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第2話
玲の口許から重い溜め息が漏れた。暁宮から朔宮に移るのは、大した手間ではない。だが、朔宮は長い間使われておらず、住めるように手直しをせねばならない。
どうにか玲の寝起きする部屋の設えを整えて宦官の珪が姿を見せたのは、夕刻近い時間だった。
「太主さま、お移りを...」
と丁寧に頭を下げられた時、玲は泣すきそうになった。今まで培ってきた全てを失ったのだ。
朔宮は後宮の最も奥まった処にあり、女官達すら近寄らない。世話をするのは、珪のような宦官と下働きの比地の者達だけ。
『姚月』は年頃になると三月に一度、我れを失って色に狂う......と伝え聞いているが、平素は健全な男子であることに変わりはない。
故に「間違い」を犯す危険のある女官達を側に置くわけにはいかず、反対にその時期、『閨月』の折りには身の内から媚香を放ち『嘉陽』の男を狂わせる.....と言われている。
そのため、身の回りに交合の可能な人間は一人たりとも置くわけにはいかないのだ。
玲には、まだ『その時』は来ていないが、いずれは来る。『姚月』の淫紋が浮かんだということは遠からず来る......ということだ。
「珪......」
玲は絞り出すような声で宦官に問うた。
「私は、これからどうなってしまうのだろう.....」
「太主さま.....」
宦官は玲の背を撫でながら、優しく語りかけた。
「『姚月』になったからとて、嘆くばかりではなりませぬ。古えには、王太后となって我が子の王を扶けて政をなされた『姚月』の君もおいでになります。また、他国の王に正后として嫁がれ、我が国の命運を助けた方もおいでになります」
「それは公主(姫)が無かったから......」
「いいえ......」
宦官は首を振った。
「『姚月』の君は古来、稀なる存在。大陸のどこの国でも『姚月』の君を迎えれば、神の祝福を得たも同じ...と言われております」
「だが、玉斗は死んだ。我が身を憂いて河に身を投げた」
「玉斗様は、その.....」
古い家臣の家に産まれた『姚月』は、「男女」と謗られて酷い扱いを受け、自死したという。
「岱家は、武人の家柄でございましたゆえ.....」
庶子であった玉斗は、外聞が悪いとて嫁ぎ先を決めてももらえず、嫡子達に虐げられていたばかりでなく、好色な老爺の妾に売られることになり、悲嘆のあまり河に身を投げた。
「我れとて、何時そのような身の上になるかわからぬ」
玲は柳眉をひそめ、顔を曇らせた。岱家は玉斗の残した遺書により、貴重な『姚月』を死に至らしめたとして罰せられ、辺境に追われた。しかし、玲は王家の子だ。何が起ころと王家を罰するものはいない。
「太主様はご嫡子にて、そのような事はありますまい。そのような真似をする者がおりましたら、私が排します」
「珪......」
珪は宦官ではあるが、元は武人だ。戦場での負傷によって男性機能を失ったが、その武功を買われて玲太子付きの宦官になった。言わば護衛だ。
「お心を強くお持ちなされませ。私が付いております」
玲は、珪の言葉に小さく頷いた。
「お薬湯の時間ですな。飲み終わりましたら、あちらに移りましょう」
珪は、女官が捧げ持ってきた碗を玲に差し出した。玲は黙って受け取り飲み干すと、しぶしぶと立ち上がった。
長い廊下を経ていく間に護衛の武官達に労いと別れの挨拶を交わし、女官達にも簡略に礼を述べる。
「玲.......!」
と、ひとりの武官が走り寄ってきた。親友で幼馴染みの楷虎だ。
「楷虎......君との剣の稽古ももうできない」
玲の瞳に涙が滲んだ。
「出来るさ。......必ず」
楷虎の厳つい顔にも、うっすらと憂いが浮かんでいた。朔宮に入ってしまえば、もう会えない。会うのは.....『閨月』の床の相手に選ばれた時だけだ。
―もう今までのようには付き合えない.....―
玲は俯いて足早に楷虎の前から歩み去った。
楷虎が聞こえるか聞こえないかの声で呟いた―俺がお前の番になるから...―との言葉も玲の耳には届かなかった。
朔宮の重い扉が閉ざされ、玲の全てもまた閉ざされた。
―私は、いったいどうなってしまうのか......―
目の前の暗闇が、無限の重さをもってのしかかってくるような気がした。
――――――――――
その頃、茱妃は後宮の自室で、宰相の苞と卓を囲んでいた。
「玲太子さま、お移りになりました」
「玲太主じゃ、間違えるでない」
報告に参じた女官をきつい口調で叱責し、追い返すと、茱妃は苞宰相に向き直り、互いににんまりとほくそ笑んだ。
「これで、僑さまが王太子にございますな」
「いずれな......」
茱妃の産んだ王子の僑は十四歳。立太子にはやや早いが、玲が『姚月』と発覚したからには、王太子となることには間違い無かった。
「しかし、あのようなものが本当に効くとは...」
茱妃は呆れたように洩らした。
「玄朋は、古今の術に通じておりますゆえ.....」
―実子の僑王子を何としても韋国の王太子にしたい―茱妃の思惑を嗅ぎ付けた苞宰相は、古えの秘薬の処方を何処からか手に入れ、方術医の玄朋に秘薬を作らせた。そして密かに玲に飲ませるよう持ちかけた。
「いっそ亡き者にしてしまおうと思うておったのだが.....」
茱妃の不穏な言葉に宰相は少しばかり眉をひそめて、囁いた。
「お言葉が過ぎますぞ、茱妃さま。熈后さまの病のことさえ、いまだにお疑いを持たれておりますのに......」
「それはとんだ濡れ衣じゃ。わらわは何もしておらぬ」
「左様。茱妃さまは、何もしておりませぬ。ただ、陛下のご寵愛を一心に集めることを希まれただけ......私は、義妹の願いを叶えただけ、にございます」
「孫が韋国の王となれば、母上もさぞやお喜びでありましょう。......叔父上さま」
茱妃の母、沙伊国王の禾嬪は苞宰相の側室の娘で、幼い頃に沙伊国のある要人の養女となった。それが沙伊王の目に止まり、嬪となって茱妃を産んだ。韋国への茱妃の輿入れを薦めたのも苞宰相だった。
「玲太主さまは、熈后さま譲りの美貌をお持ちの方。その玲太主さまが『姚月』となれば大陸の国々から引く手あまたでございましょう。後ろ楯も無いまま王位たに就かれるより、遥かに韋国の為になる......」
苞宰相は、自慢の髭を撫でながら嘯いた。
「でも、何年にも渡って薬を呑ませるのは難儀でしたよ。玄朋殿の術で奇病と偽ってやっとですからね」
「まぁご幼少の方が、すぐにお身体に変調が出ませんから、気付かれ難いですからね。もし十年経って兆しが無ければ別の手を.....と思っておりました」
「気の長いこと.....」
実際、玲の身体に『姚月』の証の痣が浮き出てきたのは、つい先頃、性徴が始まってからだ。
「でも、身体つきや面差しの様子から効用は測れましたから、待っておれば良いだけで怪しまれずに済みました。熈后もなよやかな方でごさまいましたしね.....」
「母親に似るのも良し悪しですわね...」
茱妃の子、僑王子は王に似て大柄で浅黒く、お世辞にも美貌とは言い難い。が、その分男らしい少年だった。
「まぁ、僑も玲どのを慕ってましたから、亡くなったりしたら、悲しむでしょうし.....。あぁ、これからは兄さまではなく、姉さまと呼ばせようかしら....」
「それは如何がなもので.....。少なくとも当面の間はご対面はさせぬよう。玲太主さまが、『姚月』としてお身体が安定するまでは、妄りに男子を近づけますぬよう....」
「どんな方も.....ですわね」
茱妃の紅い唇がにやりと笑った。
「左様、お父君の王さまは別ですが、他は誰も...」
宰相は頷き、唇の端を僅かに歪めた。
「玲太主さまには、とびきりの『玉の輿』に乗っていただかねばなりませぬからな.....」
くっくっくっ.....と忍び笑う声に、茱妃の侍女達はしばらくの間、部屋に近づくことも出来なかった。
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