出ると物騒さを隠せない。それを葉月は知っている。かつて葉月が愛した親友も総と同じだった。俺は穏健だと巽はいつも言っていたけれど、実際はそんなことはない。立ち姿を見ただけでカタギではないことぐらい裏社会を少しでも知る人間にはすぐ分かる。  総がエレベーターに乗り込むと葉月はぱっぱっと髪を整えた。最近、葉月の心はすっかり変わった。巽に向かう気持ちをごまかすために仕事に没頭していたけれど、今は『大切な友人』としか思っていない。没頭してしまった仕事はそれなりの成果を上げてしまい、医療界は葉月を逃がすつもりはなく、このままだとあと二十五年は自由になれそうにない。医療に革命を起こしたいとか、新しい術式を考案したいとか、そういう高い理想がある医者ではない葉月は、本当は地域医療や訪問医などに携わる方が向いている。いつのまにか最先端医療のど真ん中で悪戦苦闘するようになり、年に四回だけ会う子供がすっかり大人になり、一端のヤクザとして台頭し始めた二、三年前、急に心が固まったのだ。このアンバランスな子と真剣に向き合ってみよう、と。  エレベーターのドアが開いた。幸い、乗っていたのは総だけだった。 「───鍵、僕には貸してくれませんでした。当たり前ですが」 「……ああ…なるほど」 「その代わり、人手が空き次第、ここまで空けに来て下さるそうです」 「助かるよ」  葉月は総の手首を掴んで歩き出した。このままエレベーターに乗って帰ってしまうつもりだった総は、なぜ引っ張られるんだと思ったものの、敢えて文句は言わずについて行った。どうせ行き先なんて無い。部屋の前の廊下で突っ立って待つしかない。 「総くん、怒ってるか?」  前を行く葉月の声が廊下に低く響いた。 「なにをです?」 「帰国していることをきみに知らせなかったから」 「……お忙しい方だということぐらい僕にだって分かっていますから」 「分かっているから、なに?」  部屋の前で立ち止まった葉月が訊ねた。 「───分かっているから怒ったりしませんよ」  総が足を止めると葉月はゆっくり振り返った。 「急に決まった学会でね、きみに連絡するべきかどうか迷ったよ。時間に余裕があるかどうかも分からなかったし、戻ってきているのだからって手術を割り当てられるかもしれないし、きみのスケジュールに合わせてやれるかどうかも分からなかった。だいたい、このホテルに泊まることだって、こっちにきてから知ったんだ。学会の担当者に渡されたスケジュール一覧を見て……」  エレベーターの方から人影が近づいてくることに気づいて葉月は口を噤んだ。 「日下様、大変お待たせ致しました」 「ああ。すみません」  総が鍵を頼んだフロントマンだった。 「こちらのお客様からのご依頼で」  バスローブ姿の葉月を見て、一般人には見えないスーツの男が言ったことが嘘ではないとフロントマンは納得したらしい。  おそらくホテル側は葉月が医者だということを知っている。ホテルを押さえた学会側から高名な医師が泊まると聞いているだろうし、外国人医師に関しては通訳なども頼んだに違いない。それに、このホテルは癌研のすぐ傍にあるので、その関係者が利用することも少なくない筈だ。だから、鍵を部屋に忘れて閉め出されるなんていうミスをしたのが、学会に招かれている高名な医師か研究者だと気づかれるのは、本来なら恥ずかしくてならないのに、葉月は全く気にしていないという様子だ。それを横目に、少しぐらい恥ずかしがれと総は思うけれど、葉月にはそんな繊細さは無い。  ようやく鍵が開くと葉月は先に部屋に入った。代わりに総はフロントマンに深く頭を下げて礼を言った。  自分もこのまま帰ってしまおうと思い総が足を踏み出そうとした瞬間、全身をぐいっと後ろに引かれ部屋に引きずり込まれた。 「───っにす」  怒鳴りつけそうになった自分の口を総はてのひらで塞いだ。 「…総」  その手を葉月は剥がし、ゆっくり唇に口づけた。  どんなに拒んでみせても、憎まれ口を叩いても、総が自分を本気で拒絶しているわけではないことぐらい葉月は承知だ。自分から触れてくることも誘うことも無いけれど、触ってやると振り払うことはしないし誘ってやるとたいてい付き合う。セックスだって、最初こそ恐々だったくせに、何回か経験した今はそんなに怯えることはない。今はまだ挿入してじっと抱きしめてやるぐらいのことしかしていないので、いずれ穴の縁がめくれて腫れ上がるぐらい突き上げて突っ込んでやりたいと考えてはいるけれど、取り敢えず最低ラインの行為には付き合ってくれる。つくづく、総と初めて寝たのがこの年齢で良かったと葉月は思う。もしあと十才若かったら、総の身体や心を気遣ってやる余裕なんかなくて、ただ自分の欲求のままガツガツ貪ってしまっただろう。もう無理だと悲鳴を上げる身体を強引に突き上げ、疲れ果てた体を引っ張り起こし、二度目三度目を求めたに違いない。そんな自分を葉月は簡単に想像できた。  軽く触れるキスに総が馴れてきた頃、薄く開いた唇から葉月は舌を差し込んだ。すると総は更に大きく口を開いた。おそらく考えてしたことではない。なんとなく開いてしまっただけだろうが、総が無意識に自分を受け入れいくれているような気がして葉月は嬉しくなった。 「……総くん…きみ……巽から聞いてきた?」  額と額をぴったり合わせて葉月が言った。 「なんの…こと…で、す」  息が上がってしまっている。拒まないようにはなったけれど、まだ本当の意味では馴れていないらしい。 「きみ、明日の昼まではここに出張ってことになってるらしいよ。さっき電話してみたらそう言っていた」 「……」 「どういう意味です?」 「だから、明日の昼までここにいていいってことだ」  言った葉月を総は複雑な表情で見た。 「貴方、また変なこと巽さんに吹き込んだんじゃないでしょうね」 「なにも」  葉月はしれっと否定した。  まさか巽に『総をくれ』と直談判しただなんて言えそうにない。総が巽に傾倒しているのは明らかで、そんな相手に交渉しただなんて知れたらどんな結末を迎えるのか葉月には想像もつかない。だから葉月は巽との裏取引を総に話す気はない。おそらく巽も総になにも言わないだろう。然るべき時が来たら、総を『解雇』してくれる筈だ。正式な構成員ではない総は、巽が解雇すれば組から離れることになんの問題もない。なんらかのケジメをつける必要もないし、落とし前などといって清算することもない。  葉月の胸元を押して総は身体を離した。 「……部屋を……」 「うん?」 「取ってきます」 「…ああ」  総は部屋を出ていった。  葉月はスーツに着替えた。総がスーツだったからだ。  書類ケースから明日の講演の資料を出してきて、ソファに座って確認した。  深い深いかすかな光すら届かないような穴の底でうずくまっていた子供は、今は顔を上げて歩いている。本当はもっと早く助けてやりたかった。せめて十年前に引き上げてやれていたら人生も変わっただろうに。  いや、でも、おそらく十年前だと総は一歩も動かなかった筈だ。そんな簡単に変化を受け入れられる性格ではないことを葉月はよく知っている。  いつのまにか四十分が経ち、資料一冊を読み終えてしまった時、ようやく総が戻ってきた。ドアを開け、肩を抱くようにして部屋に招き入れてやる。すると総は一瞬だけ身体を硬くした。でもすぐに力を抜き、部屋の奥のソファまでついてきた。 「……お仕事されていたのですね」  テーブルの上の資料を見て総が言った。 「ああ……明日も講演がある───まぁなんてことはない、手術のビデオを流しながら大切なポイントで説明を入れる。しかも今回は日本語だ、気が楽だよ」 「医学学会はドイツ語ではないのですか?」 「日本でやる学会は日本語だよ」 「そうなんですか」 「ああ」  戻ってきた総を抱き寄せた時、それまではしなかったボディソープの香りが総の身体から匂ってきて、どうにか抑えていた葉月の欲求を激しく揺さぶる。部屋を取るといって出て行って、自分なりにできることをしてきたのだろう。眼鏡のせいで今どんな表情をしているのかよく分からないけれど、シャワーを使ってきたということは、総もそういうつもりということだ。ただそれだけで葉月は嬉しくてたまらない。受け入れようとしてくれているだけで報われる。  テーブルに散乱した資料を揃えた葉月は、総が持ってきた巽からの預かり物のことをようやく思い出した。 「助かるよ」  袋の中身を総は知らない。だから、とても重要な書類か高価な品物でも入っていると思っていた。 「いいえ。大切なものなのでしょう?」  小さく微笑んで総が言うと、袋の中を覗き込んだ葉月は満面の笑みを返した。 「ああ、とても」  袋の中には、まるで地獄の深淵でも彷徨っているような瞳を持つ子供の写真が入っていた。几帳面な巽の性格を示すように写真は年齢順になっていて、何枚かめくるたびに一つずつ年を取っていく。子供の瞳は徐々に生気を取り戻し、玲瓏たる輝きを取り戻すまで実に十余年を要していた。  葉月はそれを総に見せず袋に戻して書類ケースに入れた。それはまるで宝石でも扱っているかのような丁寧さだった。  窓辺のソファで一心不乱に新聞を読んでいる総を葉月はじっと見た。きみはその新聞は佐伯の屋敷で隅から隅まで読んだだろうにと思うけれど、おそらくまだ気持ちが揺れているのだろうからと放っておくことにした。総みたいなアンバランスな男が、何度かセックスしたぐらいで簡単に誘ってきたりするわけがないことぐらい葉月にだって分かっている。そんな簡単にすぐやりたい今すぐ抱いてくれなんて言えるなら、大学生ぐらいの頃にとっかえひっかえ女と寝ていたに違いないのだ。結論としては、総は他の誰ともセックスしたことがない。  まぁ俺だって、もうずいぶん長い間、セックスどころか誰かと付き合うとかいうこともなかったしなと葉月は思う。忙しかったのは本当だ。配属先の外科が激務だったのも、欠員補填で行かされた救急が更に激務だったのも、忙しくて恋愛どころじゃなかったという言い訳として成り立つけれど、どんな激務の中でも結婚する奴は一定数存在する。それを考えると、俺は恋愛をサボっていたんだと葉月はちゃんと分かっている。  いや、もちろん葉月だって恋愛はしていた。振り向く可能性が限りなくゼロに近い相手にずっと片思いしていたのだから。自分を見ることが絶対にないと分かっていて、それでも想わずにいられなかった。しかも、総が片想いしていた相手に、だ。 「総くん」  腕組みしたまま葉月が呼ぶと、総の肩は小さくびくっと震えた。 「はい」 「新聞はもういいか?」 「いえ、まだ半分までしか読んでません」 「後半はスポーツとどうでもいい地域情報とラジオテレビ欄だけだろう」 「……ええ」  総は全身の力を振り絞るように新聞をたたんでテーブルに置いた。なにかを吹っ切るようなその様子に、葉月は心の中で苦笑する。  ヤクザのくせにお堅い総のことだ。今はまだ名前を呼ばれただけなのに、極度の緊張で全身を強張らせているに違いない。そういう繊細さとは無縁の葉月には総の気持ちが全く理解できないけれど、そんな程度のことをいちいち意識して緊張したりする総のことが可愛くてならないのは本当だ。もしそう口にしたらバカにしないで下さいとへそを曲げることが分かっているので言わないけれど、可愛いと思うその気持ちはセックスの最中に存分にぶつけてやると葉月は決めている。もちろん、存分にといったところで、恋愛初心者でセックス初心者の総に無茶なことはできないのだけれど。  でも、潔癖を絵に描いたような総が肛門に性器を突っ込まれるだなんて、ただそれだけでとんでもない出来事をどうにか受け入れているということぐらい葉月にも分かる。患者相手なら、尻どころか脳の中にまでいろんなものを突っ込んでいる脳外科医なので、セックスに限らず身体中を弄り回したりあっちこっちの穴になにかを突っ込むのは馴れているけれど、特別な相手に性的な意味でするその行為は、たとえ同じことだったとしても葉月にとっても全く意味が違う。ただ口の中に舌を差し込むだけで、いや、それどころか、歯を指先でなぞるだけでも、葉月の脳からはドバドバと音を立てて性欲が流れ出る。 「こっち来いよ」  脳から垂れこぼしている性欲に気づかれないように葉月が言った。 「……はい」  立ち上がった総のすらりと細長い体があまりにストイックで葉月はめまいがしそうになる。この身体を組み敷いて、抱きしめて、性欲をぶつけてもいいだなんて、冷静になって考えてみると奇跡だとすら思う。  葉月が手を差し出すと、足取りだけはすたすたと近づいてきた総は、かなり長く考えてからその手を取った。 「───葉月さん…」 「ぅん?」 「…お願いが……あります」 「いつもより激しくしてくれって?」  しれっとハードルを上げた葉月の手を総は力いっぱい振り払った。 「逆でしょ!」 「だってきみもそろそろ馴れるかと思って」 「あっ、あんたバカなんじゃないですか! 何ヶ月も間が空いてんですから馴れるわけないでしょうが! 医者のくせに僕に説明させないで下さい!」 「だって俺、泌尿器科じゃねぇし」 「……? え?」 「まぁいいや、こっちの話」  葉月はいきなり総の身体を抱えてベッドに投げ込んだ。もちろん本当にボールみたいに投げられたわけじゃない。せいぜい強く押されてベッドに倒れた程度だ。でも総は確かに自分の身体が浮いたような気がしたし、実際、葉月はかなりの力で押し倒した。 「…にするんです」  最近の総は葉月に対してあまり感情を抑えない。無意識のようだが明らかに以前とは違っていて、もちろん葉月はそのことに気づいている。思ったままを口にするようになった総と、少しずつでも距離が縮まっている気がしている。 「きみさ、身の危険とか感じてる?」 「感じてるに決まってるでしょう! こんなことされて骨でも折れたらどうし…」  本気で抗議している総の唇に葉月は口づけた。すっかり油断していた総は、口を自由にされるだけでなく、いつのまにか葉月に押さえ込まれている。 「っん…づ、きさ……」  舌をやわやわと吸われながら総が言った。 「ん? なに?」  あまりしつこくせず葉月は離れた。総を相手にする時は押してばかりでは駄目だということを葉月は学習している。もともと自分の命にすら執着が無い男だ。押し過ぎて鬱陶しがられたらおそらく簡単に関係を清算されてしまう。軽く飢餓感があるぐらいがちょうどいい。不安にさせるのは可哀相な気もするが、相手にその気がなくなったのかもしれないとたまに感じるぐらいの方が、簡単にもうやめるとは言い出さない。総がどんなに強がっても、今なお過去のトラウマに縛られていることを葉月は知っている。それは孤児になった不安感でもあり、養父が結婚したことへの喪失感であり、いきなり全てを支配される恐怖心でもある。一つ目は父親で、二つ目は巽で、最後の三つ目は葉月のせいだ。しかも先の二つと違って葉月だけは総を性的に組み敷いた。一つ目は事故のようなもので、二つ目はライフスタイルの変化で、いわば誰にも責任はない。三つ目だけは性質が異なる。ただひたすらストイックにあらゆる災厄を交わしてきた総の人生にセックスを持ち込んだのは葉月だけだ。  いきなり総は葉月の顔を引き離すようにぐいぐい押した。 「こんな…無理やり…こんなのはやめて下さい───僕は…」 「うん?」 「僕は…貴方が思っているよりもずっと───」 「ん? なに?」  葉月は優しく促した。でもすっかり口を閉じてしまった総は続きの言葉を飲み込んでしまったようだった。  葉月は総のワイシャツのボタンを上から順に一つずつゆっくりはずしていった。以前なら絶対に許さなかったことだ。身体中に残る傷痕を人目に晒すぐらいなら死んだ方がマシだと思っていた総は、真夏でも長袖のシャツを着て一番上までボタンをかけていた。だから、今、こうして胸元をはだけさせているというだけでも、いかに総が葉月を受け入れているかの証明に他ならない。それだけでなく、なにがなんでも身体の傷痕を見られたくなかった男が、裸で抱き合う行為を許しているだなんて天変地異にも等しいぐらいだ。 「総くん……言いたかないが言っておく。きみは俺の前でもう少し身構えた方がいい。あんまりにも隙だらけだと俺の我慢がきかない」 「……なんのことです?」 「きみは自分が男だからそんな無防備なんだろうけど、俺にとってきみは妙齢の女性と同じだ。裸にしていじりまくって、入れたくってたまらない」  すると総は、すぐにもキスできるぐらいの距離で言う葉月の顔を、反射的に平手で叩いた。そして、そんな自分の行動に驚いたように、そのてのひらをじっと見つめた。 「総くん」 「……」 「総」 「…はい」 「今日きみがここに来て、シャワー使ってみたり部屋を取ってみたり、きみにもその気があるような行動を取るもんだから、ものすごい勢いで俺の脳から性欲が垂れ流しになってるんだ───きみ、そんなこと気づいてないよな? 気づいてたらうかうか俺の部屋になんて来れないだろ」 「脳から性欲が垂れ流しって、貴方、脳外科医のくせになんておかしなこと言うんです」 「いや、これほんと。きみや巽はそんなことないのかもしれないけど、俺は駄目だ。好きな相手が目の前にいたら夢中になっちまう」  葉月は総の眼鏡を取ってからもう一度ゆっくり口づけた。さすがにキスぐらいでじたばたしなくなった総もただじっと目を閉じて受け入れた。  なんだかんだ憎まれ口を叩きながらも総は葉月に感謝している。キスすらも他に経験がなかった総は、葉月が無茶苦茶しなかったから耐えられたのだ。もしも欲望のまま貪られていたら二度とセックスなんてできなかったかもしれないし、それどころか他人と少し触れることにすら恐怖を抱くようになっていたかもしれない。葉月は我慢できないとか手加減しないとか言いながら、いつもちゃんと気遣ってくれていたのだと総にだって分かっている。もしも葉月のような大男に本気で強姦されていたら無傷でいられるわけがない。総はいつも無傷だった。終わった後、身体全体がだるいような重いような感じはあったけれど、血痕があっちこっちに飛んでいるなんてことはなかった。商売柄、血飛沫びしゃびしゃに馴れてはいても、自分の血痕となるとまた話は別だ。それも理由がそういう出来事のせいとあってはとても正気でいられない。  総の眼鏡を棚に置いた葉月は、隠す物がなくなった総の顔を両手で挟んだ。 「……可愛いな」  ぽつりと呟く。 「最近の僕はバカの発言には取り合わないことにしています」 「…おまえに俺の頭ん中を見せてやりたいよ───どうしようもない欲求がさぁ……ぐるぐる渦巻いてて…ちょっと引くだろうよ」 「いつも引いてますから今更ですが」  相変わらず冷淡な総に葉月はまた苦笑した。 「きみのさぁ……この頭ん中も覗いてみたいよ。俺のことどう思ってんのかとか、少しぐらい気持ちいいのかとか、もし分かったらもっときみを可愛がってやれるんだけど。きみと付き合うようになって、俺がほとんどアメリカのせいで離れてる時間が長くて、そういう人恋しいみたいなのもあるのかもしれないけど、俺はきみをべたべたに甘やかしたいみたいなんだよなぁ……不思議だなぁ……若い頃はこんな性格じゃなかったぜ? どっちかというと、仕事と私とどっちなのって怒鳴られてふられるタイプだった。あの頃の子たちにもきみみたいにしてやればふられなかったのかなぁ……そういうこと、最近になって考えるようになった」  自分の顔を撫でている葉月の右の手首を総はきゅっと握った。 「…葉月さん……もし貴方が僕の脳を弄りたいというなら解剖しても構いませんよ……それで貴方は僕の気持ちを読めるのですか? 心は脳にあるのですか? 優秀な脳外科医である貴方が僕の脳を欲しいというなら差し上げます」  葉月のてのひらに総はちゅっと口づけた。 「……でも先生、僕は心は脳に無いと思います」 「じゃあどこにあるの?」  葉月は総の身体をうつ伏せにし、ズボンと下着を脱がせ、剥き出しになった尻の肉を左右に開いた。 「分かりません……でも心は確かに存在する……僕みたいなどうしようもない出自の人間にも有るだろうと思います。葉月さん……お願いです……そういうのやめて下さい…男のくせに気持ちが耐えられない───」  総の尻を覗き込もうとして葉月はやめた。嫌だというならしかたがない。本当はどうしようもなくむしゃぶりつきたくてたまらなかったが、自分がしたい事がイコール相手のして欲しいことではないというぐらい分かっている。  覗き込むのをやめた葉月は、総の中にそっと指を差し込んだ。指先が埋没するほんの一瞬だけ総は肩を尖らせたけれど、すぐに全身から力を抜いた。正確にはまだ力んでいたが、初めての頃と比べたら格段に上手く弛緩させている。本当はまだまだ躊躇いがあるだろうに、受け入れたいという気持ちが身体の拒絶を上回るのだろう。尻の中を相手の性器で掻き回されるなんて異常なことを受け入れるのだから、よほどその気が無いと普通では耐えられない。  そしてようやく葉月は納得する。心はちゃんとここにある、と。 「平気か?」  最初は二本だった指を三本に増やしながら葉月は訊ねた。 「……っきかな、で」  総がなにか口走った。聞き取れなかったけれど葉月はそのまま三本の指でぐいぐい開いた。閉じようとする総の身体と、開こうとする葉月の指がせめぎ合う。 「もういいかな?」  その呟きは総の耳に届かなかった。  うつ伏せた総の身体の下に枕を差し込んだ葉月は、まだ少し硬いままの総の中にゆっくり入った。  総の唇から言葉になっていない悲鳴がこぼれる。女性の嬌声とは全く違う、空気の塊が漏れるような、呻き声の語尾が跳ね上がるような、なんとも表現しがたい悲鳴だ。確かに総の声なのだが、普段の総のものとは全く違っていて、葉月の性欲を更にどばどばと垂れ流させるような威力がある。  体内を掻き回される代わりに脳内を掻き回されているようだと葉月は思う。 「総くん…総…」 「───っぃ…はぃ」  可哀相なぐらい細い声で返事があった。 「こっち向くか……まだ入れたばっかだが」 「どうして」 「顔を見たい───」 「嫌です」 「だからって後ろからがんがん掘られたら嫌だろ」  もちろん葉月はがんがん掘ったりはしないのだが、少し脅してやろうと思いそう言った。 「後ろからがんがんの方がいいです、だって」 「だって?」  やわやわと緩やかに抜き差ししながら葉月は訊いた。この程度の挿入でもまだ総は息も絶え絶えで、むちゃくちゃに動くなんて無理な相談だ。 「顔なんか……絶対に嫌です」 「恥ずかしい?」  首筋に口づけると、油断していたのか、総はまた肩をびくっと尖らせた。 「きみも恥ずかしいかもしれないけど、必死な俺の顔も見られるぜ? 俺なんかもっと恥ずかしいよ。三十六にもなってセックスに夢中なんてさ」  すると総は不自由な体勢のままわずかに葉月を振り向いて見た。 「……やることだけに夢中なのですか?」  訊かれ、少し考えた葉月は総の身体を包み込むように背後からぎゅっと抱きしめた。その反動でずるりと奥に入り込む。総が小さくあっと声を上げるので、それがまた葉月の性欲を刺激する。 「いや、違うな───セックスに夢中なんじゃなくて、俺はきみに夢中なんだ」  恥ずかしげもなくそういう恥ずかしいことが言える葉月の、なんでもないことのように伝えられる言葉の数々に総はいつだって救われる。きみはきみらしく自由に生きていいと言われたあの日も、見えない鎖でぎちぎちに縛られていた総の心は解放されたのだ。あんなにも長く苦しんだのが嘘のように解き放たれた総の心は、その後の人生をそれなりに楽しんだ。大学にも行って、友人もできて、なにより自分で望んで巽の補佐についた。全身全霊で義父に仕えるのはこの上ない喜びだった。  でも、それだけでは人生に華が無い。おそらく『華』はこの人と過ごすこういう時間や行為なのだろうと総はようやく気がついた。この人が与えてくれる底なしの優しさはもちろん、時には赦してくれと思うぐらいの羞恥心だって、おそらく大切なものなのだ。 「……葉月さん…」 「うん?」 「僕はたぶん身内とか友達とかそういうのを全て排除して残る僕の気持ちはおそらく貴方にしか向いてないと思ってます」 「…ああ」  葉月はまた両腕に力を込めて強く抱きしめた。 「先生…葉月さん───苦し…」  締め過ぎたらしい。  葉月は腕の力を抜き、またゆっくり時間をかけて抜き差しした。身体が拡がると総の理性が飛ぶことももう分かっている。理性を飛ばしてやってから向かい合えば、耐え難い羞恥心も少しは薄らぐだろう。 「先生……ねぇ、先生───脳の献体……僕は本気ですよ……同意書にサインします…だから僕の気持ちをその目で確認して下さい」  脳を捌いたところで心を取り出せるわけがない───そのぐらい分かっている筈なのに真面目にそう言う総の心が葉月にはたまらなかった。

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