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第4話

その日は、突然にやって来た。  朔宮に移ってから幾つかの季節が過ぎたが、玲の日々は陰鬱なまま、無情に行き過ぎるばかりだった。好きだった剣や矛を手に取ることも許されず、かろうじて書物を読み、楽を奏でることで気を紛らわせてはいたものの空虚な日々であることに変わりはなかった。  食も碌に取らず、床に就いても満足に眠ることができない。玲はひたすら、父の失望とその死に対して自らを責め続けていた。 「大概になされませ。お身体を壊しますぞ.....」  相変わらず、出された膳に箸のひとつもつけようとしない玲に珪は眉をひそめて言った。 「本日は、僑太子さまがご挨拶にられます。少しもお元気な姿を見せて差し上げたら如何がですか?」 「僑が......」  父の王も亡くなり、玲が『姚月』であることが判明した今、次男の僑が王となるのは自然な流れだった。伝え聞く処によれば、僑自身が―自分は王位に就くにはまだ若輩だから......―とのことで、まずは太子となり、父の弟である寧大夫を王位につけ、政権を担う補佐をすることを希んだという。 ―寧殿は、温厚なお方ですから......―  寧大夫は、生来虚弱な質で執政という激務には向かない。が博学で見識の深い人物だ。実質的な政務を握るのは苞宰相であろうが、僑太子にはいい勉強になる......珪のその見解には、玲も異論は無かった。  先頃、立太子の儀式も済ませた僑が何の挨拶であろうか.....と訝りながら、玲は少しばかりの粥を啜り、衣服を整えた。  既に男子の袍を着ることは許されなくなっていた玲は、先頃、僑が―兄上さまに...―と届けてきた青みがかった紫の襦裙に、金糸で唐草の刺繍の施された上衣を羽織、髪を束ねた。朔宮に入ってより禁じられた髪は背中の半ばほどまで伸びており、玲はそれを同じ淡い青紫の髪紐で括り、玲の瞳と同じ翆玉の嵌め込まれた金の簪を挿した。  いずれも、僑が―ご機嫌伺い―と称して側近の魯大夫に頼み込んで誂えさせたものだった。 ―我れは女ではない.....―  そう言って眉をひそめる玲を魯大夫は ―兄上さまの無諒をなんとか慰めたいとお思いなのですよ。お受け下さい― と人のよさそうな笑顔で宥め、僑の使いとして度々、珍しい装飾品や菓子を運んで来るのだ。  珪が用心して毒味を申し出ても一切かまけない様子に、玲も僑を疑うことを止めた。 ―それに.....―  毒を盛られて殺されたとしても、もはや惜しむ身では無かった。いっそ殺してくれたら.....とさえ思っていた。 「兄上、ご機嫌いかがですか?」 「悪くはない...」  しばらく見ない間に、弟はすっかりと大人びていた。背丈は既に玲よりも高く、武術で鍛えているであろう体躯は逞しく、肩幅も身の厚みも玲の二倍ほどでもあろうかと思われた。 「本日は、如何なご用向きにございますか、太子さま。......何やら挨拶と伺いましたが」  茶器を前に首を傾げる玲に、弟は面映ゆそうに、日に焼けた顔を綻ばせながら、従者に目配せをした。 「挨拶というのは口実です.....兄上のお顔が見たかったので.....そうそう珍しい菓子をお持ちいたしました。どうぞお召し上がりください」  それは、梅花を模した小さな饅頭だった。枝を模した飴細工に蜜で貼り付けられていた。   「これは見事だな.....」  その細やかな細工に玲も息を呑んだ。 「味も素晴らしいですよ。ささ、おひとつ.....」     僑が枝から花を手折るように饅頭をもいで玲に手渡し、自分もひとつ口の中に放り込んだ。 「いかがですか?」   「美味いな......」     それは実に甘く、口の中でほどけるように溶けた。   「では、もうおひとつ....」    勧められるままに菓子の花を啄む玲を僑の眼がじっと見つめていた。 「いかがした?」  玲が不思議層に尋ねると僑は微かに顔を赤くして口ごもった。    「いいえ.....兄上は本当にお美しい...」     「あまり嬉しくはないな.....」      茶を一口含んだその時だった。急に視界がぼやけ、玲は碗を取り落としそうになった。いきなり脈拍が上がり、動悸が激しくなった。 「どうなされました、兄上?」 ―身体が熱い.....―玲は、僑の身体が椅子から立ち上がり、揺れる視界の中ですぐ間際に迫っていた。   「大事ない......今日は、もう.....これ....で」    熱に浮かされ、はぁはぁと荒い息を吐く玲の耳許で、声変わりが終わり男になった弟の声が囁いた。 「いいえ、兄上。まだ大事なお話が残っております」 「大...事な...はな...し?」 「兄上の初花を我れにくだされ」 はっ.....として身をかわそうとしたが、脚に力が入らなかった。平行を崩して倒れかかった玲の身体を力強い腕が抱きしめた。 「好きだ、兄上.....」 「僑.......?」  熱い唇が玲のそれを塞いだ。押し退けようと突っ張る腕から力が抜け、玲は頭が真っ白になっていくのを感じた。 ―閨月が.....―  遠くで誰かの声が言った。 ―始まってしまわれた.....―  それきり、玲の意識は途絶えた。最後に目に映ったのは異様に赤い月だった。    

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