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第44話

 過去に起こった出来事を知っている俺は、そんなことはないと気軽には言えなかった。  車がゆっくりと走り始める。  車内には重い沈黙が流れた。  ふいに膝に置いていた手を貴一さんに握られる。 「瑞樹。今日は驚いたし、疲れただろ。ごめんな」 「貴一さんのせいじゃないだろ」 「それでもお前のこと、ちゃんと守れなかったのは俺の責任だ」  貴一さんが俺の手を握る手に力をこめた。  その手に少し血痕が付いているのに気づき、先ほど起こったことを思い出してしまったが、俺は無理矢理笑顔を作った。 「誰が悪いわけでもないよ。そうでしょ?」  俺がそう言うと、貴一さんは片手で俺の肩を抱き寄せた。 「本当にごめんな。家に帰ったら、ゆっくり温めの風呂に浸かろう。お気に入りのラベンダーの入浴剤を入れて」 「ラベンダーの入浴剤が好きなのは、貴一さんだろ?」  笑ってそう言うと、信号待ちで止まった瞬間、貴一さんに軽く口づけられた。 「そうだった」  くすりと笑って貴一さんが言う。 「早く家に帰りたいな」 「うん」  俺は頷くと、貴一さんの肩に頭を乗せた。  その瞬間、貴一さんのスーツから甘いお義母さんの匂いがした。  俺は涙が零れるのを我慢するようぎゅっと膝に置いた手を握る。  優しい旦那様がいて、お腹にはその旦那様の子供が宿っていて、俺は幸せなはずなのに。  なんでこんなに泣きたいんだろう。  お義母さんを抱き上げる貴一さんの姿が脳裏に浮かんだ。  俺はその映像を吹き消す様に、大きく息を吐いた。  絶対に勝てない相手に嫉妬するなんて、無意味だ。  分かっているのに、俺の胸はいつまでもずきずきと痛んだ。

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