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第1話

初恋は実らない。 誰もが考えたことのある言葉だろう。 初めてだからこそ手探りで、心焦がし求めたものを手にする術がわからない。 そんな話しを行きつけのゲイバーでしたせいなのか、昨夜から頭に浮かんでは沈めての繰り返しだ。 (繁華街の帝王とか言われてても、初恋は実ってへんもんなんか…) どこかしっとりとした色気を漂わせる彼の唇から発せられた声で言われてしまうと、自分の初恋も泡となって消えたのが当たり前だと思えてしまう。 長く胸を締め付けていたあの感情と、心の芯に残るイメージは間違いなく今の汐月を作り上げているが、ほんの少しだけ、その色が淡い思い出になりそうな気がした。 (とはゆーても。由人くんには幸せでおって欲しいなぁ…) ゲイバーで知り合った彼は、恋人と同棲していると言うのに、いつも愚痴を零していた。 好きな相手に受け入れられて生活を共にする状況が、いかに恵まれているかを理解していない彼が口にする悩みは、汐月からすれば羨ましいものだ。 贅沢なその唇が尖る度に抓ってやっていたが、もっと赤く腫れるほどやれば良かったと思った。 汐月にとっての初恋は、一般的なものとは違うかもしれない。 それでも、自分の中で丁寧に細かくすり潰して飲み込めるようにして生きてきた。 「元宮くん、レジが混んできたから入ってくれるかな」 掛けられた声に顔を上げて返事をした汐月は、閉めていたレジに入った。 従業員コードを打ち込みながら『隣のレジへどうぞ』と書かれている立て札を避け、列にいた客に声をかけた。 「大変お待たせ致しました。先にお待ちのお客様、こちらのレジへどうぞ」 平日の開店直後だが、今日が発売日となる人気作家の本を目当てにした客が多い。 列に並ぶ客達の手にはその分厚いハードカバーがあった。 二年振りに発売となった事もあり、昨日からテレビでも話題になっていた。 書店入口を入ってすぐ、目立つ場所には特設コーナーを設置して、新刊だけでなく既刊も並べている。 昨夜遅くまでその作業に精を出したお陰なのか、新作だけでなく既刊を手にする客も多い。 慣れた手つきで客を捌いていた汐月は、最後に並んでいた客が差し出した予約の紙を目にした。 (...またこいつか。わざわざオレの列に並ばんでもええやろに) 感情が顔に出ぬよう客に背中を向け、お待ちくださいと伝えた。 予約した客の取り置きを並べている棚に並ぶ本と手にした紙を照らし合わせつつ、見つけたものを掴んだ。 「お客様、こちらでお間違いないでしょうか」 視線を合わせたくなかったのに、その男性客は「あ」と声を出した。 反射的に顔を上げると、汐月と視線が合った。 「あ、あの、大丈夫です。その本でお願いします」 「...かしこまりました」 何度か接客したことのある客だが、おそらく汐月よりは若いだろう。 取り立てて目立つ顔立ちでもないが、さほど地味でもない。ただ、予約した本を取りに来る度にどことなく挙動不審な気がしていた。 「ご利用ありがとうございました」 本を入れた袋を手渡すと、何か言いたげにした口元に気がついたが、しゃがみこんで作業をする振りをしてカウンターの中に隠れた。 「ちょっと落ち着いたね。...って、何してるの?」 隣のレジで接客をしていたアルバイトに声をかけられ、唇の前に指を立てて眉を寄せた。 彼はフロアの方に顔を向けた後、同じ様にしゃがみこんで汐月に顔を寄せてきた。 「元宮さんの苦手な客ならもう出てったよ。...赤い顔してたけど、もしかして誘ったの?」 ニヤニヤとする彼の腕の肉を摘んだ汐月は指先に力を入れた。 「いった!」 「誰が誰を誘うんやて?」 「痛いよ、ごめんなさい。許して」 「その話を店ですんなってゆーたやろ」 「本当にごめんなさい。もう言わないから、お昼はご馳走させて?」 汐月が頷くように仕向けた様だ。彼の思惑通りになるのは嫌だったが、昼食代が浮くのは正直嬉しい。 汐月は彼の頬から指を離し、しゃーないなぁ。と笑った。 揚げたてのエビフライは噛むと心地良い音を立てる。 厚すぎない衣のお陰で、口の中に弾力のある海老の美味さが広がった。 「んん、めっちゃ美味しいっ」 「...そりゃそうでしょうね」 勤務先である書店から少し遠い場所にある洋食店だが、汐月はここのオムライスが大好きだ。 「まさかオムライスに特大エビフライのトッピングされるとは思わなかった」 「ご馳走してくれるてゆーたやん」 「...昼は誘ったら来てくれるのになぁ」 向かいに座る職場のアルバイト店員である彼は、ランチセットであるハンバーグをフォークで刺してゆらゆらと揺らしている。 「行儀悪いで、ちゃんと食べや」 「ねぇ、元宮さん。いつになったら俺とエッチしてくれるの?」 言った後ハンバーグを口に入れた彼は、咀嚼しながらじっと汐月を見つめている。 職場のアルバイトである彼と、行きつけのゲイバーで出くわしてしまったのは半年ほど前だ。 不運な偶然を味わったあの日から、彼はずっとこの調子だった。 「...仲くん」 「やだなぁ。いい加減凛太郎って呼んでよ。俺もベッドの中では汐月って呼ぶから」 明るい色をした前髪をかきあげて笑顔を見せる彼は、所謂イケメンというやつだろう。 部分的に見れば目立つものはなくても、彼の顔立ちや雰囲気はほのかに甘く、いつも笑顔を絶やさない。 「仲くん。何回言われても無理やで」 「一回だけでいいのに」 「...洋食店でする話しちゃうわ。はよ食べや」 職場で顔を合わす者を相手に、一晩限りの遊びはできない。 寝るならばしっかりと選ばないと、あとが怖い。それは汐月がゲイだからと言うだけではない。男女間でも同じ事だろう。 複数回寝る相手が居ない訳では無いが、こちらより上手の遊び上手でなければ歪みが生じる。 「...恋人でもいいんだけどなぁ」 食後に運ばれてきた小さめのカップに入ったコーヒーを飲みながら、仲はそう呟いた。 カップに口をつけたまま、上目遣いでこちらを見る。 あざとい視線に魅力は感じるが、職場のバイト相手なんて有り得ない。 「仲くん。見かける度にちゃう相手連れてる奴の言葉なんか信じられわけないやろ」 「やだなぁ。元宮さんが見たのは友達なのに」 「ヤる友達やろ」 「.....合意だよ。元宮さんが嫉妬するような相手じゃないし」 「誰がヤキモチやいとんねん。都合いい解釈しなや」 カップに残ったコーヒーを飲もうと持ち上げると、デニムの膝に仲の手が触れてきた。 テーブルの下で伸びてきたその指が、意志を持って膝を丸く撫でる。 「付き合ってくれるなら他の誰ともしないよ?」 彼と親密そうに身を寄せて歩いている相手は、みんな女性だった。 (同じ様な扱いすんなっちゅうねん) 残りのコーヒーを一口で飲み干すと、席を立った。 「先に戻るわ。どーもごっそさん」 「えっ、待ってよ、元宮さん!」 洋食店を出ると、強い陽射しに目を細めた。 すれ違う人達の服装も軽やかなものに変化している。 汐月は季節の移り変わりを、温かい空気を吸い込んで味わった。 予約表に書かれたタイトルと本の表紙を照合しつつ、汐月は細い溜め息をついた。 (...またエグいタイトルやなぁ) 汐月の勤める書店ではネットで予約ができる。取り寄せも勿論だが、予約した商品を自宅に配達することが可能で、この類の書籍は配達が多いのだが。 数日前に来たところだった常連客は、汐月が商品を袋に入れている間もこちらを凝視していた。 「お待たせ致しました。いつもありがとうございます」 商品を手渡しながら心の中で安堵したのだが、常連客はレジの前から移動しない。 「...あ、あの」 「はい」 また別の本の予約だろうかと考えていたが、常連客の彼は小さな紙切れを汐月の前に置くと、一礼して走り去って行った。 「え、あの、お客様っ」 声をかけたがもう見失ってしまった。仕方なく置いていかれた紙を手にして開くと、そこには四文字だけが書かれていた。 「元宮さん。どうかした?...何見てるの?」 汐月より遥かに身長が高い仲に覗き込まれてしまった。 「....え?ラブレターじゃん、それ!」 「デカい声で言うな」 「なにそれ、誰に貰ったの?俺よりイケメンだった?」 思わず仲の顔を見上げた。 常連客と言えど、はっきりと顔を記憶しているわけではないが、仲の方がレベルは高い。 今時の若者らしい仲とは正反対の印象だ。 髪も黒く、いつも作業服を着ていた。おそらく仕事の帰り道なのだろう。 「...やば、元宮さん。すげぇ、可愛い...」 見つめ過ぎていたらしく、頬を少し染めて顔を寄せてきた仲の顔を掴んで押さえ込んだ。 「イタタタッ、ちょ、痛いって、元宮さんっ。見つめてくるからキスして欲しいのかと思ったのにっ」 「だから、デカい声出すなってゆーとるやろ。ええ加減にせぇよ」 職場で性嗜好が広がるのは避けたい。何度も仲にはそう伝えているのだが、緩い彼にはなかなか理解して貰えていなかった。 「...どうすんの?それ」 「どうもせぇへん」 「え?でも顔合したら気まずいじゃん。次から俺が接客するけど」 「別になんて事ないやん。そんな気にせんでええから、はよ倉庫の整理してきてや」 ブツブツと文句を言う仲がレジカウンターから離れた後、紙切れをデニムのポケットに入れた。 平仮名で書かれた四文字。 すきです そのたった四文字は、汐月に懐かしい記憶を思い出させた。

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