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光の先へ 3

 秘書の帰宅を首を長くして待っていた(たつみ)は、みっちり六日間、一切の自由を与えなかった。総に与えられた自由時間は、三食とトイレ、シャワー、そして一日四時間の睡眠だけだ。実働十六時間を六日も続けるなんてバカげている。住み込みのせいだと恨んでもみるけれど、出て行けと言われたらショックで立ち直れないだろうと自分で分かる。巽の傍にいたい。求められている間は。  遅い昼食を済ませた総が執務室に戻ると、妙に明るい声で巽が電話で話していた。親しい相手なのだろう。  巽の声の抑揚でその時の機嫌まで分かる人間はそういない。それこそ総と葉月ぐらいだ。付き合っているくせに、数馬は巽のことが分からないと言う。幼馴染みの南方平和だって、巽をただの堅物だと思っている。佐伯巽を、血の通うただの一人の男として見ているのは総と葉月だけだ。 「総」  いつのまに電話を切ったのか、巽がすぐ傍に立っていた。 「はい」 「五日も拘束して悪かったな」 「六日です」  冷たく総が言うと、巽はひどく驚いたように目を見開いた。 「本当に悪かった…」 「構いませんよ、私は貴方の秘書ですから」 「でも一応は週休二日を目指しているんだが」  出来もしないことを言う巽に総は苦笑した。 「年休七日の貴方を放ったらかしにして自分だけ休暇を頂いたりできませんよ」  自分より少し背の低い巽を見下ろさないように、総はわずかに膝を曲げる。 「本当におまえは理想的な秘書だ……どうしよう…おまえがいなくなったら俺は仕事にならない」 「ご安心下さい、どこにも行きませんから」  すると巽はデスクに戻り、引き出しから書類封筒を出してきた。 「こっちを速水先生に、こっちを葉月に届けてもらいたい」 「承知しました。お渡しするだけですか?」 「速水先生の方は渡すだけでいい。葉月の方は、中身を確認させて、返事を報告してもらいたい」 「…はい」 「明後日の朝八時、報告にきてくれ。それまでは休んでくれていい」  要するに、今から速水数馬の事務所に行って、葉月のマンションを訪ねて、明後日の朝までに総は佐伯邸に戻ればいいということだ。丸一日以上の自由が転がり込んできたことになる。  総はテーブルから二通の封筒を取り、それぞれ「速水先生」「葉月」と表に書いてあることを確認した。間違えて渡すと大変だ。 「お疲れ様、ありがとう」 「貴方こそ───無理なさらないで下さい」  秘書には休暇を取らせるくせに、自分はこのまま仕事を続ける巽に総は頭を下げた。普段の総なら、おつかいを済ませたらすぐに戻ってきて巽に付き合った。でも今は付き合えない。休暇を取っていいと言う主人の好意を言葉のまま素直に受ける。  執務室を出た総は自室に戻ってシャワーを使った。髪が乾いてから数馬に電話をかけ、これから訪ねたいと伝えた。事務所兼自宅だ、たいてい数馬は在宅している。葉月には電話はしなかった。数馬と違って不在がちなので、葉月が自宅にいることをおそらく巽は確認済みだ。今夜ならいるということなのだろう。それとも明日ならいるということなのだろうか。  それにしても、なにか渡すものがあるなら、数馬を佐伯邸に呼び出せばいいのにと総は思う。付き合っているのにほとんど会っていないだろう恋人と、堂々と会えるチャンスなのに。佐伯邸に呼べば、自分の部屋に連れ込めるし、連れ込んだら色々できる。数馬は弁護士だが、仕事に対して熱意があるタイプではなく、おそらく巽よりは時間がある。むしろ、雀翔会からの捩じ込みにすぐ対応できるように、常にセーブしているに違いない。なんせ数馬は巽のために司法試験を受けた男だ。恋愛が終わってしまっても傍にいたいというだけの理由で。  女物のバッグに荷物と預かった書類封筒を入れ、執務室の巽に声をかけてから総は屋敷を出た。  気に入りの洋菓子店に寄った総は、ケーキを三つ購入した。営業先への手土産を装って領収書をもらった。自分と友人が食べるなんて気づかれたくなかった。  あと十分ほどで着くと電話を入れると、数馬は相変わらずぼんやりした声でいつでもどうぞと言った。オートロックの番号もどうせ知ってるんだろうから勝手に入ってきて、玄関も開いてるから上がってきてくれとも。押し問答も面倒なので、総ははいはいと適当に返した。  長い付き合いなので遠慮はない。最初は高校で知り合った。もしも巽を間に反目することが無ければ、無二の親友になれたかもしれない。いや、巽のことさえ抜きにすれば、今では十分に親友だ。総は数馬を気に入っている。救いようの無いない根暗だが、根暗の度合いなら総もいい勝負だ。 「お邪魔します」  声をかけて部屋に上がった総は、少し考えてから鍵をかけた。いくら男だからって、いつも開けっ放しだなんて無用心過ぎる。しかも数馬は佐伯組の顧問弁護士なのだ、良からぬことを考えて攫われる可能性も無いとはいえない。腕に覚えがあるタイプでもないというのに、なにを考えているのだろう。或いはまだ素人のつもりなのかもしれない。大ヤクザのイロのくせに……。 「……スジの僕がカタギの……なのに…」  ぼそりと呟きながら靴を揃えた。  勝手にスリッパを出してはき、廊下をずんずん歩いてリビングのドアを開けた。たぶん数馬はリビングのソファでぼんやりポケット六法を眺めているだろう。独立したばかりの数馬は、時間さえあれば六法に目を通している。或いは法廷の傍聴席に座っているかだ。 「お久し振りです、数馬さん」  案の定、数馬はソファに寝転んで六法を見ていた。 「わざわざ早瀬を寄越したってことは本当に仕事ってこと?」 「さあ、どうでしょう。僕は数馬先生に封筒を渡すように言われただけですから」 「あ、そう…」  総はバッグから書類封筒を取り出し、宛名を確認してから、リビングのテーブルにある『仕事用ボックス(未確認分)』に入れた。数馬がリビングのテーブルで仕事をしていることを総は知っている。 「ここに置いておきます、できるだけ早めに確認して下さい。さて…キッチンお借りしますよ」 「なにか作ってくれるの?」 「冷蔵庫に材料が揃っているというなら」  すると数馬は残念そうに苦笑した。 「無理だね…買い物から頼まなきゃ駄目だ」 「貴方も出前とかインスタントとかファストフードとかばっかり食べてないで、少しは自炊するべきだと思いますよ。せっかく料理できるのに」 「早瀬ほど上手くないけどね」 「あのままずっと佐伯の屋敷にいらっしゃれば良かったのに。作ってくれる人がちゃんといます」 「早瀬にとっては『家』なんだろうけど、俺なんか居候だから駄目だよ」  数馬がもし女性だったら、巽の後妻としてなんの問題もなく過ごせただろうに。 「数馬さん、コーヒーどうぞ。ケーキは……ベリーのタルトでいいですか?」 「早瀬は?」 「僕はマンゴーといちじくのタルトにしました」 「わー、半分ずつ食べよう」  自分が巽を奪ったことに気づいていない数馬は、総を友人だと思っているらしい。ケーキを半分ずつ分けて食べようなんて、女子高生みたいなノリだ。 「早瀬ってばグルメだよねー。持ってきてくれるケーキいつも凄く美味い」 「そうですか? でも、僕の趣味を分かって下さるのは貴方だけです、これからも付き合ってもらいますよ」  小さいナイフで器用に半分に切った総は、半分ずつ入れ替え、数馬の前に皿を置いた。女子高生じゃあるまいしと思いながらも、総は数馬の望みに従ってしまう。昔からだ。高校の時から、総は数馬に弱かった。  キッチンからコーヒーを取ってきた総は、ソファには座らず、そのまま床に座り込んだ。佐伯邸ではこんなことはできないけれど、ここなら自由だ。誰も見ていない場所で好きに振る舞える。ケーキだって堂々と食べられるし、はしゃいでもいいし、愚痴だって言い放題だ。 「早瀬、これ、高いだろ」  マンゴーといちじくのタルトを半分ぐらい食べた数馬が言った。 「そうですね……まぁ素材を考えたら妥当とは思いますけど、ケーキ1カットって考えると高めかも」 「千円ぐらいする?」 「さすがにもう少し安いです」 「うわー、そうなんだ。ご馳走様ー」  一緒に食べてもらえるだけで総は満足だ。 「どっちが美味いですかね?」 「んー…甲乙つけがたい…けど……ベリーかな」 「え、そうですか? 僕はマンゴーの方が」 「早瀬ほんと甘党だなぁ」  くだらないことをグタグタ言いながら二人はケーキを食べた。くだらない話をする相手すら総には、もちろん数馬も、身近にいない。数馬が佐伯邸を出ていってしまってからは尚更だ。  食べてからは、数馬はまた六法をめくった。総は数馬に構わず、その辺の雑誌を適当に眺めていた。数馬はファッションに興味があるタイプではないくせに、たんまりファッション雑誌を持っている。処分する時には大切な部分を丁寧に切り取ってファイルに挟んで保存しているらしい。理由は分かっている、モデルがトーヤだからだ。佐伯冬矢、巽の腹違いの弟で、海外のショーを渡り歩くトップモデルだ。  ぺらっとめくると、見開きのトーヤが総の目に飛び込んできた。女性用の香水のCMらしい。女性用なのにモデルが男だなんて、相変わらずファッションの世界の考え方が総には分からない。 「その写真…いいだろ…」  六法を読んでいるとばかり思っていた数馬が言った。 「…そうですね」 「冬矢って巽さんと本当によく似てるんだけど、なにが違うのかな……」 「さぁ。派手な人ではありますね」 「派手さなのかなぁ……顔が商売道具なんだったら、巽さんだってこういうの出来ると思わない?」 「どうですかね。あの人、性格は地味ですよ」 「それか。その差か!」  どうやら数馬は納得したらしい。 「冬矢さん、このまま日本に戻ってこなければいい…」  総がぽつりと言うと、数馬はまったくその通りという風に大きく頷いた。 「まぁ、巽さんが許さないでしょうけどね」 「組に戻ることを? それとも日本に戻ることを?」 「日本に戻ることを許さなければ、組に戻ることもありませんからね」 「ああ……そう願いたいよ」  冬矢には自由に生きてもらいたいと総も数馬も思っている。自分の人生の所有権を手放した巽の代わりに。それに付き合うことに決めた総と数馬の代わりに。狭い日本を飛び出して、世界中の人に注目される華々しい舞台で、眩いばかりのライトの中心にいて欲しい。冬矢は彼らの夢なのだ。いや、希望というべきかもしれない。  総は雑誌を片付け、コーヒーカップとケーキ皿を洗った。一つ残っているケーキを箱ごと冷蔵庫に入れた。  残っているケーキは早めに食べて下さいと言って総は数馬の部屋を出た。  地下鉄の駅まで歩きながら、総は葉月に電話をかけてみた。そろそろ夕食の時間だ。外で済ませるにしても、総がなにか作るにしても、一緒に食べるなら確認してみた方がいい。大食漢の葉月は、たとえ二度目の夕食でも普通に一人前を平らげる胃袋の持ち主だが、空腹に勝る調味料は無いともいうし、できれば美味いと思いながら食べてもらいたい。  仕事で行きますが夕飯どうしますかと総が聞くと、どこにいるのと聞かれた。速水先生の事務所の最寄駅だと言うと、じゃあHホテルのロビーで待ち合わせようと電話を切られた。  ぜんぜん近くないじゃないかと総は思う。ここから地下鉄で二十分はかかる。乗り換えは二回だ。むしろHホテルに近いのは葉月が勤める病院からだ。  あれからもう一週間だ。言われるままドライブに連れ出された日から一週間が経つ。声を聞くのも一週間ぶりで、顔を見るのも一週間ぶりだ。特に意図したわけでもないのに、規則正しく一週間ごとに総は葉月に会っている。  スーツで出てきて本当に良かったと総は思う。ホテルのロビーを汚い服装でウロウロするのは嫌だ。自分一人ならともかく、連れの顔に泥を塗るようなことは絶対に避けたい。  Hホテルのロビーに入り、フロントから少し離れたところにあるソファに座った。いいソファだ。どこまでも身体が沈むような感覚に目眩がする。疲れているのかもしれない。いや、確実に疲れている。 「総くん、お待たせ」  ふいに頭上から声が降ってきた。 「ほんの少ししか待っていませんよ」 「そう。じゃあ取り敢えずチェックインして、部屋に荷物を置いて、メシにしようか」 「…泊まるんですか?」 「だってきみ明後日の朝まで休暇なんだろ」 「……なぜ知ってるんです?」 「巽から聞いた」  唖然と口を開いた総に、葉月はにっと笑った。  二人分の荷物を持ってフロントに向かう葉月を総は追いかけた。ダブルなんか取られたらたまらない。いや、それよりも、一室だけでいいなんて言い張られたらたまらない。 「ダブルで一泊」  二歩ほど遅れて追いついた総の耳に、案の定、当然のように言う葉月の声が飛び込んできた。 「僕も。できれば隣で」  一週間前のミスを踏まえて総が言うと、葉月は不満そうに唇を尖らせたけれど、隣ならいいかと考え直したのか、フロントマンに向かって頷いた。  記帳は葉月がまとめてした。ヤクザ者の総は、できるだけ痕跡を残さない方がいい。総なんかよりよほどスジっぽい葉月が完全なカタギなのだから可笑しな話だ。  カードキーを受け取った葉月は、荷物は少ないからと案内は断った。他の客のためにもポーターの手は空けておいた方がいい。お互い小さなバッグとセカンドバッグだけだ、なんということもない。  大きな手で器用にカードキーを使い、葉月はドアを全開した。エレベーターの中で右手首を掴まれ、引き摺られるように廊下を歩いたせいで、抵抗らしい抵抗もできず、総はそのまま一緒に部屋に入った。 「……っぁ…」  あっというまに距離を詰められ、薄暗い中で口づけられた。壁を背にしている総は、まるで磔にでもされているような拘束感を味わわされる。 「…総くん……」  逃げる舌を執拗に追うことはせず、葉月はそっと顔を離した。 「…はい……」 「きみを攫って行きたいよ」 「……」 「このままきみを攫ったら巽は俺を殺しに来るかな」 「…えぇ」  葉月はまた口づけた。小さな明かりしか点いていないせいで、総は葉月がどんな顔で攫うと言っているのか見えなかった。だから、自分がどんな顔をしていたのか葉月に見えていなかっただろうことに安心する。  キスはかなり馴れた。  抱き合うことにはまだ馴れない。  葉月とこういうことをするようになるまで、唇と唇を合わせたり舌を吸ったりという行為に、総は全く現実味を感じられかった。そんなことを世の中の人が普通にしているなんて信じられなかった。巽の全てを手に入れたいと思っていて、その考えはもちろん今もあるけれど、抱き合ったり口づけたりという生々しさとは少し違う気もするのだ。昔はイコールだったのに、今は違う気がしていると言うべきかもしれない。  総は葉月の胸元に手を当ててゆっくり押した。 「……葉月さん…」 「うん?」 「今は…いいですか?」 「うん、なにが?」 「こういうことを…するだけでもいいですか?」 「……どういう意味だ?」  すると総は葉月の右手を取った。 「…あの人がやめるまで……あの人の背中の鳳凰に瞳が入るまで…今のあの人は人生の中で最も命を狙われる立場です……だから、せめて『朱雀』を下りて佐伯に戻るまでは僕はあの人の傍にいたい」 「組の仕組みか? それはあまり分からないが、そのスザクってのをやめてもきみは奴の傍にいてやったらいいよ。前に俺は言った筈だ、傍にいられない俺の代わりを頼むって」 「……ええ」 「攫えたらいいっていうのは本心だが、もし実行したらきみはただの人形になってしまう」 「…人形?」 「きみは巽の秘書だから、正式には組の人間じゃないんだろう? でも、カタギというにはスジにどっぷりつかっていて、そういうきみこそがきみなんだ。自由にできる人形みたいなきみじゃ駄目だ」  葉月は総の右手の甲にそっと左手を重ねた。 「きみの手は巽を助ける…きみの頭脳は巽のものだ…雀翔会の、佐伯組の、頂点に立つ男には必要不可欠だ」 「…そんな…」 「前にきみは、貴方の手は命を救う、貴方は死を待つだけの人々の希望だと言ったが、たくさんの人が相手でもただ一人が相手でも同じだけの価値があると俺は思う。患者にとっての俺と、俺の親友にとってのきみは、同じ重さで存在している」  ふと、この人はいったいどんな顔でこんなことを言っているのだろうと総は思う。真剣に? 或いは少しぐらいは照れているのか? もしかしたら微笑んでいるかもしれない。とてもカタギには見えない厳つい顔で微笑むだなんて、少し想像しただけでも可笑しい。子供が泣くからと小児科を諦めたというのも尤もだ。  総はゆっくり身体を倒し、葉月の額に自分の額をぴったりつけた。こうしただけで脳を共有できるならいいのに。相手が考えていることが分かればいいのに。総にとって、いちいち言葉にするのは拷問だ。事務的なことならいくらでも言えるのに、気持ちを口にするのは恥ずかしくてたまらない。自分の感情を外に出すなんて、裸で表に出るようなものだ。 「…葉月さん……」 「うん?」 「───貴方が…したいなら……」  葉月は両腕で総の身体を抱きしめた。 「…僕は…ぼ、くは……」  全身が軋むほどの強さで抱きしめられるだけで脳を素手で掻き回されるような快感がある。 「……僕は……ぁ、あまり…でも……」  心臓を鷲掴みにされるような感覚と言ってもいい。 「俺に付き合っているだけだ、きみは───俺もそう思っている、勘違いなんかしていない」  葉月は耳元で囁き、そのまま総の首筋に唇を押し当てた。ただそれだけで総の身体は震えた。 「さて、総くん、メシに行こうか」  このままベッドに投げ込まれるんじゃないかと頭の片隅で怯えていた総は、ほっとして全身から力が抜けた。今はまだ、そういう行為に雪崩れ込むなんて考えられない。首筋に口づけられただけで戦慄く身体に触れられるなんて怖過ぎる。 「確かここのメシ美味いよな」 「…ええ……どれも…」  葉月は総の背中をそっと撫でてから離れた。  館内案内を見ながら、料亭とレストランとどっちがいいと葉月は聞いた。総は少し考え、この前はレストランだったから料亭にしませんかと言った。葉月がどっちでもいいのは分かっている。彼に好き嫌いは無い。  葉月は電話をかけ、すぐに食べられるかなどと聞いている。総はバスルームに入り、ドアに鍵をかけた。シャワーは、佐伯邸を出てくる前に使ってきた。外出の目的は人と会うことだったし、仕事漬けが続いたからさっぱりしたかったのだ。  今まで僕はあの人のなにを見てきたんだろうと総は思う。義父から親友だと紹介され、季節毎に食事に連れて行ってもらった。たぶん、同年代の子供には経験できないような、高級だったり遠方だったりといったところで食べさせてもらった。なにもかもが初めてで、ヤクザには要らない経験だったかもしれないけれど、人として成長するためには重要なことばかりだった。葉月はおそらくもう一人の義父と言ってもいい。 「総くん、きみ、シャワー使うの?」  ふいに声がした。 「いえ、ちょっと」 「俺、シャワー使いたいんだ、代わってよ」 「隣が空いてますよ」 「ああ、そうか。じゃあ、一五分後に食べに行こう」 「時間になったら部屋を出て待ってますよ」  葉月が部屋を出て行く音がした。  総は顔を洗い、歯を磨き、鏡で髪を整えた。整髪剤が無いので、長い前髪は下りたままだ。目元が隠れているのは都合がいい。あまり顔を見られると、心の中まで見透かされてしまうような気がして恥ずかしい。  カードキーと財布と携帯電話を小さなバッグに入れて総が部屋を出ると、葉月は廊下で待っていた。少し離れていると葉月はそんなに長身には見えない。バランスがいいせいだろうか。それとも欲目か。 「上の店にしたぜ、眺めがいいだろうな」 「ええ」  あと半月だ。あと半月でそう簡単には会えなくなる。  ホテル内の店だからだろうか、料亭とは言っても純和風ではない。なにより座敷ではなく、靴のままだ。奥の方には座敷の席もあるようだが、窓際で景色を眺められるのはテーブル席らしい。  向かい合って席について、外を眺めている総の横顔を葉月は見つめた。すっと通った鼻筋と切れ長の目がたまらなくいい。そんなの前から変わらない、子供の頃から総は大して変わったわけじゃない。この一ヶ月、そういう関係になってから、変わったのは葉月の気持ちだ。なにを見ても可愛くてならない。震えながら達するのはもちろん、こうしてただ座っているだけでも。 「そういえば総くんありがとう」 「なんです?」 「今日、病院に、クリーニング屋から宅急便が届いた」 「ああ」  先週、旅先で、血塗れになった葉月の服を預けたことを思い出す。 「綺麗になっていたよ……あと、五万円入っていた」 「……つりはいいって言ったのに。足りたのなら良かったです」 「いくら渡してきたんだ」 「少しですよ」 「後で返すよ」 「じゃあ貴方に餞別ってことで」 「餞別ならこの一ヶ月、身体でもらったけど」 「……」  そういうことをわざわざ口にするなと抗議するのはもうやめた。おそらく葉月は、総が過剰に反応するのを楽しんでいるだけで、大声で話したり誰彼構わず告げる気はない。断言はできないけれど、たぶんそうなんだろうと思う。 「なんだ、あんまり進んでないな」 「…すいません……美味しいですが少し多くて…」  頼んだのは季節のおまかせ会席だ。Hホテルには何度か来ているけれどこの店は初めてだった。  よく考えてみたら、総は数馬とケーキを食べたが、葉月は空腹だったのだろう。見ているだけで笑っていまうぐらいどんどん食べる。身長はそんなに変わらないのにこの差はどこから生まれるのだろう。  ふと総は思う、あと半月でいなくなる───一ヶ月前までは、年に四回会うだけで十分だったのに、今は月に四回は会いたいと思う。ざっと十二倍も会いたいと思うなんて、欲が深いにもほどがある。でも総は本当に会うだけでいいのだ。週に一度、会うだけでいい。いつもいつも目も眩まんばかりのあの行為が欲しいわけではないのだ。 「渡米の準備は進んでいるのですか?」 「ああ───俺の後任も決まったし…家と車のことはきみに頼んだし」 「たまには…戻って来るのですか?」 「どうかなぁ。向こうに行ってから交渉してみるよ。アメリカは契約社会だから、先に契約しておけば休暇も取れるんじゃないかな」  ずっと感じていた違和感にようやく総は気づいた。葉月からアメリカに行くと聞いてからずっと抱いていた、なにかしっくり来ない感覚だ。権威の先生に呼ばれてアメリカに行くだなんて、ただ「行く」わけではないのは明らかだが、今の葉月は簡単に「来い」と言って従わせられる地位の医者ではない筈だ。 「貴方、研修で行くわけじゃないんですか?」 「研修? どうして?」 「僕はてっきり……研修とか助手とかで行くなら、休暇なんか取れないって思い込んでました」 「なんで俺が……俺は向こうの大学に講師として行くんだよ。俺を呼んだのはそこの教授で、教授として来てくれって言われて断った。嫌だろ、そんな窮屈なの」 「……すみません……僕…貴方がそんな名医とは知りませんでした」 「うん? いいよ、別に。それに俺は名医ってわけじゃない。脳外の権威の先生に無駄に扱き使われているだけだ。助手代わりに欲しいんだろ、日本語でやれるし」  総は自分があまりに無知だったことに気づいた。葉月のことをなにも知らない。葉月がどうして医者になったのかはもちろん、大学病院内でどういう立場にあるのかも。それこそ、脳外科医だということを知ったのも一年前だ。それまでは外科医だと思っていた。  ふと、葉月と目が合った。 「うん、きみは今日も美人だ」 「……視力検査をなさってから渡米された方がいい」 「だから俺はニテンレイ…って前にも言ったか」  季節のおまかせ会席は、美味で洒落ていてそんなに量はない筈なのに、総にはやはり少し多かった。数馬とケーキを食べていなかったらちょうどいい量だっただろうけれど、甘党の総にとってケーキを食べないという選択肢は無い。 「残ってるの食っちまうよ」 「ええ」  行かないでって言えたらいいのに。連れていってでもいい。  でも、二十七の男が言えることではない。  二十七の男でも無職なら、或いは二十七でも女性だったら言えたかもしれない。女性なら結婚という選択肢もある。葉月には結婚なんか似合わないけれど、もしも総が女性だったら、甘えて言えばきいてくれるかもしれない。結婚というのはなんて素敵なシステムなのだろうと思ってしまう。  とにかく総は二十七の男で、大ヤクザの秘書で、とてもカタギとは言えなくて、カタギの名医を独占するのは贅沢過ぎる。これまでは食事に誘われるのが当たり前になっていて、冷たくしても変わらず接してくれて、優しくて、ほとんど顔なんか見たことがなかったけれど、よく見ると葉月は精悍な顔立ちだ。よく見なくてもハンサムかもしれないけれど、三回も抱かれたくせに顔なんか気にしたことがなかった。 「葉月先生」 「うん?」 「先生は一人身のままでいいんですか?」 「どういう意味?」 「……ご家族とはもう疎遠なのでしょう?」  すると葉月は少し考えてから頷いた。 「きみが結婚してくれるなら身を固めてもいい」 「ご冗談は結構ですよ」 「本気だ」  総は箸を置き、小さく息を吐いた。でも、溜め息という様子でもない。 「───いいですよ、先生、貴方と結婚しても」 「じゃあ明日」 「それはちょっと気が早過ぎるでしょう。アメリカの仕事が終わって、貴方が帰国して、その時にまだ貴方の考えが変わっていなくて、僕が生きていたら」 「きみは死ぬ気なのか?」  総は苦笑だけ返した。 「そういう稼業ですから」 「ああ、ヤボだった、分かっている」  そして総はもう一つ気づいた。巽が葉月を親友だというのは、この居心地の良さのせいだ。察しがいい。勘もいい。だからといって詮索するわけでもない。ぴりぴり張り詰めることもないし、感情の起伏が激しいわけでもない。しかも、倒れたりした場合には必ず抱きとめてくれるという安心感がある。得難い男だ。おそらく一生の中で一人、出会えるか出会えないかというほどの。  しばらく夜景を眺めてから二人は席を立った。  エレベーターに乗り込むと、葉月は総の手をぎゅっと握りしめた。敏い男だ、監視カメラに映らない位置を心得ている。 「総くん」 「はい」 「総くん、愛してるよ」 「…はい」 「総くん、きみを抱きたい」 「……ぃ」 「総くん」 「…はい」  エレベーターのドアが開き、部屋に向かって二人は歩いた。総の足取りはひどく重い。ゆっくり歩く葉月に追いつけない。毛足の長い絨毯に靴の先が引っ掛かり、総の身体は宙に浮いた。 「おい」 「…すみませ…」  抱きとめた葉月の手を総はそっと剥がした。 「嫌ならいいんだ、きみはきみの部屋で一人で安心して眠ればいい……俺はちょっと焦っていたかもしれない」 「……」 「アメリカに行くせいなのか、きみを残して行くからなのか、俺にもよく分からない」  葉月は部屋のドアを開けた。 「どうする?」  総は葉月の顔をちらっと見た。 「…眩し…」 「まぶしい?」 「貴方の…後ろから…光が……」 「部屋の電気だ」 「……」 「総くん、決める権利はきみにある」  ふっと笑った葉月の胸元を押した総は、自分も一緒に部屋に入った。 「…葉月さ…」  総の唇が葉月に口づけた時、二人の背後でゆっくりドアが閉まった。  分からないのは総も同じだ。今まで年に何度か会うだけだった男がアメリカに行くことになぜ自分がこんなに胸を痛めているのか分からない。人前で半袖のシャツになることすら嫌だったのに、この男にはなぜあんな生々しいことを許してしまうのか分からない。誰にも本当の自分を見せたことなんかないのに、なぜこの男の前でなら自由に振る舞えるのか分からない。  そっと唇が離れた。 「───総く…」  また総は口づけた。  理由とか、理屈とか、そういうものは全く分からないけれど、一つだけはっきりしていることがある。 「はづ…」  唇の先と先は触れ合ったままだ。 「…ん?」 「どうしようもない…僕に…は…」  わずかに動く唇が、必死になにかを伝えようとしていることを葉月に教える。 「…僕……ぼ…」 「抱いてもいい?」 「……」 「きみは本当に素直だ」  葉月は総の手を握り、ベッドに向かって歩き出した。 「…づきさ…」  引かれるまま総も歩く。 「葉月さ…」  葉月は総だけをベッドに座らせた。 「俺が渡米して、もしもきみが命を懸けるようなことがあって、本当に命を落としたら、俺は墓前できみを褒めたらいいんだな」 「…はい」 「きみの主人を責めたりせず、良い部下を持ったと言ってやればいいんだな」 「はい」  葉月は両手で総の頬をはさんだ。 「…今まできみに言い寄る奴がいなかったのはこの眼鏡のせいだな。美しい顔を隠してしまって、昔はもったいないって思ったけど、今は隠しておいてくれっていうのが本心だよ」  眼鏡をはずしてやった大きな手が、総の小さな顔を撫でまわす。 「誰かの目にきみがとまるのが怖い」  総はそっと目をつむった。 「きみの魅力に誰かが気づくのが怖い」  口元に触れた葉月のてのひらに総は口づけた。 「…安心して下さい……貴方以外に誰も…僕なんか…欲しがらな…」  総の本心だ。誰かが自分に関心を持つだなんて考えたこともない。  葉月は手を離し、総が口づけた自分のてのひらに唇を合わせた。  どうしようもなく葉月は総が可愛かった。ずっと抱いていた親子のような愛情が、この一年で恋愛という意味の感情に変わってしまい、もちろん葉月にもとまどいはあった。でも、誤魔化せなかった。もしも総が受け入れるというなら、愛した人を愛したかった。愛した人から愛されたかった。好きな人に告白もせず諦めるのは二度とごめんだった。 「───空港に…見送りに来てくれるかい?」 「…ええ」 「迎えにも来てくれる?」 「ええ」  この人は光り輝く人だと総は思う。全身から溢れ出す光が、傍にいる人間までもを輝かせる。幸せな気持ちにさせてくれる、温かい想いで満たしてくれる。さっき眩しいと感じたのは部屋の明かりなんかじゃない、葉月から放たれる強烈なエネルギーのせいだ。  総は手を伸ばし、震える指先で葉月のジャケットのボタンをはずした。その、精一杯の感情表現に、もちろん葉月はちゃんと気づいた。  あと半月でアメリカに行ってしまう───それが分かっているからか、或いは分かっていなかったとしても、おそらく僕はこの人と抱き合っただろうと総は思う。  もう四度目だ。知らないことだからと怯えるには、総はもう体験してしまっている。 「───ゆっくりな」  眩しくてならない男に耳打ちされ、総の背筋をなにかぞわぞわしたものが駆け抜けた。 「…葉月さん……葉月さん…」 「うん?」 「訊きたいことが…あ、あります」  首筋に口づけられながら総は言った。 「なに?」  するりとスーツの上着を脱がされ、ワイシャツのボタンもはずされる。 「……貴方はいつ…巽さんと…差し支えなければで構わないのですが……二人はどういうきっかけで出会われたのだろうって───僕はずっと思っていました」  佐伯巽はヤクザの大幹部で、日下葉月はカタギの医者だ。その二人が親友だというのだから、普通に考えて腑に落ちない。詮索はしたくないのでずっと訊かずにいたけれど、こんな風に抱き合う関係になったのだから、知りたい気持ちをどうしようもなくぶつけたくなった。巽にはぶつけられない。でも、この男になら構わないんじゃないかと総は思う。恋人に我儘を言うのは許される気がする。  ほとんど抵抗せず、むしろ少し協力したせいか、総はあっというまに裸にされていた。人目に晒したことのない白い肌にはたくさんの傷痕が残っている。 「知らないのか?」 「ええ───貴方からも巽さんからも聞いたことがありません」 「……そうだったか?」 「はい」  すると葉月は少し考え、総の額にちゅっと口づけた。 「きみとそう変わらない───俺はきみと違ってそっち側の世界を捨てた。きみは、そして巽も、そっち側に残った。違いはそれだけだ」  ナゾかけのような返事に総は小さく首を傾げた。意味は分からない。なにが言いたいのかも分からない。どんなことでも結論から先に言う葉月にしては珍しい言い方だったけれど、ただ一つ分かったのは、詳しいことは言えないということだ。  葉月の言う『そっち側』とは裏稼業のことだ。総も巽も、全身どっぷりヤクザ稼業につかっている。  総は子供の頃に裏稼業の父親が死に、やはり裏稼業の巽に引き取られ、今では裏社会で知らない人はない敏腕秘書だ。薄暗い世界に生まれ、更に薄暗い場所で育ち、今更もう光差す場所で生きられる筈もない。だから総はそういうことに未練は無い。そっち側を捨てるとか抜け出したいとかそんな気持ちは全くない。それでいいと本気で思っている。組の鉄砲玉になるようなどうしようもない三下が実の父親で、育ての親は大ヤクザで、正式な構成員にはなっていないけれど、自分がカタギだと思うには無理があるし、子供の頃からそういう社会で生きてきた自分が素っ堅気になれるなんて思いもしない。堅気になるのは総にとって夢ではない。人間が犬になりたいと考えるほど現実味のないことなので、夢の一つにすらならない下らない選択肢だ。 「そういえばきみ、巽になにか言ったか?」 「───なぜです?」 「奴からわざわざ電話があって、総をつかいに遣るからって言われりゃあ、なにか知ってやがるのかって考えるだろう?」 「なにか後ろ暗いことでもあるのですか? あの人はなにも知りませんよ。もちろん僕だってなにも言っていませんし」 「……いや、別になにも勘繰っちゃいない」  もちろん総も嘘なんか言っていない。巽から書類を渡してくれと頼まれて葉月を訪ねただけだ。明日の朝までに屋敷に戻ればいいと仕事から解放されたので、ここでこの男とこんな爛れたことをしている。もしも巽からすぐに戻れと命じられていたら、総はすぐ屋敷に帰っていただろう。いくら葉月とそういう関係になってしまったとはいえ、総にとって従うべきものは巽の命令だ。佐伯巽の命令なら命を懸けることすら躊躇わない。  葉月は総をうつ伏せにさせ、尻の間にどろりとした液体を塗り込み始めた。  得体の知れないものを使われるのは怖いと総は思うけれど、カタギの医者が持ってきたものだからアヤシイ薬ではないと考え直す。行為の最中に使う薬や液体を、なんでもかんでもアヤシイものなんじゃないかと疑ってしまうのは、自分の性根が腐っているからだと総自身も分かっている。カタギとヤクザのボーダーライン上に生きている総は両方の世界を行き来する。カタギの世界ではあまり見かけないような違法行為や異常行為は、それこそ数え切れないぐらいいくらでも目にしてきた。だからつい、違法すれすれのドラッグでも使われるんじゃないかと考えてしまう。ドラッグや覚醒剤で人生が終わってしまった顔見知りは何人もいたし、女を使って稼がせるためにわざと中毒にさせてしまうといったやり口だっていくらでも見てきた。  ふいにずるりと葉月の指が入ってきた。身構えていなかったせいで驚き、総の身体は大きくびくっと震えた。 「…悪い……先に言えば良かった」  言いながらも葉月は指を抜き差しする。あまり悪いと思っていないに違いない。 「……いえ…平気っ…です」 「だろうな───そろそろ馴れるだろう? 尻の穴を拡げられることにも」  いちいち表現が生々しいのは葉月が医者だからだろうか。それともわざとそういう言い方をしているのだろうか。葉月の考えそうなことなんて大抵は分かるのに、こういうことに関しては全く想像もつかない。  でも、一つ、総にも分かることがある。葉月がこんな風に時間と手間をかけているのは自分自身のためじゃない。全て総のためだ。少しでも辛くないように、痛くないように、すぐに挿入したりせず、丁寧に優しく準備をしてくれる。精神的に参ってしまうことは別にして、肉体的にはありがたいことなのだ。 「先生…ね、ぇ、葉月さ、ん……」 「なに?」 「僕、の身体……傷…があってもつ、使えますか?」 「使う?」 「気持ち、が、削がれたりし、しませ、んか」  必死で声を出しているけれど、総はもう息も絶え絶えという様子だ。 「どうして削がれる? こんなにやる気なのに」 「……っぁ、それならよ、良かった…で…」  総の声が途切れたのは、葉月が尻の肉を左右に割ったせいだ。わりと思い切りよく開かれたせいで、いつも冷静な総が取り繕うことができなかった。もちろん今は全く冷静ではなく、理性は普段の十分の一以下になってしまっているけれど。 「…総くん……入れるよ」 「……はい」  総が頷くと同時に葉月は強引に押し入った。 「っぁ…ぁ……」  枕を噛んでいても声を殺し切れず葉月の耳に届いてしまう。 「せんせ…葉月さん…はづ…」  限界まで開いた自分の身体の脈打つ音が聞こえる気がして総は何度も首を振った。密閉された狭い空間で大音量の騒音でも聞かされているようで、鼓膜が直に叩かれているんじゃないかという衝撃があった。 「…あん? なに? こっち向くか?」  うつ伏せていた総の身体はいきなりぐるっとひっくり返された。 「っぅぁ…はづ、さ…は」  鼓膜が引き攣れる。 「入れるぜ」 「───え?」  理解が追いつかない総が目の前の葉月を見た瞬間、油断していた体は簡単に侵入を許していた。 「っぁ…ま…ま、って……づきさ…」  繋がっている部分はそのままにぐるっと回されたのかと思っていたら、葉月はちゃんと抜いてからひっくり返していたらしい。脳はわりとあっさり錯覚する。挿入したままなんて無理に決まっているのだ。  ぐったりベッドに身を投げ出している総の、汗で張り付いた髪を丁寧に掻き上げた葉月は、剥き出しの額に唇を押し付けた。 「───総」 「…はい」 「総くん…」 「はい?」 「アメリカに行くまでにまたきみを抱けるとは思っていなかったよ」 「……」 「ああ───たまらない……凄くいい」 「…それは……良かった…」 「いつも冷静でしっかりしたきみが、俺の下で喘いでいるなんて夢みたいだ───プライドが高くて、無礼なことを許さないきみが……俺にこんなことを許している」 「貴方こそ……僕みたいなのを相手に…その気になったりして……貴方みたいな人は本当は綺麗な女性が似合、に、っぁ」  ぶつぶつと呟く総の唇に葉月はいきなり口づけた。拗ねた子供みたいに唇を尖らせているくせに、言っていることはひどく卑屈で、葉月はどうしても耐えられなかった。 「……総…」  長いキスのあと、総の上半身を起こしてやりながら葉月は言った。 「俺に似合うのはきみだよ」  いつのまにか対面座位になっている。 「きみに俺が似合っているといいんだが」  男らしい葉月の顔が小さく歪んだ。どうやら笑っているらしい。  総は手を伸ばし、葉月の髪を掻き上げ、剥き出しにした額に口づけた。いつも葉月はこうして額にキスをくれる。なんとなく真似したくなって、総は同じようにしてみた。 「…貴方が……僕を…だから僕は───貴方みたいな眩しい人は嫌なんですけど…」  抱かれながら難しそうな顔で言うので、葉月は思わずくすっと笑った。 「きみはそんなことを言うけれどね、眩しいのはきみだよ。いつか俺の言うことも分かる日が来るだろうさ」  そう言う葉月の額に総はまた口づけた。  もうすぐいなくなる男を、いつまでも抱きしめていたいと思いながら、総はただ優しく何度も口づけた。

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