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第3話
父王の危篤を知ったのは、玲が朔宮に移って程なくしてであった。
急の知らせに駆けつけようとした玲は、護衛に阻まれ、足止めされていた。
「何の騒ぎですか?」
喧騒に廊下に出てきた宰相は玲の姿を見つけると冷ややかに言い放った。
「宮からお出になってはなりませぬ。太主さま」
玲は宰相の冷たい口振りに驚嘆した。だが、何としても父に会いたかった。一目会って詫びたかった。宰相の袍に取り縋り、咽ぶように訴えた。
「王に.....父に会わせてくれ。そこを通してくれ」
「なりませぬ。宮にお戻りを.....」
翆玉の瞳いっぱいに涙を浮かべて訴える玲を無情に見下ろして、宰相は尚も玲を突き放そうとした。が、それを少年の声が制した。弟の僑だった。
「何をしている、苞宰相。兄上、早くお入りください」
僑は宰相を押し退けると、玲の手を執った。その白さしなやかさに一瞬たじろぐような表情を見せたが、すぐにぐいと引いて室内に招き入れた。
寝台に横たわる父王の土気色の顔がこちらを見た。震える手が玲を招いた。
「さぁ、兄上.....」
玲は僑に促されるままに、父の枕元に座り、その手を握った。
「父上、父上.....申し訳ございません。私が不孝であったばかりに.....」
手の甲は氷のようで、血の気を呼び戻すように頬を押しあて、涙を溢した。が、既に王の意識は混濁し、言葉もままならない。
「來佳...迎えに....来た.....のか」
そう言って、父王は玲の頬に手を触れた。
「私は母上ではありません...しっかりなさって...」
必死で訴える玲の声に、父はもはや答えなかった。絶え絶えな息の下で、ただただ母の名を呼んでいた。
「王子さま方.....」
典医が小さく首を振った。玲と僑は項垂れて立ち上がり部屋を出た。
「早く宮にお戻りを.....」
非情な宰相の言葉に、僑がむっとした声で反駁した。
「失礼であろう。苞宰相。兄上は、我れが宮までお送りする」
「は....」
僑は形だけは慇懃に頭を下げる宰相の前で、玲の手を取り、すたすたと宮までの道を歩き出した。
「僑.....」
いつの間にか、玲の手を引く僑の手は自分の手よりも大きく分厚く、気がつけば背丈も高くなっている。
「どうなされました、兄上」
「襦裙の裾が絡んで.....」
足取りの心許なさを気遣う弟に、玲は恥ずかしさに目を伏せた。朔宮に移ってから、玲には袍ではなく女物の衣服が与えられ、上着の下は裾の長い裙で慣れぬ玲には歩きづらいことこの上無かった。
「ごめんなさい、兄上」
僑も何か言いたげだったが、それ以上言葉を口にすることも無いまま、朔宮の扉の前に来てしまった。僑は特別な赦しが無い限り、ここから先には入れない。兄弟を隔てる厚い扉の内に玲は身を滑り込ませた。
振り返ると僑が名残惜しそうに佇んでいた。玲は小さく会釈を交わし未練を振り切るように宮の奥へと足を進めた。
扉の外に残された僑は、迎えにきた苞宰相にぽそりと呟いた。
「兄上は綺麗だ...。それにとてもいい匂いがしていた」
「玲さまは『姚月』にございますから」
宰相は素っ気なく答え、僑を暁宮に帰らせた。僑の背中を見送りながら、髭に隠されたその唇が闇の中でひっそりと呟いた事を知る者は誰も知らなかった。
―そろそろ......か―
白い月が間もなく望になろうとしていた。
玲は月明かりの下で、夜具を握りしめ、ただひとりで嗚咽していた。
――――――――――
「我れのせいだ.....我れが『姚月』などになってしまったから.....父上を哀しませたから...」
翌朝、父の死去の報を聞いた玲は、珪に力なく呟いた。
「そのようなことはありますまい」
珪は、女物の弔衣を玲に着せ掛けながら慰めの言葉を探した。が、深海の底にでも沈んでいくのではないか.....と真剣に思うほど玲の嘆きは深かった。その日から玲の顔から笑顔は消え失せ、深い憂鬱の中にその心は閉ざされた。
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