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第8話
折しも、大国である遼が近隣の国に侵攻を始めた。
報せは韋国にも届き、宮廷は騒然としていた。
近隣の国々は遼への忠誠心を示すために、こぞって宝物や選りすぐりの美姫を献上し、遼の皇帝の機嫌を取ることに躍起になっていた。
「行っていただけますか...」
寧王は朔宮を訪れ、玲に切り出した。
「遼の帝の妾となれ.....との仰せになりますか」
「『姚月』は稀なる至宝、お子を成せば皇后の地位を与えられるやもしれませぬ」
「皇后.....ですか」
玲は思わず溜め息をついた。
数多の女達に混じって、ひとりの男の寵を競うなど玲にはおおよそ想像のつくことではなかった。が、選択の余地は無かった。
一刻でも早く、韋国を離れることが、玲の出来る事の全てだった。玲は承諾し、輿入れは三月の後の、『閨月』の障りの過ぎた後と決まった。
―『閨月』に長旅は出来ませぬ―ほ
という方士白恣の進言もあっての事だった。
僑は猛然と反対した。しかし、玲は毅然と言い放った。
―遼と戦って勝てるのか?我れひとりで平穏が安堵されるなら、容易いものではないか―
―兄上.....―
―僑、そなたは王となる身ぞ。国の事を第一に考えよ―
そのかわり、玲は『閨月』の間、僑の全てを受け入れた。その声も眼差しも、存外にしなやかな指も......永遠の別れとなるであろう弟の全てを肌身に刻んだ。僑も同じだった。何時にもまして丁寧に、玲の肢体の隅々まで唇を押し当て、舌を這わせ、その全てを味わい尽くすように行為に没頭した。
珪は次の間で、兄弟の言葉にならない惜別の呻きを聞いていた。そして、玲よりも残される僑の身が、ふと不安になった。
その日は避け難くやってきた。出立の朝、美しく着飾った玲太主の姿はどんな女よりもたおやかで目映いばかりに輝いて見えた。
「行ってまいります.....」
王宮の広間に居並ぶ王族や貴族達に胸を張り、別れの挨拶を述べる玲の瞳は静かだった。
「王さま、どうか末永くお健やかに.....僑王太子、よく王さまをお助けして、良き後嗣となられますよう...」
深く頭を垂れ、涙を堪える。自分が担うはずであった国の未来は既にその手を離れ、この座に居並ぶ人々に託されたのだ。
「幸多からんことを...」
未練を絶ち切るように踵を返した玲の背中に、僑の低い嗚咽が聞こえた。
―もはや、我れは振り向かぬ―
ぐいと顔を上げて輿に乗り込む。道中の護衛はごく僅かだが、珪も白恣もいた。櫂虎も切に願い出て同行を許された。
「出してくれ......」
「兄上......!」
僑の悲痛な叫びは、風に紛れてもう聞こえない。玲は静かに眼を閉じた。
出立の前に、わざわざ朔宮を訪ねてくれた寧王の事を思い出していた。
―餞別がわりに....―
寧は朔宮の玲の客間で、すく....と立ち、後ろを向いた。長衣の襟をくつろげ、唖然とする玲の前に背中を晒した。
―王さま、これは.....―
酷い火傷に引きつれた皮膚が痛々しく、玲は思わず眼を伏せた。その頭上に寧の優しい声が淡々と告げた。
―ここには、貴方と同じような痣がありました。...ある方に騙されて、ある薬を飲まされて.....。私は侍従に命じて焼かせました。だが『姚月』の性から逃れることは出来なかった。身体を壊したことで人目から逃れられたのは幸いでした―
―王さま、騙されたと知りながらなぜ隠しておられたのです。訴えれば.....―
半ば悲鳴のような声を上げる玲に寧は静かに言った。
―実の母を訴えることなどできますまい.....―
玲は言葉に窮した。玲の父と寧は同じ母を持つ兄弟だ。幼少より聡明と言われていた寧が兄である玲の父を脅かすような事があってはならない.....母の哀しい過ちだった。
―初めは母を恨みました。けれど愚かなまでに、息子達を愛していた―
寧の母は、寧の焼け爛れた背を見て、己のが過ちを知り、自責のあまり正気を失った。寧は薬の副作用と火傷の後遺症のために長く床に臥せっていた。
―寧王さまは、『嘉陽』なのでは...―
玲が恐る恐る尋ねると、寧は―あぁ―と小さな声で言うと、厳かに振り向いた。その胸には牡丹の如き痣が赤い花を咲かせていた。
―このような事になる宿命とは思いもしなかった....―
『姚月』の性をもて余しながら、学問に打ち込み、そうして一生を終えられるものと思っていた.....と寧は言った。
―お辛くはなかったのですか.....―
苦しげに問う玲に寧は微かに微笑んだ。
―崔がいてくれましたから......―
項に残る噛み跡は番の証だ...と寧は言った。
―いずれ貴方さまにも番となる方が現れましょう―
―しかし、私は遼の皇帝の妾にと.....―
―表向きは.....です。皇帝陛下には、玲さまに良き方が出来たら、番の許しをいただけるよう、お願いしております―
遼の皇帝は、仁君だし、高齢だから....と寧は付け加えた。
―遼にお味方をお作りなされ。そうすれば...―
どこまでも優しい寧王に玲は涙を流した。そして、玲の輿入れの列を冷ややかに見送る宰相と茱妃の何やら不穏な眼差しに一抹の不安を感じた。
―崔将軍が守ってくだされている....―
玲は、ふぅ.....と息をつき、輿の帳を降ろした。
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