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第39話

「海…」 赤く濡れた唇が、吐息混じりに俺の名前を呼ぶ。 縋るように首に手を回す細い身体を抱き締めると、切なそうに吐息を漏らす。 身体を割り開き、最奥を穿つと喉をのけ反らせて喘ぎ声を上げる。 「海…海…」 背中にしがみつき、俺の名前を必死に呼ぶ声。 長い睫毛に涙が滲む。 そっと涙に口付けを落とすと、幸せそうに笑顔を浮かべて先生が俺を見る。 「先生!」 細い身体を抱き締めて、激しく突き上げる。 「あっ……、あぁっ!…」 赤い唇から漏れる喘ぎ声。 叩きつけるように腰を打ち付けて精を放つ。 「か…い……」 綺麗な涙が頬を伝う。 『P iP iP iP i』 目覚ましが鳴り響き、目が覚める。 最悪だ…。 罪悪感しか無い感情に頭を抱える。 汚したい訳では無いのに、触れたいと思う気持ちと、大切にしたいと思う感情で苦しくなる。 ベッドから起き上がり、シャワーを浴びて頭を冷やす。 その日から、毎日、先生を抱く夢を見るようになる。俺はそれを振り払う為に、朝と夜にランニングをするようになった。 泥のように眠れば、そんな感情も無くなるだろうと身体を酷使した。 部活も陸上部に入り、ひたすら走って煩悩を振り払っていた。 その日は学校の都合で、部活が休みになって早く帰宅した。 自宅に帰ると、玄関に男物の靴があった。 「ただいま〜」 リビングに顔を出すと、母さんがお茶の用意をしていた。 「お兄ちゃん、お帰りなさい」 母さんは笑顔で言うと 「ご飯、ちょっと待ってね。今、渚君と家庭教師の先生にお茶出してくるから」 そう言ってお菓子を置いている。 「今回の先生、続いてるね」 お菓子を見ながら呟くと 「そうなの。渚君、今の先生が大好きって言ってるわよ」 って、母さんが嬉しそうに話す。 「へぇ〜」 興味無く答えると 「凄く色気のある人でね。初めて会った時、ドキドキしちゃったわよ。渚君、そういう意味で好きにならないと良いけど」 楽しそうに話す母さんに、俺の動きが止まる。 「何?家庭教師って女なの?玄関の靴、男物みたいだったけど?」 そう言うと 「男の人よ。でも、なんて言うのかしら…。男女問わず、魅せられちゃうような魅力があるっていうの?凄い綺麗な人よ」 って言うと、楽しそうに階段を登っていく。 (男女問わず、魅せられるねぇ…) ぼんやりと考えて先生を思い出す。 母さんの後ろに続いて階段を登っていると 「お兄ちゃん、悪いけどノックしてドアを開けて頂戴」 両手が塞がっている母さんに言われて (絶対、狙ってたな) そう思いながらドアをノックして、渚の部屋のドアを開けた。 その時、一瞬後ろ姿が目に入る。 (え……?) 思わず視線が止まる。 「お兄ちゃん、ありがとう」 母さんはそう言って、ドアを閉めてしまった。 ドアの向こうで、楽しそうな声が聞こえる。 「じゃあ、お勉強頑張ってね」 母さんの声がして、ドアが再び開く。 「渚君、少し休憩しようか」 聞き覚えのある声。 懐かしい横顔が、笑顔を浮かべて渚と話をしていた。 「お兄ちゃん?何してるの?」 驚いた顔をする母さんに 「あ…ごめん。ぼんやりしてた」 慌てて笑顔を作り、部屋に戻る。 荷物を置いて、ベッドに座って口元を押さえて考える。 他人の空似かもしれない。 会いたすぎて、幻覚を見たのかもしれない。 落ち着かなくて、部屋の中をウロウロしてはベッドに座りを繰り返していると 「じゃあ、次は金曜日」 「相馬先生、そしたらあの約束守ってね」 「分かったよ。本当に、渚君はおねだりうまいよね〜」 「ちゃんと勉強頑張ってるよ!」 「はいはい。分かってるよ」 笑い声が聞こえて、階段を降りる音。 慌てて部屋を出て、階段から下を見下ろした。 靴を履く姿が見えて、その姿は見間違える筈の無い人の姿だった。 「相馬先生、また金曜日ね」 手を振る渚に、先生が笑顔で手を振っている。 足下が真っ暗になったような気持ちになった。 俺は何度も何度も名前を伝えても、覚えてはもらえなかった。それなのに…。 茫然と立ち尽くしていると 「兄貴?何してるの?」 渚が階段に上りながら声を掛けてきた。 ハッと我に返り 「家庭教師の先生、今日だったんだな」 慌てて笑顔を作る。 「うん」 訝しんで答える渚に 「今の先生、どうだ?」 そう聞くと、渚は笑顔を浮かべて 「大好きだよ!」 って答えた。 (ヤメロ…) 「勉強もわかりやすいし、なにより俺の為に色々と考えてくれてるんだ」 (オレノ先生ヲ トルナ…) 「兄貴?」 心配そうに顔を覗き込まれて、自分の黒い感情に怖くなる。 「大丈夫?顔色、悪いよ」 そう言われて 「ごめん。具合悪いから、部屋に戻るわ」 とだけ答えて部屋に戻った。 張り裂けそうな感情に頭を抱える。 俺にはあの日しか向けてくれなかった笑顔を、渚には無条件で向けている。 嫉妬で気が狂いそうだった。 灼熱の鉛を飲み込んだような感情に、俺はどうすることもできずに、もがき苦しむことしか出来なかった。

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