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第3話
出勤時から春の鼻を忙しくさせていたくしゃみは、夕方には存在感を大きくしていた。
帰り支度をしていたが鼻が垂れてきそうだ。とりあえずトイレへ向かった春は、ポケットからティッシュを取り出して鼻をかんだ。
「あ〜…」
勢い良く鼻をかんだせいで耳がおかしくなり、一人で間抜けな声を出してしまった。たった数時間で立派な鼻声になっている。
昨夜はアポなしで来てくれた白澄の腕の中で眠ったのに、先に出勤する春に彼が放った言葉のせいだ。
ビジネスシューズを履いてドアノブに手をかけた春は、振り向かないまま分かったと返事をして自宅を出た。
早足で駅へと向かいながら同じスーツの背中の群れを眺めていた春の足は、徐々に速度を落とした。
立ち止まらずに出勤した自分を褒めてやりたい。ミスもせずに一日の仕事も終えることが出来たし、定時で帰れる。
なのに、心の方は白澄のせいで冷えきってしまったらしい。
丸めたティッシュを備え付けのゴミ箱へと入れた春は、ゆっくりとその場にしゃがみこんだ。
少し前にリフォームされたトイレはどこも綺麗なのに、このゴミ箱だけは以前から使っているもののせいで、場違いに薄汚れている。灰色の側面には何かが擦られてついたような汚れがあり、社員達のストレスを受けてきたのだろうか、なんてことを考えた。
『春、俺しばらく来れないからな』
神様は意地悪だ。何一つ我儘も言わずに健気に一人を想い続ける春に対して、厳しい試練しか与えない。
「しばらくって…いつまでの事なのかな…」
ぐす、と鼻を啜って携帯を取りだした春は唯一の親友にメールを入れた。
これはダメだ。今夜は知直に愚痴を聞いて貰おう。彼に何を言われるかはもう分かっているが、いつもと同じ慰めだとしても一人で抱えては夜を過ごせない。
ご飯行かない?という、短いメールの返事は同じ様に一言だった。
悪い!デート!
「……デート」
呟きが誰もいない空間に響くと、尚更寒さを感じてしまう。そうか、知直も白澄に劣らないほどモテるんだった。最近はそんな話もあまり聞かされていなかったが、好きな相手ができたのなら喜ばしいことだ。
春は知直からのメール画面を眺めたあと、仕方ないかと立ち上がった。
軽く感じる目眩に、帰りはドラッグストアで風邪薬とビタミン剤を買わなきゃと呑気に考えていた。立ちくらみなんて特別珍しい事ではないが、ゴミ箱の側の壁に肩をぶつけた。
「危ないっ」
春はかけられた声の大きさに驚いて肩を竦めた。同時に抱き締められすぐに離れようとしたが、携帯を持っていた手首を掴まれ逃げ出せない。
「大丈夫?」
二度の誘いを断った相手に至近距離で問いかけられるのは正直気まずい。
「だ、大丈夫です。すみません」
手首を捻り離してくれとアピールすると、ごめん。と解放された。
彼が謝る必要は無いのだが。どう言えばいいのか躊躇して俯く春の顔を無遠慮に覗き込んできた。
「やっぱり。大滝くん、朝から顔色悪かったよね。もしかしてかなり辛いんじゃない?」
「…いえ、大丈夫です。すみませんでした」
顔をあげないまま頭を下げた春は、話しかけられないようにトイレから出た。フロアにある鞄を手にして閉じかけていたエレベーターへ飛び乗ると、地上へ着くまでの間に知直に返信を済ませた。
(俺なんかに構ってくるなんて優しい人なんだろうけど。あぁいうイケメンは女の人達だけ相手してりゃいいのに)
学生の頃の経験があるせいか、春は注目されるのは好きじゃない。職場でもただ仕事が出来ればそれでいいのだが、あの手のタイプに絡まれると変に目をつけられて後々トラブルの元になる。
思い出されるのは大学時代だ。白澄が春と寝たことを「昨日バイトでさ」と、日常会話のように仲間内で明かした事が原因で、春は頻繁に白澄のセフレに呼び出されることになった。投げつけられる文句は誰も似たようなものだったが、当時まだ白澄に好意を持っていなかった春は大胆に煽ったものだ。
(俺が気分じゃないって言っても向こうから来るんだから、文句は向こうに言えばいいとか…言ったことあったよね…)
男を試してみたいなんて初対面で言われたことから始まったせいで、今考えると有り得ない態度をとっていた。だが、白澄は他の女の子達よりも春と一緒にいる時間の方が長かった。女よりいいと言った彼の感想が事実だったからだろう。
彼への気持ちを自覚してからは、バレンタインやクリスマスといったイベント毎に自分の立場を思い知らされたが、彼との関係は大学を卒業しても継続されている。
(いや、まぁ。もう最後通告されたようなものだけどさ)
日が落ちるのが早くなった帰路で、歩きながら大きなくしゃみをした。
駅の改札を通る前に人並みを避けて端へと移動し、ポケットに手を突っ込んだが、目当ての物がない。
(あれ?ティッシュがない)
中身はまだ入っていたはずのポケットティッシュがなくて、反対側のポケットもズボンも探したが無い。
どうやら先程のトイレで落としてきたらしい。
視界に入ったコンビニで買うしかないかと鞄の中から財布を取り出したところで、目の前に求めていたものが差し出された。
てっきりティッシュ配りの物だと思って反射的に掴んだが、目の前にたっていたのは職場のトイレで振り切ってきたはずの相手だった。
「良かったら使って」
「や、いえ。コンビニ行くんで…」
「いいから。ほら、」
彼は春の前で新品のティッシュを開けて取り出すと、春の鼻に押し付けてきた。
「鼻水垂れてるよ」
「えっ」
隠すように押し当てられたそれをそのまま受け取ると、控えめに擦って鼻水を拭った。
「あ、ありがとうございます…」
「駅前で配られてたやつだから、気にしないで。それより、もう結構帰りは寒いから薄手のコートある方がいいよ。大滝くん、見てて寒そう」
言われてみて初めて気がついたが、目の前の彼も駅に吸い込まれていくサラリーマン達も、薄手のコートを羽織っている。成程、風邪も引くはずだ。
「それと、これのお礼って言うなら一つ頼みがあるんだ」
薄暗くなっているせいか、駅の明かりが彼を照らしている。こうして正面から確りと見るのは初めてだが、よく整った顔立ちだ。白澄の男らしい雰囲気とはまた違い、優しそうな印象が強い。
「その風邪が治ったら、飲みに行こうよ」
「……あの、俺と行っても別に楽しくないと思いますけど」
「楽しいかどうかは俺が決めることでしょう」
「ティッシュはありがとうございました。さっきも、別に支えてもらわなくても平気でしたけど、ありがとうございます。これは新しい物をお返ししますので、男の俺を相手に女の子を誘うような物言いはやめてください。迷惑なので」
辺りが暗くなってきていたせいか、物怖じしないで伝えることが出来た。春はきょとんとして固まった彼に頭を下げると、小走りで改札を抜けた。
自宅マンションの最寄り駅に着いてから、ドラッグストアで買い物をして帰宅した。
玄関の扉が背中で音を立てて閉まった瞬間、夕飯を買うのを忘れていたと思い出した。
知直と行きつけの焼き鳥屋に行けたらと考えていたせいだ。親友は今頃新しい彼女とデート。愛しい彼も、恐らくそうだろう。
学生時代に留学をした白澄と会えなかった時期もある。就職活動に忙しい日々を送り、タイミングが合わなくて会えずにいた事も。そのどれも細かい説明が逐一あった訳では無いし、白澄が泊まりがけのアルバイトに出た時には彼の取り巻きの女の子から知らされた事もある。
《なんだ。大滝くん、聞いてないの?セフレって本当なんだね》
勝ち誇ったような表情を思い出すと腹の底がざわざわとする。
(ご飯はいいや。ビールまだあったかな…)
リビングの明かりをつけると、室内はやたらと綺麗に片付けられていた。缶ゴミを纏めただけでなく、朝の出勤前に掃除機までかけていったらしい。
(朝の支度しながら家事までしちゃう白澄って、やっぱりめちゃくちゃカッコイイなぁ…)
思わず笑顔になり冷蔵庫の前に行くと、マグネットでメモが貼り付けられていた。
真っ直ぐな美しい文字で、乾燥機。と書かれている。
どうやら散らかっていた洗濯物も回してからここを出たようだ。
「…はぁい」
一人で返事をしつつ冷蔵庫の中を除くと、三個でワンパックになっているプリンが四つも入っていた。
どこのスーパーでも置いてあるこのプリンが春の好物だと白澄は知っている。
中には食べかけのプリンが放置されていたはずだが、それも片付けられていた。
冷蔵庫の扉を閉めた春は、それを背に床に座り込んだ。夕飯代わりに流し込んだビールは冷えた身体に追い打ちをかける。
「…さむ…」
冷蔵庫とビールの冷たさに身震いをした春の視界に、窓のカーテンレールに引っ掛けられたものが見えた。
ゆっくりと立ち上がり側へ行くと、それはベージュの秋コートだった。
確か去年のこの時期に、白澄と買いに行って選んでもらったものだ。服装や物にあまり頓着のない春の代わりに、彼はお洒落なものを選んでくれる。
気温が落ちてきたのだからちゃんと着ろという事なのだろう。
缶の中身を飲み干した春は、それをその場に落とした。床に落ちた薄い金属の音が部屋に広がり、淋しさを際立たせてしまう。
ハンガーから外したコートを抱き締めると、何故かもっと切なくなった。
春の身体を気遣ってくれたのだろうか。優しい。好き。大好き。会いたい。今すぐに抱いて欲しい。
焦がれて苦しい夜を過ごすのは何度目だろう。
覚悟が必要なのかもしれない。
いつかこんな日が来るとは思っていた。
ずっと続くなんて有り得ない。夢の中でもない限り、それは叶えられない。
「…優しいの…つらいなぁ…」
抱き締めたコートに落ちた雫が染み込んでいく。色を濃くするそれを手放せないまま、春は窓辺で静かに泣いた。
床の上でコートを抱いて眠ってしまい気がついたら朝でした。そんな間抜けな理由で遅刻はできない。慌てて出てきたおかげで白澄が出してくれたコートも忘れてきてしまった。
(間に合ったけど、頭…ぼんやりするなぁ)
走ってきたせいで滲む額の汗を手で拭っていると、周囲の社員たちがチラチラと春を見ていることに気がついた。
寝惚けてはいたが身なりはきちんとしているはず。だが、しばらくしても落ち着かない視線が気になって静かに席を立ちトイレへと向かった。
これは確かに目を引くだろう。洗面はきちんとしたが髪の毛にまでは注意がいかなかった。
春の髪は白澄の勧めで緩くパーマをあてている。適当にしていてもおかしく見えないからと気に入っていたのだが、最近は放置していた。寝起きのままでいた春の後頭部は鳥の巣が二つは作れてしまう程乱れている。
指を差し込んですいてみても落ち着かず、仕方なく水で濡らしてみた。
髪を切らずにいたのは、白澄が褒めてくれたからだ。
可愛いと言われた訳では無いが、一緒に過ごしている時に邪魔な前髪を彼が結ってくれたのだ。
幼い子供なら似合うだろうその髪型を眺めた彼は、満足気に笑っていた。それからはわざと髪を乱していると彼が纏めるようになった。
白澄が春のためにしてくれる小さなことが嬉しくて、美容室の予約はとっていなかったのだ。
(次にいつ会えるかわかんないし、もう切ろうかな…)
けれど、切ってしまうと結っては貰えない。
濡らし過ぎた髪から落ちた雫がジャケットの肩を濡らす。
やっぱり、どこかいつもの自分とは違う。いつもなら何か辛いことがあっても、さほど気にならなかった。彼に勧められた髪のうねりを鏡越しに見るだけで幸せな気持ちになれたのに。
(やっぱり切ろう)
その場で携帯を開いて美容室の予約をすると、知直からメールがきていた。
昨日のお詫びにご馳走するから。
親友の気遣いに自然と笑顔になった。春は親友との待ち合わせを美容室の後になるように時間を打ち込んで、濡れた髪を手で押えて仕事へと戻った。
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