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第4話

髪を切り終わって外へ出ると、冷たい風が肌に当たって驚いた。昨日よりも気温が下がっている気がするが、短くし過ぎた髪のせいもあるのだろう。 知直との約束の時間は僅かに過ぎていたが、いつもの焼き鳥屋に先に入っているとメールが来ていた。 早足で歩きつつ、寒さに肩を縮めた。 今日も、白澄からは何も連絡はない。 学生の頃とは違うのだから、留学で来れない訳では無いだろうし、いつまで来ないのだろう。 あまり考えないようにしていたが、久しぶりに感じる首元の淋しさが嫌な予感ばかり春に思い起こさせている。 やっと見つけた理想の結婚相手に本腰を入れるためじゃないだろうか。例え出張だと聞かされていても、会社も違えば偶然顔を会わすことは無い。 そもそも、恋人でもなんでもない春は、白澄のする事に不満を言える立場ですらないのだ。 いや、と自分の中に浮かび上がる悲しさをぐっと抑え込んだ。 それでいい。白澄が望むとおりにしていれば、彼は春に触れてくれる。普通の友達では与えて貰えないような甘さと激しさで春を満たしてくれるのだ。それが何よりも最優先で、春の全てだ。 (ブレるな。俺が揺げば一緒に居られる時間が減ってしまう) 自分にかける呪文の様に繰り返し唱えている。 「春!」 居酒屋の暖簾をくぐって、引き戸を開けると同時に呼ばれた。視線の先にいたのは知直一人ではなかった。 誰だろうと思いながら席に近付くと、知直の隣いたショートカットの女性にこんばんはと挨拶をされた。 「…こんばんは」 「ごめんな、どうしてもお前に会ってみたいって言うからさ」 二人が並んで座る向かいに腰を下ろしつつ、親友の新しい恋人かと気が付いた。 「初めまして、春さん。私、風美歌(ふみか)です。知直の新しい彼女としてよろしくお願いします」 親友が恋人を飲みの席に連れてくるのはこれが初めてではないが、庇護欲をそそる事を演じているような女性が多かったので、握手を求められて驚いていた。 「ど、どうも。大滝春です」 「春、ビールでいいよな?」 頷くと目の前にいる風美歌が、先に頂いてますとジョッキを持ち上げた。 「昨日はすみませんでした。私が誕生日だったから、知直がこっちを優先してくれたんです」 「おい、いちいち言わなくていいっての」 「あ、ううん。急に誘ったのはこっちだし、そんな…大切な日にこっちこそごめんね」 知らなかったとは言え、これからは気をつけた方がいいのかもしれない。 テーブルに春の分のビールが運ばれてきて、改めて三人で乾杯をし直した。目の前に初対面の女性がいる事で、いつもより味がよく分からない気がしたが、知直に話しかけられることに返事をしつつ、二人のやり取りを聞きながら無心で口を動かせ焼き鳥を食べた。 ここ数日は食事がかなり適当だったので、きちんと食べるのは久しぶりだ。 頻繁に白澄と会えると、彼が食事をしっかりとる方なので、春も自然と毎食食べるのだが。 「でね、春さん!観たいって言うから映画館に行ったのに、急にホラー映画に変更するんですよ」 「ホラーって、大層なもんじゃなかったろ?」 「苦手な私からしたら同じなのよ」 「別にゾンビとか出てくるやつじゃねぇじゃん」 「怖いのは同でしょ。ね、酷いでしょ?恋人に配慮するってのが抜けてるんですよね、知直って!」 よくそんなにポンポンと話が弾むものだ。あまり興味のないバラエティ番組を流しながら食事をしているような気分になってきた。 「春さんならどうします?映画に行こうって言って、自分も見たいやつだから一緒に来たのに、いざ入る時に見たくないやつにしたいとか言われたら!」 「……え」 「つまんねぇ話を振るなよ。春、無視していいからな」 「ちょっと、そんな言い方ないでしょ?私の事蔑ろにし過ぎじゃない?」 投げかけられた質問に応えることは、至極簡単な話だ。 「…俺は、好きな人が観たいならそれでいいよ。どうしても観たかった映画ならまたレンタルされてから観ればいいけど、好きな人と一緒に見れる時間の方が大事だと思うから」 白澄と一緒に居られるのならば、特に何をするのでも構わない。何も話さずに隣で本を読んでいても、他の女と電話で話していても。そばにいられるのならば、離れているよりはいいから。 普段知直に話しているのと同じ様に返事をしたあとで、我に返った。 「…やだ、可愛い…」 「えっ、あ、ごめん。あくまで俺の考えだから気にしないで…」 誤魔化すようにジョッキを掴むと、その手を風美歌に掴まれてギョッとした。 「乙女!知直に聞いてた通りだわ、春さんって正真正銘乙女!」 スーツ姿の男に向かって力強く言う言葉ではない気がしたが、もしかしたら酔っているのかもしれない。どちらにせよ、あまり触れて欲しくなくて、ビールを飲むフリをして彼女の手から逃れた。 「お前、いい加減にしろって。悪い、春」 「…大丈夫、知直が謝ることじゃない」 「じゃあ、柾の予想は当たってるのよね。操立てるんでしょ?」 突然投げられた質問の意味がわからなくて固まると、知直も理解できなかったらしく目を丸くしていた。 「誰だって?まさき?」 「私のね、従兄弟なの。なかなか相手にして貰えないから本命が居るんだろうなって落ち込んでたから」 「…話が見えねぇって。なに?お前の従兄弟が何でそこで出てくるんだよ」 「柾よ。菅谷柾(すがや まさき)って言うんだけど、春さんと同じ会社なの」 その瞬間、言われていた事が理解出来た。耳にするまで名前を思い出しもしなかったが、トイレや駅前で接触してきた彼の事だ。過去に二度も春を飲みに誘ってきた男の姿を思い浮かべて、最悪だと思い切り顔に出してしまった。 「あは、春さんてば、すっごく嫌そうな顔してる!そうよね、柾ってしつこくてネチネチしてるから、何度も声かけられてウザいんじゃないかな」 感じていた事をズバリ言い当てられてしまって返答に困窮すると、いい加減にしろ。と知直が彼女を睨んでいた。 「知直、いいんだ。…ほ、本当の事だから…」 上手く躱す方法も思いつかなくて親友を宥めたが、違う意味で怒らせてしまった。 「ま、マジかよ、お前っ。困ってるなら俺に言えよ」 「そんなに大したことじゃないよ。ちょっと…しつこいだけで、上手く断れない俺も悪いし」 「ダメよ、春さん。柾は上手く断れないようにわざとしてるんだから。そんなんじゃ、言いくるめられてお持ち帰りされちゃうわよ」 先程から妙に大胆な物言いをする彼女は、菅谷がゲイだと知っているという事だろうか。 「…柾はバイなんだけど、好きな相手にはとことん尽くすタイプなの」 考えていた事を読まれてしまった。バイという名称は、白澄を連想させる。 「ただね、粘着質だから。外見はイケメンだし仕事もできるから恋人はすぐに出来るんだけど、重すぎるみたいで逃げられるのよね」 「風美歌。その従兄弟に言っておけよ。春には手を出すなって」 「…教えてくれたらそうするわ。春さん、恋人がいるの?」 そうだと一言言ってしまえばいい。そうすれば、彼女から菅谷に迷惑な事をするなと念押しして貰える。 なのに、そんな単純な事が春の口からは出なかった。 「…いるよ、春には」 「どうして知直が答えるのよ」 「お前の従兄弟だから遠慮して言えねぇからだよ。春にはちゃんと相手がいるって、伝えておけよ」 これまでも、何度も知直の恋人とは会ってきた。その中でよく言われたものだ。 親友だとか言いながら、知直の事を狙っているんだろう、と。 馬鹿馬鹿しい女の嫉妬は、春の不快感を色濃くしていく。目の前の風美歌もそうなのかもしれない。従兄弟の話をしつつ、春の本音を探りたいのだろう。 白澄と寝た事のある女達と一緒だ。自分達の方が当たり前の様に優位になのに、わざわざ足元よりも下を見て唾を落としてくる。 せっかく親友が恋人を紹介してくれたが、今回も無駄に憎まれてしまうのだろう。 親友の幸せは大切だが、春にとってはその恋人の感情に振り回されるような暇はない。 何をどうしたって、いつも白澄の事で頭がいっぱいだからだ。 それを視覚化出来たのなら、嫉妬なんてしなくても済むのに。そう思ったが、逆の立場になったらと考えて怖くなった。 白澄の心の中を占める存在の中に、自分が欠片もない事実を突きつけられたら。 アルコールで上がっていた体温が一瞬にして恐怖で冷たくなっていく。 春はその怖さから逃げる為に目の前のジョッキの中身を飲み干して、おかわりを頼んだ。 夜中に背筋が寒くて目を覚ました。 風邪をひいていたのに髪を切ってしまったせいで、悪化したようだ。 それに重ねてビールの飲み過ぎだろう。ビールは内臓を冷やすから程々にしろと、白澄はよく気にかけてくれていた。 白澄。今度はいつ会えるのだろう。しばらく会えないと言われたあの朝が最後だったら。そう考えてまた寒さに震えた。 体に巻きつけていた毛布の中から手を伸ばし、ベットの下に落としていたコートを掴んで引き入れた。 昔から当たり前の様に泊まりに来るくせに、彼はその跡を残さない。ネクタイもシャツも下着の一枚も、春の部屋に彼の私物はない。 それはきっと、未来を共にしたい相手ではないからだ。 終わりにしたいその瞬間に、全てを切り離せられるように。そう考えていることは知っている。 だから、春の手元には彼が選んでくれたコートぐらいしかない。 あぁ、冷蔵庫の中には彼が買ってきてくれたプリンがあった。 あとは、白澄が来た時に好んで使う紺色のマグカップ。 特になんてことない、ありふれたマグカップだ。 けれど、彼が使う度に春の中で世界で一番大切なものに変化する。 人を好きになるというのは、そういう事だと思う。 「……白澄…」 連絡もなく、顔も見れない。切なくて苦しい。 このまま二度と会えないとして、何度恐怖を乗り越えれば楽になるのだろう。 細く息を吸い込んだ春は、毛布の中で咳き込んだ。 苦しい。喉が痛くなってきた。顔は熱く感じるのに、寒くてたまらない。 神様。幸せな気持ちになれなくてもいいから、彼に会わせて下さい。 咳き込みすぎて滲んだ涙をそのままに、春はひたすらそう願っていた。

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