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第1話
「あ.....そんな...」
周囲が一斉にどよめき、美しい面が驚愕と悲嘆に歪んだ。すんなりとした背中の下部、細い腰の左右に向かって紅い筋が枝のように伸び、中央には長春花(薔薇)の蕾のような痣が浮き上がっていた。
「これは姚月の証......やはりそなたは」
悲痛な叫びが王の口をついた。玉座から滑り落ちんばかりの動揺に、周囲の側近が慌てて、その身体を支えた。
隣に座っていた貴妃がさも憐憫に満ちた口振りで夫を慰める。
「お気の毒に....。玲太子さまは、姚月。これではっきりと陛下にもお分かりになりましたでしょう?」
「しかし、玲は『嘉陽』であると、生誕時に神のお告げがあった。神が偽りを申されることはない」
王は、虚しく首を振って言った。
「『嘉陽』が『姚月』に変わることなど.....」
「ございます」
傍らに控えていた宰相がおもむろに厳かな口調で告げた。
「神が世を糺さんとする時、戒めの為にその証を示されることがございます。『嘉陽』であった治世の君が『姚月』に変わり、王位を弟君に譲られた前例が記録に残っております」
「しかし.....」
反論しようとする王の口を遮って、宰相は続けた。
「お心を鎮められませ我が君。『姚月』はごく稀にしか世に現れませぬ。国の大事なる時、救いの主として現れるのです。幸い我が君には、まだ『嘉陽』の王子がおいでになる。玲太子には、太子位を弟君にお譲りいただき、太主として朔宮にお移りいただきたい」
がっくりと肩を落とす王と玲太子と呼ばれた少年の傍らで、貴妃と宰相がにんまりと口を歪めていた。少年は、侍女達の手で改めて袍を着付け直され、一礼して王の前を下がった。
少年の名は、廣伯玲翆耀。齢十五歳。大陸の西端、韋国の君主、廣家の嫡男として産まれた......はずだった。母の王后は隣国、沙伊家の公主(姫)だったが既に亡く、母の国、熈も今は無い。大国、遼への臣従を拒んで滅ぼされたのだ。父の王の傍らに座す貴妃は、その遼の分国、茱国の貴族の娘だった。
父王は遼の命に従い茱妃を娶ったが、美しく控えめな熈皇后をこよなく愛しており、その忘れ形見である玲を誰よりも大切にしてきた。
玲は母に似て見目麗しく、何より沙伊国の民独特の翠玉の瞳と漆黒の髪、抜けるように白い肌は、どんな美姫も敵うまいと噂される美貌と相まって、韋国の民の憧憬を一身に集めていた。同時に並外れて聡明で母譲りの謙虚な性格と父親譲りの豪胆さ勇猛さを兼ね備え、韋国の次期君主としての期待も大きかった。
その玲が、『姚月』であった......という事実は韋の宮廷を混乱に陥れた。
この韋国には、そもそも三種類の民がいた。
政(まつりごと)を司る治世の君やそれを補佐する貴族などは『嘉陽』と称され、古い昔に天から降り立ったと伝えられている。身体-頭脳ともに秀でた能力をもち、民を支配してきた。民は『比地』と呼ばれ、元々からこの地に住まう人々だった。
そして、その他に、ごく僅かに『姚月』と称される存在が、支配層の中に産まれることがあった。
それは皆、際立って美しく、だが哀しい性を負っていた。男性の肉体を有していながら、子を成す器官を胎内に持ち、周期的に異常な性欲に襲われ、理性を失うのだ。
―お美し過ぎるとは思っていたが...―
宮中に仕える者は皆一様に涙し、同時に男達は胸内を熱くし、女達は眉をひそめた。『姚月』は、男でありながら、女の性を持つ存在だ。元から女性の身体に産まれた『姚月』と同じ性を持つ存在は『綾華』と呼ばれ、玉の輿が約束されるのだが、『姚月』は本来的に男なのだ。それゆえ、女達にとっては、「男に恋人を奪われる、伴侶を奪われる」という極めて屈辱的な事態を起こしかねない。
その危うさから、王家の『姚月』は宮中の奥深く、余人の立ち入らぬ『朔宮』に隠され、国の大事の時にその身を供する、謂わば人身御供として扱われる。
実際のところ、『姚月』は殆ど産まれることは無く、先頃産まれたのは、王家の分家となる古い家臣の家で、産まれた『姚月』は若くして自ら命を絶った...と伝わっている。王家そのものに『姚月』が産まれたのは、おおよそ百年ほど前のことだ。
『嘉陽』と『姚月』、『綾華』は、他の性とは異なり、その身体に「証」を持って産まれる。
『嘉陽』は、胸に「瑞紋」と呼ばれる痣を、『姚月』、『綾華』は背中や肩、腰に「淫紋」と呼ばれる痣を持つ。この痣は出生時から現れることもあれば、性徴期に顕れることもある。
玲は、出生時に、胸に瑞鳥の痣を抱いて産まれた。そのため、一人の反対も無く懐疑もなく、王太子として定められたのだ。
―しかし、このようなことが.....―
王は頭を抱えた。玲の腰に顕れたのは、間違いなく『姚月』の淫紋だった。しかし、同時に胸の『瑞紋』も消えてはいない。
「教えてくれ。これはどういう事なのだ....」
悲嘆に暮れた王は、国一番の古老の斎主を密かに訪れた。都から遠く離れた洞窟でひとり神に仕える斎主は、青ざめて震える王に、静かに対峙した。
「我が子、玲は間違いなく『嘉陽』の証を持って産まれた。しかし、十五になって、突然『姚月』の証が顕れたのだ。二つながら神の証を持って産まれるなど.....」
「あり得ませぬ」
斎主は淡々と答えた。
「何者かが、太子さまを『姚月』にしてしまったのです」
「そんなことがあるのか?」
絶句する王に斎主は目を伏せて言った。
「古い文書に、『嘉陽』の王にある秘薬を用いて『姚月』に貶めた......という記録があります。もっともそれを成したのは、同じように『嘉陽』に産まれた腹心の王の従兄弟が、王への恋情に耐えきれず謀をした...といいます。そして『姚月』とした王を妻に娶り、その腹から産まれた子を王位に就けた。.....結局のところ、『姚月』となった前王は後宮に身を置きながら、実質的な治世の君であったとも言われます」
「しかし.....」
言葉を失った王に、斎主は続けた。
「玲太子様に謀をしたは何者かは存じませをやが、太子様の『嘉陽』の証は消えませぬ。ただ......」
「ただ?」
「伝説の王の胸にあった証は、『龍』であったと書かれていました。背の淫紋は『蓮花』.....と。玲太子様の紋とは異なります」
「どういうことだ?」
「つまり、そのお方は王として従兄弟君の愛を慈悲を持って受け入れられたのです。元よりお心は通じていたからこそ、蓮の花が咲いた」
王は玲の姿を思い浮かべた。楊柳の腰にまとわりつくように咲いた長春花(薔薇)の荊を。
「おそらくは、玲太子様は、国より翔び発ち番の御方に囚われることになりましょう」
「いったい誰に......」
「解りません。なれど.....」
斎主は遠い眼をして、眩しげに空を見上げた。
「鳳凰は、番の鳥にございますれば.....」
―ふたりで、ひとつ。―
王は相変わらず青ざめた顔で大きく溜め息をついた。
「朱雀では無かった.....ということか」
「そのようで.....」
斎主は、深々と頭を下げた。
都へ戻る道すがら、王はひとり思い巡らせていた。
―韋国の王族に、鳥の『嘉陽』の「証」を持つ者はいたか.....?―
王の「証」は、神亀だった。茱妃から産まれた王子の「証」は、まだ小さいが、鳥ではない。むしろ虎のようだった。王の側近、崔将軍の「証」は蛟。宰相の「証」は猿だった。
―戻ったら家臣達の「証」を確かめねば......―
純粋でひたむきに良き治世の君になることを望んでいた玲の哀しげな表情が瞼に浮かんだ。玲はもはや王にはなれない。『姚月』はその性のために衆人の前に立つことはできない。
出来るとすれば、夫...番の君に寄り添う桂君....皇配、もしくは王配としての姿でしかない。
―憐れな......―
もし何者かが、玲太子を意図的に『姚月』にしたというなら、犯人を探しだし、罰せねばならない。秘薬の出処を突き止めねばならない。
―もし『姚月』にすることが可能なら...―
玲太子を元に戻す薬もあるはずだ。
王は急ぎ馬を走らせた。
だが、王の願いは叶わなかった。
宮殿に帰って程なく病に倒れ、数日の後、意識を取り戻すことなく、世を去った。
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