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黄昏の空 2
こんなに休暇ばかり取るのは正式に秘書になってから初めてだと思いながら総は葉月の部屋の呼び鈴を鳴らした。合鍵は預かっているけれど、家主がいるので勝手に入るのは遠慮した。
しばらく待つと総の鼻先でドアが開いた。
「…だから自分で入ってくれって」
「そういうことはできませんよ」
身体は許すくせにまだその辺りの壁は壊せない総の複雑な性格を葉月は受け入れる。どんなこともハードルを下げておいてやり、自分から越えて来るのをただのんびり待っている。正しい対応なのかどうかは分からない。それを心がけるようになって一年以上になるが、総はまだ一つたりともハードルを越えて来ない。強引にハードルを越えたのはセックスだけだ。しかもそれは葉月の強引さに引きずられただけで、総自身の希望ではない。
自分から誘惑してくるようなこともあるんだろうかと葉月は思う。二十七になるまで誰にも身体を触らせなかったような男が、性欲丸出しで迫ってくることなんてあるんだろうか。
「一週間なんてあっというまですね。大学病院の方でも手術はされたのですか?」
「ああ」
「電話の電源も切れたままだし、そんなことだろうと思っていました」
「悪かった」
葉月は総を見て少し笑った。
空港に迎えにきてくれた総を言いくるめてセックスして、翌日は病院まで送ってもらった。暇を見つけて指輪を買うつもりだったのに、立て続けの手術でそんな時間は取れなかった。いつのまにか脳外科が専門になっていて、日本での貴重な一週間は、神経に巻きつく腫瘍を取ることばかりで過ぎてしまった。帰国している間の半分ぐらいは総を抱きしめて過ごすつもりだったのに。
「まぁいつものことなのでしょう」
「……」
「僕は手術している貴方が好きですよ───人のために命を削るように力を尽くす貴方を尊敬しています」
思いがけないことを言われ、葉月の顔から笑みが消えた。笑顔を保つことすらできなかったのだ。
「まだ時間がありますから、なにか食べてから空港まで送りますよ」
「……そこに…インスタントがいくらかある」
掠れた自分の声が葉月は不思議でならない。
「インスタント?」
「外で食わなくていいから、きみとここでゆっくりしたい───少しでいい…」
「外でも話はできますよ?」
首を傾げて総が言った。
「…だって外ではできないじゃないか」
「なんのことです?」
葉月は総の手首を掴み、リビングの奥のソファまで引きずっていった。そして、急展開に驚いたままの総を抱き上げ、そのままソファにどさっと座った。
「っわ」
総の唇から声が漏れる。こんなに軽々と扱えるほど自分の身体が軽くないことを総は知っている。身長は百八十五ぐらいある、体重だってそれなりに重い。
そういえばこの人はどのぐらいなんだろうと思う。この巨躯だ、百キロぐらいあっても驚かない。
「───なにもしない……しばらくこのまま…」
呟いて、足の間に座らせた総の身体を葉月はぎゅっと抱きしめた。
「…先生……どうしたんです?」
全身の骨が軋みそうだ思いながら総は訊ねた。
別れ難いのだろう。でも、それは総も同じだ。この男と遠く離れるのは辛い。月に一度か二度でいいから顔を見て話したい。アメリカなんかに行ってしまうと、顔を見たいという程度のことすら簡単ではなくなる。この男のキャリアにとって必要だと分かっているけれど、できれば行って欲しくない。たとえ日本にいたところでそう頻繁に会えるわけではないけれど、たった半日の休暇でもあれば会えるのだ、アメリカとは条件が違う。
「どうもしない……外だとこんなことできねぇだろ」
「葉月さん、あとどのぐらいアメリカに行くのです?」
「……二年半…か三年…」
「そのままアメリカに行きっぱなしってことはないんですよね?」
「無いと願うよ」
総の肩に顔を埋めて葉月は言った。
仮にアメリカに行きっぱなしになるようなら、葉月は仕事をやめてしまうつもりだ。アメリカで講師をしながら最先端医療を学び、その術式を一般には手術困難と言われる患者のために使うのは悪くないけれど、だからといってそのために自分の全てを犠牲にするのは負担が重い。しかも葉月はもともとそう情熱があるタイプではない。もし自分の技術をそっくり受け継いでくれる弟子でもいたら、すぐにも僻地か離島に移りたい。外科手術ができる医師を求めている診療所はいくらでもある。
総は葉月の頭をぐりぐり撫でた。
「どうしたんです、らしくない」
「……少し我慢してくれ」
葉月が言うと総は思わず笑ってしまった。
総はもう我慢なんかしていない。ぎゅっと抱きしめられるのが心地いいことを覚えたし、この男がしたいならそのぐらい構わない。
「アメリカでも手術しているのですか?」
「…ああ」
「講師なのに?」
「日本人の患者もよく来るんだ……彼らは日本語だと安心して手術に臨める───腕よりも気持ちの問題だ。手術の説明一つとっても、通訳を介してだと混乱や勘違いが起きる。不安になっても仕方がない───なんせ脳をいじるなんて命がけだ」
「ええ」
葉月は総の肩や首筋に唇を押し付け、何度か軽く歯を当てた。
「───っ…あ、貴方は、どこにいってもお仕事できるのですね」
「……」
「僕なんかは……人の役には立てません───貴方のように…人の命を救うことはできません……それこそ奪うことはあっても」
総が言うと葉月は強く肩を吸った。
「……やめ…は、葉月さん」
抱きしめるだけなら構わないけれど、こんな風に吸われたり舐められたりすると背筋がぞくぞくする。どうしようもなく思い出す。一週間前、迎えに行った日の夜のことを。
身体に巻きつく葉月の腕を総ははずし、総は強引に身体を離した。傍にいると、このままなし崩し的に貪られそうだった。
「駄目ですよ、葉月先生───駄目です。時間がありません。貴方は飛行機に乗ってアメリカに行くんです」
「───分かってるさ。でも、少しぐらいいいだろ。このぐらいさせてくれたって」
放っておくと全身をまさぐられそうな勢いなのに、このぐらいなんてよく言うと総は思う。こんな風に中途半端に触られて置いていかれる僕の方が辛いじゃないかとも。
葉月は小さく息を吐き、総の額と唇に軽くちゅっと口づけた。
「……総くん…」
「はい?」
「こないだ言ってたことね、本気か?」
「こないだ?」
「俺と結婚してくれるって」
葉月の言葉に総は目を丸くした。
「……貴方、本気だったんですか?」
「ああ」
「いや、え……それは……僕は巽さんの傍にいなくてよくなったら…別に構いませんけど……でも貴方だって結婚するでしょう?」
「だからきみとするんだろ」
「そうじゃなくて女性と」
「もういいよ、そんな仮定の話は。女だろうと男だろうと俺はもう他の奴はいらないんだ。きみが俺のものになるなら、結婚でも養子縁組でもする。法律が保証してくれるならな、きみが俺のものだってことを」
「……」
「養子縁組できるだろ。きみと巽は、法的には親子関係ではない。ただ単に巽がきみを育てただけだ。きみの籍が空いてるってこと、俺は知っている」
真剣な顔で言った葉月に腕を伸ばし、総はしっかり抱きしめた。
「───分かりましたよ」
「…総?」
「巽さんが佐伯を継いだらすぐに───そうなったら僕の仕事はなくなりますから」
「ああ」
「貴方がやりたいことに付き合ってもいいです。どこか無医村にでも行きたいのでしょう?」
「……ああ…」
しがみつく総の身体を葉月もぎゅっと抱きしめた。
しばらく抱き合っていた二人は、どちらからともなくそっと離れた。顔を見られたくない総は俯いたまま立ち上がり、部屋の電気を消して回った。出かける準備をしなければならないのだ。
しかたなく葉月も立ち上がり、トランクとバッグを玄関に運んだ。
「もう出られますか?」
風呂を確認し終わった総が声をかけると葉月は振り返って頷いた。
二人でこの部屋に戻ってくるのはいつのことになるんだろうと思いながら総は鍵の音を聞いた。その鍵を、葉月はそのまま総に渡した。
「きみ、ここに住めば?」
駐車場に向かいながら葉月が言った。
「……無理ですね…」
「じゃあ、俺がまた大学病院の勤務に戻ったら週末は泊まりに来いよ」
「…それもちょっと……それに我々の休暇は合いませんよ。貴方がいないのにここに来ても意味が無い……掃除なら暇を見つけてしておきますよ」
「分かった───頼むよ」
ヤクザ丸出しの総のベンツで空港に向かった。
もし、子供の頃、この人に言われるままこの人の養子になっていたら、今ごろ自分はなにをしていただろうと思う。そんなことを考えるようになったのはこの一年ぐらいだ。葉月とこういう関係になるまでは、巽の傍で佐伯組の一員でいることに疑問はなかった。もちろん今も疑問や後悔があるわけじゃない。ヤクザは嫌だとか、まともな生き方に憧れるとか、そんなことは全く無い。でも、今となっては、おそらくあの一点が人生の分岐点だったのだ。高校生の頃に巽から離れていたら、もしかしたら今、葉月と同じように医師として生きていたかもしれない。
いや、全て夢物語だ。医者になりたいわけじゃないし裏社会から抜け出したいわけでもない。今の自分に満足している。人に誇れるわけではないけれど、人生の恩人の傍で働けることは喜びだ。もし巽が施設に迎えにきてくれていなければ、犯罪者まっしぐらで、今ごろ刑務所の住人だっただろう。
「総くん、俺が砂原の息子ということだが…」
「ええ、分かっていますよ、誰にも言いません」
「いや、そうじゃなくて、別に誰に言ってもいいよ。ただ、それはきみにとって重要だった?」
「───いいえ、貴方が言うまで忘れていたぐらいどうでもいいことだったようです」
「そうか。それは良かった」
赤信号で止まった時、総は葉月を見つめて微笑んだ。
「なんです? 言い出したってことは、なにかあるんでしょう?」
「そうだな───ああ……俺の身体の傷な……親にやられたわけじゃないが、毎日毎日トレーニングだ訓練だってさせられて、その時についた。皮膚が裂けて血が噴き出して、このまま死ぬって何度も思ったな…」
車はまたゆっくり走り出し、すぐにトップスピードになる。総が前を見ているのと同じように、葉月も前だけを見ていた。
「……十才ぐらいで母親に返されて…その頃にはとっくにまともじゃなくて、俺はあっちこっちで喧嘩三昧だった。警察に補導されるたび、まだ小学生だったから驚かれたよ。警察や学校が母親を呼んでももちろん来ない。分かるだろう、ヤクザのメカケだ、まともな女じゃないからな───でも、母親を恨んじゃいない。あの女は俺を殴ることもなかったし、飢えさせることもなかったから。中学の頃には、町を歩くだけで殴り合いを始める始末で、俺は別に売らないんだが、身体が大きいから目立ってしまってすぐに吹っかけられた。全て買ったよ。だって、生きてても意味がないと思っていたからな。当時は巽とはすっかり縁が切れてて、俺が砂原を出された頃が最後だった。喧嘩ばかりでしょっちゅう警察に補導される俺は公立の中学校では難しくて、私立に途中編入した───そこで巽と再会した。というか、編入を勧めたのは巽の兄貴の宗政だったらしい。俺のオヤジに掛け合って、大学を出るまでの学費の出資を取り付けてくれたと聞いている。きみも宗政に世話になったこともあるだろう。俺もだ……佐伯宗政が俺をまともな道に導いてくれた。だからといって、すぐに更生できる筈もない。中学の終わりの頃かな───刃物で切られた。シャツをしぼったら血が滴るぐらい血が出て、これで死ぬんだなぁと思いながら倒れた。でも死ななかった。俺が目を覚ました時に初めて見たのは外科医の笑顔だった」
葉月はそこでようやく総を見た。
「総くん、その時だよ、俺が医者を目指したのは。丁寧に縫われた傷跡はみるみる目立たなくなり、それだけじゃなく、外科医は本当に優しかった。俺の身体の傷を見て可哀相だと言ってくれて、いい医者だったら傷痕は目立たなくできるんだと教えてくれた」
「……葉月さん……」
「これは巽にも言っていない。きみしか知らない」
ちょうど駐車場に到着した。できるだけ建物に近い場所に停車させた総は、葉月の手をぎゅっと握った。
「貴方が立派なお医者様になられた理由がよく分かりました───僕にとっての貴方や巽さんが、貴方にとってはお医者様だったのですね」
「そうだな……まぁ、特にその外科医だが」
「今も会われている?」
「俺が医者になった頃は指導医だったよ。すっかり中年になっていて、俺の胸元までしかない小柄な身体で、怒鳴るわ喚くわ……でも毎日が楽しかった」
「そうですか」
葉月は空いた手で総のもう一方の手を握った。
「行ってくる」
「……お気をつけて」
「もうここでいいよ。空港の中でなにか食べて買い物でもしてから発つ」
前に見送った時にはこんな気持ちにならなかったというのに、なぜか今は泣いてしまいそうだった。知らなかったことを聞いたせいかもしれない。いや、巽ですら知らないと言われたせいだろうか。総は顔を上げ、ぴくぴくと痙攣する目元を隠さず葉月を見つめた。
「…泣くな」
「泣いてません」
「うん、そうだな」
葉月は総の眼鏡をはずし、目尻に溜まった涙を指先でそっと拭った。
「また戻るよ───半年に一度ぐらいは戻ってくる」
言った葉月を誘うように総は目を閉じた。
ここが駐車場だということも、フルスモだからといって全く車内が見えないわけではないことも、総はちゃんと分かっていた。分かっていたけれど、どうしてもキスぐらいしてもらいたかった。
葉月は唇の片端を吊り上げるようにして笑った。心臓が潰れそうな思いをしながら総が誘っていることは簡単に想像できた。だから、人に見られるかもしれないよなどと言って、総の気持ちを無視するわけにはいかなかった。
葉月は誘われるまま身体を倒し、薄く開いた総の唇に口づけた。以前のように歯を食いしばることなく総は葉月の舌を受け入れた。それどころか、葉月がすることを真似るに、自分も舌を差し出した。拒絶されるばかりでもしかたがないと葉月は思っていたけれど、いつのまにか総はこんなにも変わっている。もちろんまだまだ激しいことはできないけれど、ゆっくり教えてやれば強情に拒むことはない。
いい大人が二人、セックスどころかキス一つするだけで互いに手探り状態だが、それでいいと葉月は思う。二十七まで他人と性的に触れ合うことのなかったヤクザと、この十年ぐらいは他人と抱き合うことを忘れていた医者は、人が聞けば珍しい生き物だと思うだろう。もちろんそれもどうでもいい、他人にどう思われようと葉月は構わない。
めちゃくちゃに蹂躙することなく葉月は離れた。これ以上の刺激は互いのためにならない。もう時間はほとんどないし、ここで別れたら最低でも半年は会えないのだから。
「じゃあね、元気で」
葉月は総のてのひらに眼鏡を返した。
「……先生」
「なに?」
「僕にとっては、もう貴方と巽さんは比べる相手ではありませんよ」
「それは俺に都合がいいようにとってもいいの?」
「お好きなように」
いつのまに眼鏡をかけたのか総はすっかり元通りで、冷淡な眼差しで葉月を見ていた。口調も声もどこか冷たくて、さっきまでの甘い雰囲気が嘘みたいだ。
葉月は車を下り、トランクから荷物を出し、一度だけ振り返ってから歩き出した。
次に会えるのがいつになるのか分からない。もし抗争でも起きたら死んでしまうかもしれない。なにか有った時には躊躇わず巽の盾になれるだろうか。巽の身代わりとして自分の命や身体を差し出せるだろうか。一年前までなら一切の迷いはなかったのに、今の総はこんなにも動揺してしまう。
遠ざかる背中を総はいつまでも見つめていた。届くはずのない足音が聞こえたような気がしたけれど、いつのまにか姿すら見えなくなっていた。
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