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黄昏の空

 総が執務室に入ると、電話中だった総の主人は、待ち構えていたように受話器を差し出した。 「葉月からだ、誘いなら行っておいで」  総の主人は短く言ってすぐに視線を書類に落とした。  廊下に出た総が、お久し振りですと電話の相手に言うと、話の途中だったのにと低い声が呟いた。その口調はどことなく残念そうで、総が出てきたことに不満があるようにも感じられた。とはいえ総は電話の相手に同情すらしてしまう。せっかく電話をかけてきた親友に対する我が主の冷たい仕打ちに、関係ない筈の総が申し訳ない気持ちになるのだ。  裏社会でかなりの大物の総の主人は、獣王連合という大組織の中でトップから数えて一桁の大幹部だ。正式には獣王連合直系傘下雀翔会の次期会長で、そのポストはほぼ世襲だが、実力がなければすぐにトップをすげ替えてきた組織の経緯を考えると、もう随分と長くその肩書きを名乗っているというだけで、本物なのだろうと外部の者にまで思わせる。若くして大幹部の座に就いた佐伯巽を、十才で引き取られた総は育ての親として慕っている。  電話を切った総が再び執務室に顔を出すと、巽は顔を上げ、いつも通り無表情で立つ総を見つめた。 「葉月の奴、戻ってくるんだな」 「そのようですね」 「もう完全に帰国ということか?」 「いいえ、また十日も経たずにアメリカに行くんじゃないでしょうか」 「そうか……俺は葉月が東京にいないことに半年も気づかなかった」  淋しそうに言った巽を見た総は気づかれないように小さく笑った。  アメリカに赴任する少し前に、巽に言っておくべきかなと総は葉月に訊ねられた。総は冷たく、言わなきゃあの人は気づきませんよと返した。どうやらそれは本当のことになったらしい。もっとも総は、まさか半年も気づかないなんて想像もしなかった。せいぜい一ヶ月も経ったら、電話が繋がらないんだがと巽が聞いてくると思っていた。イヤミの一つのつもりで、あなたがいないことに気づきやしないと言ったけれど、現実になってしまったことを考えると、葉月に悪いことをしたなと総の心は少し痛む。 「総、誘いだったんだろう? 行っておいで」 「ええ……まぁ……」 「明日の夜までに帰ってきてくれたらいい。もし緊急事態になったら呼び戻すかもしれないが」  今まで巽は一度だって葉月からの誘いを断れと言ったことはない。総が子供の頃から定期的に続いているこの誘いが、総にとってカタギの世界との唯一の接点だということを巽は知っている。  大人になった今、巽の気持ちが総にも分かる。ヤクザの家に生まれ、ヤクザになる以外に道がなかった巽にとっても、日下葉月という医者との交友関係は大切だったのだ。葉月が全くのカタギかというとおそらくそれは否だが、現在の葉月が素っ堅気というのは事実で、巽は巽なりに葉月を大事にしている。 「じゃあ…お言葉に甘えて……空港へ迎えに行って、土産話でも伺ってきます」 「ああ、楽しんでおいで」  そもそも総が十才で孤児になったのは雀翔会に責任がある。総の父親は雀翔会の構成員で、抗争の中で命を落とした。父親の葬儀を終えた総は施設に預けられ、死んだ魚のような瞳で日々を過ごしていた。そんな時に現れたのが佐伯巽だ。父親を死なせたことを雀翔会の幹部として詫び、一緒に来るかと訊ねてくれた。その時から佐伯巽は総の主人だ。他の誰も代わりにならない、唯一無二の主だ。  総は巽をじっと見つめた。  久しぶりに帰国した親友の出迎えを部下に任せることにした巽は、またすぐに仕事に戻ってしまった。こなしてもこなしても仕事は山積みで、巽の休暇は月に一日あるかないかだ。しかも、巽は間違いなく大ヤクザだが、最近の仕事はデスクワークばかりで、息が詰まりそうなほどの窮屈さを感じているに違いない。だから総もずっとそれに付き合ってきた。巽と違って総はもともとデスクワークが得意だったので苦ではなく、部屋にこもってただ黙々と書類を整理するのは楽しかった。いや、楽しいことが理由じゃない。巽がデスクワークに勤しむことを総が歓迎しているのにはわけがある。『死』が遠ざかるからだ。総はいつも心のどこかでこの人まで凶弾に倒れるんじゃないかと案じていたので、佐伯組の本邸の奥にこもってじっとしていてくれるだけでありがたかった。なんといっても佐伯組は、巽の異母兄の宗政を抗争で亡くしている。  腕に抱えていたファイルの束を棚にしまった総は、育ての親でもあり兄でもあり主人でもある男の横顔をじっと見つめ、お先に失礼しますと頭を下げてから執務室を出た。  自分の部屋に戻り、バタバタと荷物をまとめた。明日までに帰ってきたらいいということは、今夜は留守にしても構わないということだ。二十四時間三百六十五日ほぼ休み無しの巽に倣って総もほとんど休みを取らないけれど、こんな時だけは特別だ。  ヤクザ丸出しのベンツだとまたあの人が渋い顔をするだろうと思いながらエンジンをかけた。でも、あなたこそ、立っているだけでヤクザ丸出しですよとも思う。カタギの医者のくせに、日下葉月は一目見ただけでマズいと思わせるルックスの持ち主だ。  そういえば、子供の頃、巽に連れられて何度も葉月と食事をしたが、本物のヤクザの巽の方がよほど安全な人種に見えた。巽が善良な人間に見えるわけではなく、葉月の見た目が悪過ぎるのだ。今だって、初対面の相手に医者だと告げると驚かれる。そういう現場を総も何度か見ている。  それでも、たった十才で孤児になった総は、ヤクザとヤクザの親友によって救われた。親代わりの佐伯巽の庇護はもちろん、カタギの世界との唯一の接点だった日下葉月との交友によって、総は今日まで生かされてきたのだ。それをちゃんと分かっている。感謝しているし、愛している。  総が空港のロビーに着いたちょうどその頃、葉月が乗っているだろう便も到着していた。少し待つと、団体旅行客や家族連れ、ビジネスマン、若い女性同士なんかに続いて、長身で目立つ男も出てきた。周囲の男性と比べても頭一つ大きい。総もかなり長身だが、その男は総よりまだ少し背が高い。 「ただいま」  周囲はざわざわと騒がしいというのに、懐かしい低い声だけを総の耳は拾った。 「───お久しぶりですね、先生」  全身が懐かしさに震えているくせに、総の声は低く冷たい。瞳まで潤んでいるけれど、銀縁メガネが全ての感情を隠してしまう。 「きみが来てくれてるなんて予想外だ、総くん───会いたかったよ」  冷徹な総とは対照的に、葉月は素直で情熱的だ。今だってすぐにも抱きしめたいという顔で総を見ている。 「巽さんの指示でお迎えに上がりました。ご自宅までお送りしますよ」  葉月の左手からボストンバッグを奪うようにとった総は、さっさと前を歩き始めた。  相変わらずだなぁと、すっと背筋が伸びた総の後ろ姿を見ながら葉月の口元は思わず弛む。もしここが空港という公共の場じゃなければ、暴れる体を無理に引き寄せて抱きしめていただろう。きみに愛されたくなったと言ってから、葉月は総に対して常に誠実だ。冷たい態度を取る総を底なしに甘やかした。葉月にとっては親友の養子で、総にとっては義父の親友という、そう親しい間柄ではなかった筈なのに、葉月が恋愛を意識した瞬間、二人の関係は変わってしまった。 「総くん、待って。俺は荷物が多いんだ」  実際には小さなトランク一つだけなので多いわけではないが、そう言えば総が立ち止まることが葉月には分かっていた。  思惑通り総の足はぴたりと止まり、まるでスローモーションのようにゆっくり振り返った。 「……しようがないですね…」  思わず葉月は息をのむ。隙のない総の所作の全てが美しく見えて、よく知った相手の筈なのに、知らない男を見るように思えたからだ。 「まあ、今日は急いでいないからいいでしょう」  何歩か戻ってきた総は葉月と並んで歩き出した。  ぱっと見ただけだと葉月の方がかなり背が高く見えるが、こうして並ぶとそんなに身長は変わらない。ほんの少し総の方が小さいけれど、世間の基準では二人ともかなり長身だ。差があるのは身体の厚みだ。総は痩せ過ぎてはいないけれど痩身で、葉月は巨躯と言ってもいい。まるでスポーツ選手のようで、医者にしておくには勿体無い身体だ。 「半年ぶりの日本はどうですか?」  なにから話せばいいのか分からず、当たり障りのないことを総は尋ねた。 「周りじゅう日本語なのがいい。安心する」 「あなた、わりと英語も話せるくせに」 「きみほどじゃない」  葉月は小さく笑った。  不幸な生い立ちのせいで変化を嫌う総との関係を、アメリカに赴任する前に力技で変えたのは葉月だ。変えたくせに、総を置いてアメリカの大学に講師として赴任してしまった。  こんなことなら変えずに行ってくれたら良かったのにと総は何度か恨めしく思った。知らなければ平気だった筈だ。二十七になるまで、他人と抱き合ったりしなくても、何かが足りないなんて感じたことすらなかった。他人の体温を懐かしく思うなんて考えたこともなかった。 「うんと美味い和食が食いたい───途中でどこかに寄ってくれ」 「希望の店はありますか?」 「美味いならいいよ。とにかく本物の和食が食いたい」  アメリカでよほど酷い食生活を送ってきたらしい葉月の、心の叫びにも似たリクエストに、いつも無表情の総は珍しく微笑んだ。  駐車場でヤクザ丸出しの車を見た葉月は、総の予想通りひどく眉を顰め、俺の車で来てくれてもよかったのにと呟いた。総は総で、真っ赤のアルファロメオなんて恥ずかしくて乗れませんと思ったけれど、それを口にするのはやめておいた。  アメリカに行っている間、自宅マンションと車の管理を総は葉月から任されていて、月に二回は通ってメンテナンスをしているのだ。今回のような急な帰国でも、部屋に入った瞬間から寛げるように、部屋はいつも綺麗にしてある。葉月のためにというのはもちろんだが、疲れた時の避難場所としてこの半年は使っていた。  空港から葉月のマンションの間にある、巽と何度か行ったことがある店に総は向かった。もしかしたら葉月は巽と行っているかもしれないけれど、総は葉月と行ったことはない。  子供の頃、巽から葉月を悪友だと紹介され、年が離れた『友人』として付き合うようになり、葉月は季節ごとに総を誘った。春に、夏に、秋に、冬に、年に四回、一度だって忘れられることなく、総をカタギの世界に連れ出してくれた。その外見とは裏腹に、葉月は誠実な男だった。急激な変化を怯える子供のために、いつも同じペースを守り、ろくでなしの実父のせいで極端に少なかった知識や経験を増やしてくれた。 「ここは初めてだな」  狭いけれど落ち着いた雰囲気の個室に案内され、久し振りの畳だと笑った葉月が呟いた。 「巽さんと来てらっしゃるかと思いました」 「んー…どうかな……きみは知らないかもしれんが、俺たちはそう頻繁に会っているわけじゃない。この七、八年ぐらいは、きみと会う方がずっと多かったよ」 「僕と頻繁に会うようになったのは、貴方がアメリカに行く前の一年間だけでしょう。それまでは年に四回だったじゃないですか」 「だから、年に四回も奴とは会ってないってことだ」 「……」 「要するに、俺にとって、きみの方がとっくに特別になってたってことだな。無意識だったんだろうが」  のんびり話していたせいか、もう料理がテーブルに並ぶ。お話のお邪魔をして申し訳ございませんと給仕の女性が下がると、ふいに葉月は、テーブルの上の総の右手に自分の手を重ねた。 「…なんです?」 「少し触らせてくれ」 「構いませんけど……変な人ですね」  手の甲を撫でていた指が離れると、今度は総の指を小指から順に握っていった。 「…変わりないの?」 「ええ」 「きみたちの世界も変わりないの?」 「ええ」 「きみが大きな仕事に飛び込んだりしてなくて安心したよ───帰国して真っ先に向かうのが墓かもしれないっていう覚悟はしていたから」 「まぁ、そういうこともあるでしょうね。次の帰国の時も覚悟を決めてどうぞ」  すると葉月は空いた右手で口元を押さえてくっくっと笑った。 「変わんねぇなぁ……どうしてそんなに頑ななんだ、きみは。俺はきみたちの世界をまんざら知らないわけじゃないから抵抗なく受け入れられるが、もし一般の人にそう言ったら逃げられるだろうな」 「巽さんと旧い仲だからご存知なのでしょう?」  すると葉月は目を丸くし、きょとんと不思議そうにしている総を見つめた。 「ああ、もしかして、話していなかった? 俺の実の父親っての、獣王連の砂原会長なんだ」  なんでもないことのようにさらっと葉月が言った。  何秒間か考えた総は、テーブルに突っ伏すように前に倒れた。 「総くん?」 「……」 「総?」 「あなた…今まで…僕を騙してたんですか」 「騙しちゃいないよ。言葉が足りないことは嘘つきじゃない」 「貴方が巽さんと親友だなんて変だと思っていたんですよ。どこで接点があるんだって……学校ぐらいしか無いと思っていましたけど、でも幼馴染みだとも言っていたし───要はあなたも本物だったんですね」 「いや、でも、砂原の家にいたのは十才かそのぐらいまでで、あそこに男が生まれたから、俺はメカケの母親の元に返されたんだ。だから砂原の跡目はおまえと同じぐらいの年だろ?」 「……」 「日下は母親の名前だよ」 「どうしてあなたはそういう大事なことを言ってくれないんです」 「訊かなかっただろ」 「確かに訊きませんでしたけど、詮索じみたことをするのは嫌なんです」  総はがばっと身体を起こして葉月を睨んだ。 「───悪かったよ……だから、そんな泣きそうな顔をするな。メガネで隠しきれてないよ」  はっとしたように総は指先でメガネを上げた。  言い争いはお互いに本意ではないので、二人は食事に気持ちを移した。  だいたい、まだまだ葉月に対して遠慮がある総が、対等にやりあうには時間が必要だ。あと何年か経って、遠慮がなくなったら、ようやく本気で喧嘩ができるかもしれない。九つも年が離れているというだけじゃなく、越えられない何かが二人の間にはまだ存在している。総がそれを越えてくるまで葉月は気長に待つつもりだが、遠距離もここまで遠距離だと、誘導してやることもなかなか難しい。いつまで経っても硬い態度と表情で、本気で甘えたり怒ったりせず、セックスの最中でさえ理性を手放さないように必死になっている総を見ると、葉月はたまらない気持ちになる。親代わりだなんて言っていたくせに、巽の奴はこの子のなにを見ていたんだと腹立たしくなる。それが的外れな怒りだと分かってはいても、もっと上手く育ててやって欲しかった。  それでも総は言うだろう、巽さんのおかげで僕は死なずにすみましたと。実際、巽が引き取った頃の総の状態は酷かった。十才だというのにほとんど学校に行ったことがなく、ひらがなすらろくに書けなかった。実父から受けた虐待の痕も痛々しく、自分の狭い世界から出て行くことを極端に怖がった。総の実父の葬儀が終わり、子供のことがどうしても気になった巽が行方を探さなければ、今頃どうなっていたか分からない。会いに行った施設で、死んだ魚のような瞳で虚ろに自分を見た子供を残してこれなかったと巽は葉月に言った。できればおまえもあの子に関わってやって欲しいと遠回しに頼み、葉月は親友のその願いを受け入れた。当時、いくら経済的に不安は無いといっても、巽も葉月も十九才の学生で、問題を抱えた子供を一人で引き取るのは荷が重かった。医学部だった葉月にはあまり時間は無かったけれど、季節ごとに総を誘って佐伯の屋敷から連れ出した。今となっては、総がヤクザにどっぷり浸からずに済んだのは葉月のおかげだ。それを総は未だに言う。あの経験が僕を育ててくれましたと葉月に言う。  半年振りの美味い和食に満足した葉月は、半年前に抱いた総をどうやって誘おうかと考え始めた。正攻法で落とせる相手じゃないということは嫌というほど分かっている。同情を引くとか、何かと引き換えにするとか、ワンクッション置いた方が上手くいく。我ながら姑息だなぁと思いながら、葉月は思案を巡らせた。  ヤクザ丸出しの総のベンツは真っ直ぐ葉月のマンションに向かっている。  総は車に凝るタイプではないけれど、かなり手が入っているのが葉月にも分かる。ホイルは真っ黒で、タイヤも高価なのだろう、振動がほとんど気にならない。エンジンはよく分らないが、内装も革張りだ。もしかしたら内装は標準仕様なのかもしれないが、ベンツを新車で買ったことがない葉月には判断できない。かっちりしたドイツ車は葉月には向いていない。情熱的なイタリア車に乗るようになって、それは確信に変わった。 「総くん、このままホテルにやってくれないか」  あと十五分も走れば自宅に着いてしまう所まで来て葉月が言った。 「なぜです? いつ戻られてもいいようにマンションの部屋はちゃんと手入れしていますよ」 「それは…そうだろうけど…」 「貴方、その為に僕に任せていったんでしょう?」 「あー…んー…そうなんだけど…ナゼかな───家もいいけど、ホテルの方がいいからかな」  ちょうど信号で止まった総は、不思議そうに葉月を見つめた。 「なにがいいんです?」  半年前、渡米の数日前に寝たことなんか忘れているんじゃないかというほどの冷淡さで総は言う。いつものことなのでいちいちショックを受けたりしないけれど、二人っきりなのだからもう少し甘い態度を取ってくれてもいいんじゃないかとも思う。総は極端に甘えるのが下手だ。頼るのも下手だし、カワイイ態度を取ることもできない。それが分かっているので葉月は無理にとは望まないけれど、甘やかしたいし可愛がってやりたい自分の性格のせいでたまにジレンマを感じてしまう。  車はまた走り出し、このままだと自宅に直行だなと葉月が思った時、急に総がユーターンした。 「贅沢言わないで下さいよ」  ユーターンしてから数百メートル走った時に総が言った。目の前に、葉月も何度か泊まったことがある、中の上ぐらいのホテルがあった。 「言わない言わない」  車はすぐにホテルの正面で止まった。 「じゃあ確かに送りましたよ。トランクの荷物、お忘れなく」  どうやらおいていかれるらしいことに気づき、葉月は慌てて総の右手を握った。 「きみも泊まっていけよ」 「……なぜ…」 「だって久しぶりに会ったんだぜ? 半年だ。半年も会えなかった」 「貴方がアメリカに行ったせいでしょう。それを僕のせいみたいに言われても困ります」 「───ああ、そうだ、俺が悪い。俺がきみを置いてアメリカに行ったんだ。だから、頼むよ、今夜は一緒にいて欲しい」  葉月が言うと、総は少し考え、握られた右手をハンドルに戻した。 「分りました、いいですよ。駐車場に入れてきますから先にチェックインを済ませておいて下さい。ロビーで会いましょう」 「絶対だぞ。そのまま帰ったりするなよ」 「───ええ」  ボストンバッグだけ持った葉月がホテルに入っていくと、ハンドルを握りしめている総の両手は小刻みにぶるぶる震え始めた。 「……気づかれてなかったら…いい……」  思わずひとり言が漏れる。  いくら総が恋愛初心者でも、さすがに今のは誘われているということぐらい分かっていた。それどころか、巽に迎えに行ってこいと言われた時から、そういうことを求められるのだろうという想像ぐらいはしていた。空港に向かう前に風呂に入ったし、失敗しないようにそれなりに準備もした。葉月がアメリカに行く前に何度か抱かれたので、男同士でやるには備えなければならないことも学習していた。でも、できれば、避けられるものなら避けたいという気持ちがないわけでもない。いや、総自身にも今の自分がなにを望んでいるのか分かっていないのだ。抱かれたいのか、抱かれたくないのか、会いたいのか、会いたくないのか。会えばそういうことになるなら会いたくないし、無理に求められないのなら会いたいし話したい。  総はどうにか車を発進させ駐車場に向かった。平日の夕方のせいか、思っていたより空いていて、ホテル通用口に近い場所に駐車した。  半年前は何度か続けて抱かれたので、なんとなく恐怖心もなかった。無いというか、勢いに飲み込まれているうちに身を任せられた。でも、今は、もう半年もしていないし、その半年の間に無駄に妄想が広がってしまっている。いや、どれも微妙に違う気がする。半年も使っていなかった自分の身体が使えるのかどうか分らないのが怖かったし、葉月がアメリカで別の相手を見つけているんじゃないかと考えてしまう自分の考え方が嫌で嫌でしかたがなかった。  最低限の着替えを入れた小さなバッグを持って総はロビーに向かった。いろいろ考えていても解決しない。最低限とはいえ着替えを持ってきたということは、少なからず総も泊まるつもりだったということだ。 「総くん、こっちだ」  ロビーの奥で葉月が手を上げて合図をくれた。  総がゆっくり近づくと、葉月はすぐに立ち上がってエレベーターに向かった。 「そういえば、アメリカに行く前にきみと出かけただろう。あの時、高速のサービスエリアで助けた人ね、無事だったらしいよ」  休憩していたサービスエリアで女性が車にはねられ、医療従事者の義務として葉月はその救急処置にあたったのだ。女性は救急車で付近の病院に搬送されたが、搬送先のトラブルと容態の急変で医師の手が足りないと連絡が入り、そのまま葉月も病院に向かった。女性の夫は、手術室から出てきた通りすがっただけの医師に、何度も何度も頭を下げた。それを見て総は心が満たされた。旅行は台無しになったけれど、自分のツレが人の命を救ったことが誇らしくてならなかった。  半年前のその出来事を、総はもちろん鮮明に覚えている。とても気持ちのいいものとして。 「後遺症もなく?」 「俺が執刀したんだ、愚問だよ」  エレベーターに乗り込み、十二階のボタンを押しながら葉月は笑った。 「確かに───あなたは名医です」  部屋は、廊下の突き当たりだった。てっきり隣り同士で二部屋だと思っていたら、葉月はツインで一部屋だけ取っていた。 「どうして二部屋にしてくれないんです」  部屋に入りながら文句を言った総を、葉月はいきなり抱きしめた。 「なんです、いったい」 「ちょっと…しばらくじっとして」 「……葉月さ…」 「きみがホテルを取って待っててくれるなんて思ってないよ。俺は帰国してきみを抱きたい気持ちはあるけど、もしきみが無理だというならやめるつもりだったし、今だってこうさせてくれるだけで十分だ」  言いながら葉月は総の首筋に顔を埋めた。 「……僕は…」 「うん? なに?」 「僕は、まさか貴方の気持ちが、半年経っても変わらないなんて…」 「変わってないよ」 「……お願いです……理解がついていかない───だからゆっくり……」  語尾の方は声になっていなかった。  自分もある程度はその気だったとか、気が変わっていなくて嬉しいとか、自分も同じように気持ちは変わっていないとか、とてもじゃないけれど口にはできないけれど、そういう色々な感情がいきなり湧き上がってきて、総の全身は小刻みにガタガタ震え始めた。両腕に伝わる不自然な振動に気づいた葉月は、総の身体をゆっくり離した。 「またなにか悩んでいるの?」 「……なにも…悩んでなんか…」 「じゃあ、俺がなにか言って追い詰めた?」 「貴方はなにも悪くありませんよ。僕が…少し……神経質になっているのかもしれません。よく考えたら、貴方と三ヶ月以上会わずにいたことがありませんから。いつも季節ごとに会って、話して……どんなに忙しくても貴方は僕に会いに来てくれた。だから、半年ぶりに会うなんて、どんな顔すればいいのか…分らなくて…」  総はたまに不安定な部分を見せる。今もだ。まるで小さな子供のように怯え、悩み、葉月に対して救いを求めている。 「笑えばいいんじゃないの?」  にっと笑って葉月が言った。 「……」 「きみはね、たまに笑うととてもカワイイよ」 「…あなたはまるで凶悪犯のようです」 「そうかな? まぁ、小児科は、子供に怯えられるから諦めたが」  すると総はようやく小さく微笑んだ。  足元に落としていた荷物を拾った葉月は、クローゼットの横にある台に置き、上着とワイシャツを脱いでハンガーにかけた。 「シャワー浴びてくる」 「……ええ…」  葉月がバスルームに消えると、緊張から解き放たれた総はベッドにうつ伏せに倒れた。  なにもかもお見通しなのだ。総が怯えていることはもちろん、半年ぶりで身体が使えるかどうか不安に思っているということまで。葉月が確認してこないので助かっているけれど、もしどうなんだと訊ねられたらとてもじゃないけれど返事なんかできない。  もしもう少し自分に恋愛経験があれば、もう少し葉月を楽しませることもできたかもしれないのに、少なくとも今は全く楽しませることはできていない。いつも影でフォローしてくれて、何度かしたセックスだって与えられるばかりだった。  落ち込むのはこういう時だ。こういう時以外にも落ち込むけれど、葉月と付き合うことになってからはこういう時に嫌になる。なにもできない自分が嫌いだった。与えられるばかりなんて、葉月に悪くてしかたがない。 「…総くん」  いつのまに出てきたのか、葉月は隣のベッドに座っているらしい。 「……ああ…すみませ…」 「少し眠っていた? 疲れ過ぎだ、過労死させるなって巽の奴に言ってやろう」  真剣に葉月が言うものだから、可笑しくなって総はふふっと笑った。 「あのね、きみはもっと笑えばいい。あんなほとんど笑わない巽みたいなのに育てられて、無理な話かもしれないけど、笑うと気持ちが明るくなる。笑ってる人を見ると心が優しくなる。なにもいいことがなければ窓から空を見て、この時間なら夕焼けとか、鳥が飛んでるとか、そういうのを見て笑ってみる───ほら、身体を起こして窓を見て」  総がゆらりと身体を起こすと、自分を見ている葉月と目が合った。 「……」 「どうしてそんな顔するの」 「だって…そのバスローブ、丈が足りてなくて変です」 「俺が足りないならきみも同じように足りないだろう」 「そうですね」  総はまた小さくふふっと笑った。 「今から盛大なひとり言を言うから、できれば口を挟まずに聞いてくれるかい?」 「ええ……聞きますけど…」  総が言うと、葉月は大仰に頷いた。 「俺はアメリカに赴任してすぐ、きみを思い出して自分で抜いた。眠るときみが夢に出てきた。裸で、俺を誘うんだ。俺がもうできないって言っても、じゃあ触るだけって誘惑してきて、もちろん俺のユルい理性はすぐに吹き飛んできみに触れた。きみの身体は美味だ───夢のせいか味があって、体力だけはある俺はそのうちまた回復して、きみの中に突っ込む……寸前で目が覚めた。何度もあったよ───半年の間に、そんな夢は五回も六回も見た。目が覚めて薄暗いと、明け方なのか夕暮れなのか分らなくて、頼まれて夜勤もやってたせいかな、黄昏時に目が覚めた時なんかは、こんな遠い国で一人でなにやってんだろうって虚しくなった。確かに昔は巽のことを好きだった筈なのに、思い出すのはきみのことばかりで、いつもきみは裸で夢に現れた。夢の中でもきみは理性的で、乱暴に抱くと怖がって、優しくしてやると気持ち悪いと文句を言った。俺はまだきみが達する瞬間の顔を見ていないが、想像と妄想だけがどんどん成長して、夢の中のきみはもう一人のきみみたいに俺の中に存在している」 「……それで? 僕に嫉妬でもしろってことですか?」 「いや、違う。遠い国でそれだけ俺が参っていたということだ。きみのことを思い出して心を落ち着けないと眠れなかったし、きみとの思い出がなければ仕事も上手くやれなかっただろう」 「……おっしゃる意味が分りかねますが?」 「総くん、きみが好きだ」  ふいに真剣な顔で葉月が言った。 「きみの存在があったからアメリカでもやれたし、この後もやれると思う」 「……」 「総くん、好きだよ」 「……新しい…思い出があれば…まだアメリカで続けられる…?」  総がぽつりと呟いた。  自分の予想よりずっと簡単にその気になってくれたらしい総の手を葉月はぎゅっと握りしめた。 「…臆病な俺のために協力してくれるかな?」  協力などという目新しい発言に、総は思わずこくっと頷いた。すると葉月は嬉しそうに笑い、腕にぐっと力を込め、自分のベッドに総の身体を引っ張りこんだ。 「───っわ…」 「…本物だ───いいな…触れると弾力があって、心臓の音が聞こえる」 「……そんなもの…聞かないで下さい…」 「俺のも聞いてみろよ、倍ぐらいの早さになってるぜ」  背中に回された両腕が総の全身をまさぐり始めるのにそう時間はかからなかった。  ここまできたら総の覚悟も決まる。さっきまでのようにどうにか逃れようなんて気は起こらず、むしろ半年も会えなかった相手との距離を縮めたくなっていた。 「……ねぇ、葉月さん…」 「うん?」  総の首筋に唇を押し付けながら葉月が返した。 「僕…も……あなた…を…思い出して……あんなことしてって───どうしてくれるんだって…恨めしくてならなかったです…」  要するに、全身が疼いてたまらなかったと白状しているようなものだ。  葉月はその意味を追及することなく、久しぶりの今夜は優しく優しく拡いてやろうと思いながら総の身体を抱き寄せた。  ベッドに引っ張り込んだ総を押さえつけ、葉月は上からじっと見つめた。  玲瓏な総の瞳はいつも通りで、まるでなにも感じていないかのようにすら見える。たとえその心の内では色々なことが渦巻いていたとしても、そのメッセージを正しく受け取るのは至難の業だ。総の秘めた本心を知る者はいない。喜んでいるとか楽しんでいるというプラス要素はもちろん、悲しんでいるとか怯えているとか怒っているといったマイナス要素ですら表には全く出ない。総の生い立ちにその要因があるのは明白だが、今の仕事がそうさせているというのも嘘ではない。 「───総くん」  総の表情のほとんどを隠してしまう銀縁メガネを取り、ベッドサイドの棚に置いたその手で、葉月は総の前髪を掻き上げた。表情は全く変わらないくせに、たったそれだけのことで総はぴくっと身体を震わせた。ほんの少しだ。ほんの少し身体が動いただけだ。それでも、意味を持って触れられることにまだ抵抗がある総のたったこれだけの反応が、恋人と半年も会えなかった葉月を満足させる。  剥き出しにした総の額に葉月はちゅっと口づけた。 「……俺がアメリカに行ってた間、きみは本当に誰にも触らせなかったみたいだな」  もちろん、総に触れてくるような命知らずはそうそういない。いくら総がただの秘書とはいっても、雀翔会の幹部に匹敵する地位にあることは明白だ。巽は総を表に出すことはあまり無いけれど、雀翔会の関係者で総を知らない奴はモグリだ。 「僕なんかに誰も興味を持ちませんよ」 「どうして? きみは魅力的だよ」 「魅力的ではありませんし、僕になにかあったら巽さんがなにをするか分からないとみんな思っているんでしょう。実際には巽さんは僕になにかあったところで動くような人ではありませんが」 「…どうして? きみになにかあったら、奴なら倍返しにしそうだと思うが」 「組でのあの人は冷酷ですよ」 「可愛がっていた仔猫ちゃんの時にはいやに逆上していたじゃないか。弁護士先生の時にも感情的になっていたし」  速水勝馬と数馬のことだ。最終的に死なせてしまった勝馬のことを巽が今も悔いていることを総はもちろん、長い付き合いの葉月も知っている。総も葉月も、速水兄弟の出現で巽を諦めることになったが、今はもうそれをどうこう思っているわけじゃない。 「それは…あの二人がカタギだからですよ───僕は巽さんと同じ世界の人間で…」  総が話している途中だというのに葉月は口づけた。口づけながら、相変わらずきっちり全身を覆っている服も脱がせる。  初めの頃は服を脱がせるだけでも過去のトラウマと闘っているらしく大騒動だったというのに、今はわりとすんなり誘導に従ってくれる。おそらく肌を見せるのは葉月の前でだけだろうけれど、裸を見せられる相手がいるだけでも、全身を埋め尽くすような傷痕がある総にとっては大事なことだ。 「おそらく巽はきみのことを信頼しているんだろう。自分で火の粉を払えるって」 「……それなら…いいのですが…」  アメリカで総の夢を見たというのは本当だ。夢の中で総を犯したのも本当だし、泣かせたのも喘がせたのも本当だ。本物の総なら絶対に見せないようなあられもない姿を夢で見て、堪らなくなって自分で抜いたことも何度かある。  葉月は総に可愛さや殊勝さやテクニックなんかは期待していないし、甘い態度で誘ってきたり声を上げたりすることもないと思っている。総と付き合っていても、普通の人が恋人に求めるものは手に入らない。平穏で穏やかな毎日すら約束できないのだから。そんな相手と付き合うのは無意味と言われるかもしれないけれど、硬い態度で馴れない身体を与えるだけでも、総にとっては凄い決意だと分かっているので葉月は満足だ。誰にも触らせたことが無い身体を強引に抱いた夜を葉月は忘れられずにいる。ガチガチに縮こまった身体を開かせた時の感動をはっきり覚えている。 「……キスのやりかた、忘れたか?」  歯を食いしばったまま舌の侵入を拒む総に葉月は訊ねた。 「…やり…か……そんなもの…今まで一度だって…」  意識してキスしたことはないと言いたげだ。 「少し口を開いてくれないか」  言うと、総はゆっくり唇を開いた。隙間から覗く歯が葉月の性欲を煽る。変な趣味はなかった筈なのに、そんなものにまで自分の欲が刺激されることに自分で驚いてしまうけれど、今は欲求に忠実になることに決めた。  再び葉月が口づけると、さっきまでとは違って、総は薄く口を開いて受け入れた。  思い返してみると、総が抵抗らしい抵抗をしたことはない。初めて抱いた時だって、確かに強引ではあったけれど、ぎゃーぎゃー喚いたり暴れたり蹴ってきたりはしなかった。それどころか、おとなしく身を委ね、開かれることにも耐え、週に一度のペースで求められる未知の行為を受け入れてくれた。 「……総くん…きみ……半年の間どうしていた?」 「…どう…とは…?」  唇の先と先がかすかに触れ合ったまま呟くように会話する。 「俺は自分で抜いていたが」 「また貴方はそんなことどうでも……っわ…なにす…」  いきなりくるりと身体を裏返されたせいで総は抗議したけれど、その抗議もすぐにやめてしまった。うつ伏せた状態で次に起きるだろうことを予想し、覚悟でも決めているのか、陽に晒されることのない白い肩がわずかに震えている。 「自分で尻でもいじってたりして───」  葉月が言うと、今までになくはっきり総の身体は震えた。  適当に言ったことなのにもしかして心当たりでもあるのかと邪推しながら、葉月は総の尻の肉をゆっくり左右に開いた。そして、他の部分と比べると色づいている中心に、コンドームをつけた指をゆっくり差し込んだ。 「───っふ」  息を飲み込むような音が聞こえてくる。逃げ出したくなるのを必死で我慢しているのだろう。そういうことを分かっていてなお葉月には容赦してやる気はない。耐えているのは嫌々ではないと分かっているからだ。もし本気で拒むつもりなら、総は葉月を叩きのめすだろう。その程度の訓練は巽がつけている筈だ。いや、もしかしたら、亡き宗政が総にも稽古をつけていたかもしれない。 「…ああ、でも、少しは自分でほぐして来たのか?」 「───違いま…してな───」 「それにしては少し……ああ…なるほど───そういうことか」  葉月は指を抜き差ししながら口元だけでにやっと笑った。 「…は、づきさ───」 「ぅん?」 「お願いですから……あまり…」  全身の傷痕を人目に晒しているだけでも耐え難いものがあるらしいのに、それだけでなく、普段は見せることのない場所を拡げられ覗き込まれているせいで、総の身体は小刻みに震えている。その震えは次第に大きくなり今にも気絶するんじゃないかというほどになってしまった。  葉月は左手を伸ばして電気を消した。夕方なので、まだ真っ暗にはならないが、それでもかなり視界が制限される。それが分かったのだろう、総の身体の震えも少し収まり、差し込んだままの葉月の指の揺れも小さくなった。 「おまえ……中…出してきたのか?」  身体を倒し、耳元でそう訊ねた。 「……わざわざ…てわけじゃな…で、すけど…」  途切れ途切れでそう返ってきた。 「そうか」  ゴムをつけた人差し指と中指に、薬指を揃えて、三本をゆっくり差し込んでやる。 「…っぁ」  総は両手で口を塞いでいたけれど、押さえ切れなかった悲鳴が葉月の耳にも届いた。 「これだけ拡がるってことは、きみの気持ちか───きみもしたいと思っている?」  返事を期待せず聞いてみる。言いながら、差し込んだ指をぐいぐい左右に拡げると、半年ぶりとは思えないほど柔軟にほぐれ、今すぐにも欲しいと総の気持ちを代弁しているようにも思える。  ゆっくり指を抜いた葉月は、いつのまにか痛いほど勃起した自身にゴムをつけながら、一時的に解放されてぐったりしている総の身体を見た。薄暗いせいではっきり見えるわけじゃない。でも、一週間後にはアメリカに戻る自分のために、この姿をよく覚えておこうと思う。人目に晒すことなく三十近くまで生きてきたヤクザの、白い滑らかな身体を。 「入れるよ」  言いながら、葉月はゆっくり先だけ入れた。 「ふあ」  言葉になっていない妙な声だけが聞こえてきた。 「……っっぁ…はづ…息ができな……」  指だけなら柔軟に受け入れられても、さすがに本番はそう簡単にはいかないらしい。 「ああ…すっかり…バージンに戻っちまってるからな」 「……戻るわけないで、す…」  身体は小娘レベルのくせに、文句は一人前なのが可笑しくて、葉月は総に気づかれないように小さく笑った。 「総くん、少しぐらい強引に入れても大丈夫そう?」  無理だとは絶対に言わないと分かっていてこういう聞き方をする俺はズルイなぁと葉月は思う。意地っ張りの総が、ここまで来てできないなんて言う筈がない。もちろん葉月は気づいている。総の躊躇いも怯えも逃げ出したいほどの羞恥心も分かっているので、試していると責められたら返す言葉がない。出会ったばかりの二人なら探り探りの恋愛になるだろうけれど、自分たちにはそういう初々しさは無い。互いの性格や趣味は知り尽くしているし、普通のデートでするようなことは十七年かけて全てしてきた。それこそ、していなかったのは、キスとセックスぐらいだ。  先だけを入れて様子を伺っていた葉月は、総の身体の震えが収まった頃、ぐいぐい身体を押した。少し進むたびに悲鳴のような声が聞こえてきた。根元まで収まるのに何時間もかかったような気がしたけれど、実際には数十秒かせいぜい二、三分ほどだ。尻だけを突き出すような体勢を保っているのは、葉月が両腕で腰を押さえているからで、手を離すとぐしゃっと崩れて抜けてしまうだろう。てのひらで声を殺しきれないと悟った総は顔を枕に埋めている。 「───総くん……入ったよ───キツイな……俺がこれだけキツイんだから、きみはもっと辛いだろう?」 「…なっ」 「うん?」 「な、い、内蔵が潰れそ、です」  相変わらず文句だけは遠慮しない。内臓が潰れるなんてことあるわけがないのに、それほど苦しく、生々しいということなのだろう。  葉月は口元だけで小さく笑い、身体を前に倒して総の背中にちゅっちゅっと口づけた。 「じゃあそろそろ本気でいくぞ」  葉月がそう言うと、総の尻がぎゅっと窄まるのが分かった。恐怖心なのか期待なのか葉月には分からない。分からないけれど、拒まれていないことだけは分かる。  総はゆっくり時間をかけて力を抜いた。まだ全身が硬いのは明らかだったけれど、総の努力は葉月にちゃんと伝わり、再開しても大丈夫だと理解した。 「いいか?」  葉月が確認するようにふたたび訊くと、枕に顔を埋めたまま総は小さく頷いた。  夜はまだまだこれからだ。なんせ今は黄昏時で、時間ならたっぷりあるのだから。

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