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第40話

そして金曜日がやって来た。 帰宅すると、既に先生の靴が玄関にあった。 階段を上ると、楽しそうな笑い声。 たった一枚のドアが、途方もなく遠くへ先生と俺との距離を隔てているように感じた。 その時だった。 「恋人ですか?」 と、聞いている渚の声が聞こえた。 「え?何で?」 戸惑うような先生の声に 「なんとなく…、嬉しそうだったから…」 と、渚の声が耳に入った。 俺の脳裏に、あのエリート顔した男の顔が浮かぶ。そしてあの日に見た、首筋にいくつも刻まれた紅印。 嫉妬でドアを殴りそうになる感情を押さえていると、中から笑い声の後 「それより、早く返事して上げたら?」 渚の言葉に、俺の我慢の糸が切れた。 渚の部屋のドアを開けて、楽しそうに話している 2人に近付き 「な〜ぎ〜さ〜!」 と言って、大好きな人の身体を抱き締めた。 ふわりと香る甘い香り。 ずっと触れてみたかった、大好きな人の身体。 すると、先生は驚いた顔で俺を見上げた。 その瞳は、あの頃のような黒いガラス玉のような瞳では無く、きちんと人間の生気のある瞳をしていた。ハッと我に返り 「あれ?」 って、驚いたフリをして、先生の身体を離した。 「すみません!あれ?今日って…」 驚いた顔を作ったまま、渚を見ると 「兄貴…今日は家庭教師の日だよ」 呆れた顔で渚が俺を見ていた。 俺は笑顔を浮かべ 「すみません。俺、渚の兄で海(かい)と言います。海と書いてかいと読みます」 そう言って手を差し出した。 すると、先生は笑顔で 「初めまして。渚君の家庭教師をさせて頂いている相馬和哉です」 って、手を差し出した。 やっぱり…俺の事は覚えてないんだ。 ガッカリした気持ちと、もしかして思い出してくれるかも…という期待を込めて先生を見つめて 「あの…何処かで会いませんでしたか?」 と聞いてみた。 すると先生は作り笑顔を浮かべたまま 「いえ、初めて…です」 って、最初は「初めて」と言い掛けて、ハッとした顔で俺を見上げた。 もしかして、思い出してくれたのかもしれない。 期待を込めて見つめていると、先生は笑みを浮かべて俺を見ていた。 『先生、俺です!あの日、あなたに元気をもらった一条海です!』って、叫びそうになったその時 「兄貴、勉強の邪魔!」 って、渚に部屋を追い出されてしまった。 その日の授業が終わり、俺はお見送りする母さんの後ろに立って先生を見送った。 先生は俺とは目を合わせないようにして、逃げるように帰ってしまう。 結局、声を掛けられないまま、俺はガッカリして部屋に戻った。 初めて抱き締めた先生の身体は細くて、驚いたように俺を見つめた瞳は、ちゃんと俺を認識していたようだった。 やっと…先生の瞳に映ったと喜んだのも束の間だった。部屋がノックされ、渚が入って来た。 俺の部屋に来るなんて珍しいと思っていると 「兄貴、先生と会ったことあるんだって?」 渚に言われて、覚えていてくれたんだと嬉しくなって 「そうなんだよ!」 と答えると 「ふ〜ん、それで差別するんだ」 と、渚が覚めた目で俺を見た。 「え?」 言葉の意味が分からなくて聞き返すと 「先生から聞いたよ。先生、ゲイなんだって? で、ラブホから男の人と出て来たのを兄貴に見られたから、クビになるかもって言われたよ」 そう言われて愕然とした。 (そっちなんだ…) 俺の心が沈んで行く。 「俺、兄貴はそういう差別しない人だと思ってたのに…。凄い残念だよ」 そう言われて 「違う!」 と叫ぶ。 すると渚は俺を見て 「もし、先生を泣かせるようなことしたら、許さないから」 そう言い残して部屋を出て行った。 どうしてお前がその言葉を言うんだよ! それは、俺が言いたかった言葉なのに! 何で俺が、言われなくちゃいけないんだよ! 悔しくて涙が止まらなかった。 結局、俺はあの人の瞳には映らない。 このままで居たら、又、俺は忘れ去られてしまう。可愛い家庭教師の生徒のお兄さん。 渚の授業が終わり、もし、又、何処かで出会っても、あの瞳で『誰?』と言われてしまう。 そう考えただけで、頭がおかしくなりそうだった。どうしたらあの人の瞳にうつるんだろう。 どうしたら、あの人の記憶に残るんだろう。 そして出た結論が、あの人の心に残らないなら、一層、憎まれた方がマシだ。 そう考えたんだ。

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