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不公平でもいいじゃない

「おまえはバカだなぁ」  今この状態で言わなくってもいいんじゃないと思いながら香川(かがわ)はすいませんと呟いた。 「ナイフってのは、素手で掴んじゃ駄目だろう。そんなことまで教えてやらなきゃなんないのか?」  だって咄嗟にしたことだしと言いたくなるけれど、香川はそれもぐっと飲み込んだ。 「まあまあ……彼も必死だったんだろうよ」  香川の傷を縫い合わせながら、馴染みの小杉医師が言った。  困ったことがあると、平島はいつも小杉医師に頼み込む。融通の利かない医者が相手だと面倒なことになりかねないからだ。知らない間に警察に通報なんかされたらたまらない。違法すれすれのヤマを踏む後ろ暗い人間の集まりだからなおさらだ。 「それに───もしも彼が手を出してくれていなかったら、脳天にナイフを突き立てられていたのはあんただったかもしれないよ」  そうだそうだ、小杉先生、もっと言ってくれと香川は思う。オレの言うことだと聞かなくても、他人が言うことなら聞くかもしれない。 「ところでそいつのそれはいつ治る?」  小杉の言うこともあまり聞かず、まだ縫っている途中の香川の右手を指差して平島は訊ねた。 「若いからすぐ治るよ。いくらか傷は残るだろうれどどうせ男の身体だ」  所詮はカタギじゃないんだしと続けたかった言葉を小杉はかろうじて飲み込んだ。 「そうだな……後遺症が残ったりしないならいい」 「はい、縫えた。できるだけ傷痕が目立たないように内側から針を入れて縫っておいたからね」 「…はあ……ありがとうございます…」  そんな技術的なことを説明されても香川には分からない。ちらっと平島を見ると、小杉の説明の意味が分かっているのか、うんうんと頷いたりしている。  なんなのこの貧乏クジと思っている僅かの間に、香川の右手は包帯でぐるぐる巻きになっていた。 「明日も来てね、消毒するから」 「…はい」 「安心しな、連れて来てやるから」  背後から平島が言った。それなら安心という顔で、包帯の端を小杉はテープでとめ、その上からさらに白いネットを被せた。  平島が支払いをしている間、香川は小杉からいろいろ注意を受けた。一つ、傷口は濡らさないこと。二つ、無理はしないこと。三つ、夜中に痛くなったら鎮痛剤を飲むこと。四つ、平島の身代わりになったりしないこと。五つ、平島に深入りしないこと。最初の三つは尤もな事だが、後の二つはなぜそんなことを言われるのか香川には分からない。  相変わらずヤー公丸出しのベンツの助手席に香川は乗り込んだ。風呂の無いあのアパートまで平島は送ってくれるらしい。小杉医師に濡らすなと言われたけれど、よく考えたら風呂が無いのだからそんな心配は不要だ。 「その手じゃいろいろ不便だろうから治るまでうちに泊めてやる」  走り出して五分も経った頃、いかにも迷惑そうな声で平島が言った。 「……はぁ……でも別にいいですよ、特に困らないでしょうし」 「風呂はどうするんだ?」 「うちにはもともと風呂は無いですから要らぬ心配っていうか」 「メシは?」 「…出前とか?」 「おまえがケガしたの右手だぞ。左手で食べるのは想像以上に難しいぜ」 「はぁ……」  どうでも良くなって香川は気の無い返事をした。それ以前に、どうして平島がこんなにやる気満々なのか香川には分からない。 「それにおまえ簡単に考えているみたいだが、麻酔が切れたら痛いぞ。ずっくんずっくん疼く。心臓が動いているのが分かるぐらいにな」 「……」 「どうだ、オレの世話になる気になったか?」  そして香川はようやく気づいた。なにがなんでも平島が香川を自分のマンションに連れて行こうとしていることに。 「はぁ……じゃあ、よろしくお願いします」  どうせこんな手じゃなにもできないしと思いながら香川は言った。銭湯にも行けないだろうしプールにも行けないし仕事もできないしメシも食えない。別に恩を着せるつもりは無いけれど、平島を庇って負った傷だ。当の平島が面倒を看てやると言うんだから、遠慮なく世話になってしまおうと香川は思う。  ようやく頷いた香川を見て平島は満足そうにアクセルを踏み込んだ。あっというまに加速する。そして、そのスピードのまま、車は病院から平島のマンションに到着した。 「お邪魔しまーす」  初めて入る平島の家は、まるで専門の家政婦でも雇っているみたいに手入れが行き届き、掃除も完璧で、整理整頓されていた。先に平島だけが入って片付けたわけでもないので、これがいつも通りなのだろう。 「おまえねぇ、さっきは言わなかったが、さんざん汚れてるんだ……風呂が無い家になんか帰せるわけがないだろう」 「汚れてる? なにがです?」 「身体だよ、おまえの」 「…汚れ…てますかね?」 「ああ」  そんなに汚れているならリビングのソファに座るのはマズいんじゃないかと香川が考えていると、平島はあまり気にしていないのか、座れという風にソファを指差した。家主がそう言うならそれでいいかと香川はどさっとソファに座った。その瞬間、香川の全身はびくっと震えた。振動のせいだ。全体重をかけて座るなんて、普段ならどうということもない。でも今は違う。麻酔が切れかけているのか、右の手首から先がズクズク疼いた。  固く目をつむり、無言で悶絶している香川に気づいた平島は、呆れたように苦笑した。 「言わんこっちゃない───無茶をするな。ほんの少しの衝撃でも拷問に等しい苦痛だろうよ」  まるで身に覚えがあるような口調で言った平島を香川は見上げた。  無意識に、誰のせいだと思ってるんだと考える。オレがナイフを掴まなきゃアンタは脳天から割られてただろうよとも。 「取り敢えずコーヒーでも飲むか?」  平島の提案に香川は頷いた。いや、頷いておけば話が早いと思っただけだ。どうしてもコーヒーが欲しかったわけではない。  この不自由な手が治るまでどのぐらいかかるのだろうと香川は思う。傷が治るまで、おそらく水に濡れても大丈夫になるまで、平島の監視下に置かれるんだろうなぁとも。不自由だ。それはあまりに不自由過ぎる。あっというまに治る薬でもあればいいのに───平島青磁の家で平島青磁に監視されているなんて身も心も不自由でならない。  香川はキッチンでコーヒーをいれている平島を見つめて大きく溜め息をついた。  平島は華奢なカップでコーヒーを出してくれた。  香川は左手を伸ばしてカップを取り、そっと顔を近づけた。いい香りだ。おそらくそこそこ高価な豆なのだろう。食べられたらいい、飲むなら水道水でいいという生活だった香川には、平島のような生き方にリアリティを感じられない。平島なら、水道水ではなくミネラルウォーターで、コンビニ弁当ではなく料亭の仕出しだ。 「毒なんか入れてねぇよ」  口を付けない香川に平島が苦笑まじりに言った。 「あ、いえ…そんな心配はしてな…」 「変な薬とかも入れてないから安心しろ」  だからそんなこと考えもしないっていうのに平島は妙なことを言う。自分でカタギだと言うくせに、平島の言うことはスジ紛いだ。いや、もしかすると、スジよりもずっと恐ろしいことを平気で口にしているのかもしれない。なんせ平島は、身の安全を確保された場所で高みの見物を決め込むスジ者なんかとは違って、我が身を危険に晒して自らで勝負を決するタイプだ。代理を使うことはまず無い。賭場で代打ちを使うこともない。  香川はコーヒーを口に含み、ゆっくり飲み込んだ。 「飲んだらまず風呂」 「…はあ」  濡らすなときつく言われたのに、風呂なんか入ってもいいのか。それともシャワーで流すだけなのか。  ふと見ると平島は経済新聞を読んでいる。新聞に書いてあることなんかなんでも知ってる経済通だろうに、一般的な視点も必要ということなのだろうか。それとも、新聞に書いてあるようなことでも宝の山なのか。 「飲んだな、じゃあ脱げ」 「……」 「早く脱げ」 「こ、ここで、ですか?」 「誰も見てない」  アンタがいるだろと思うけれど、香川は心の中で叫ぶだけにしておく。  もともと銭湯やサウナで大衆浴場には慣れているけれど、それはそういう場だから抵抗が無いのであって、人の家のリビングで自分だけが脱げと言われてもはいそうですかと簡単にはいかない。その場にいるのが男でも同じだ。香川はそこまで鈍感ではない。 「早くしろ。洗ってやるって言ってるうちに言うことをきけ」 「……は、い…」  香川は観念し、立ち上がった。右手を下げるとずきずき疼く。心臓より上にするとそんなに疼かないことに本能的に気づき、右腕を曲げた。 「ここ…じゃなくても…───風呂場のところで…いいですか」  そうだ、リビングで脱がなくてもいい。風呂の傍で脱げばいいのだ。 「ったく…なにをグダグダ……まぁいい、早く風呂に行け。ここを出て廊下の真ん中辺りの左手だ」 「はい」  香川はゆっくり歩いた。さっきよりずっと衝撃が響いて辛い。どすどす歩くと傷口に直に響く。どんどん、どんどん───ただでさえ心臓の動きに合わせて血が押し寄せるような疼きがあるのに、この上、歩く衝撃まで加算されたらたまらない。こんなに痛みに弱いタイプではなかった筈なのにと思う。やっぱりナイフなんか素手で掴むものじゃない。  このドアかとあたりをつけて開けると、ただの物入れだった。  次に開けたドアはようやく風呂場らしく、洗面所や洗濯スペースが一緒になっている。もちろん脱衣所も兼ねていて、おそらく一般的なマンションの造りだ。 「脱いだか」  ドアが開くのと同時に声がした。 「まだ…上着のボタンをはずすぐらいしか…」  すると平島は右手に握ったハサミを香川の前に突き出した。 「もうこんな血塗れの服は切っちまえ」 「…はあ…」 「新しいのはオレが買ってやる」 「……はい…」  正直もうどうでもよくなって香川は承諾した。別に服に思い入れはない。誰かにもらったとか、そういう特別なものじゃない。  香川が身構える間もなく、平島はシャツにハサミを入れた。ジャキっと鈍い音がした。狭い洗面所のせいだろうか、或いは聴力が研ぎ澄まされているのか、その音がやけに大きく聞こえた。 「右手」  言われ、香川は右腕を下ろした。  そしてようやく香川は思い当たった。よく考えなくても、こんなに包帯で巻いていたら、ハサミで切ってしまう方が簡単だ。医者だって、血塗れになったシャツはもう廃棄だと考え、ぐるぐる包帯で巻いたのだろう。そんなことなら、治療の前に、肩から袖を切ってくれても良かったのに。  平島はシャツを切り、まるで皮でも剥ぐように香川の上半身を裸にした。もう後は自分でできますよと言いかけた香川のズボンに平島は手を伸ばした。 「そう遠慮するなよ。元々はオレのせいだ、面倒みさせろよ」  いつもより少し小さな声で平島が言うので、なにか悔いているらしいことに香川はようやく気づいた。平島はしまったと思っているのかもしれない。香川は自分のことを「平島青磁」の身辺警護だと考えていたし、他になにができるわけでもない自分を平島が傍に置くのはそれが理由だと思っていた。だから、代わりに傷を負うことも仕事のうちだと納得していた。  でも、平島は違うのだろうか。もしかしたら、身代わりにしてしまったと悔いているのだろうか。  いろいろ考えている間に香川は全裸にされていた。  香川の負傷に対して少なからず責任を感じているにしても、身体を洗ってやるという平島の、親切心なんだか嫌がらせなんだか分からない言動の真意を、香川は全く掴めなかった。汚れているから洗ってやるというのは、単にホコリや汗で汚れているという意味なのか、血がついているということなのか、はたまたその両方なのか、全裸に剥かれ浴室に押し込められてからも分からなかった。  実際、今まで一度だって香川が平島の真意を見抜けたことなんてないのだ。なにを考えているのか全く分からない、なにを求められているのかも分からない。今回のことにしても、身を挺して助けたと思っているのは香川だけで、平島の方は助けられたなんてかけらも感じていないのかもしれない。いや、感じているからこそ、今こういう事態になっているのか。全裸で、風呂に押し込められて───でも、それなら、混乱させないでよと香川は思う。悪いと思っているならそういってくれたらいいのに。そう言ってくれたら、こんなにぐるぐる考え込む必要もないのに。  香川は小さく息を吐いた───たぶん、小杉先生の言う事ももっともなのだろう……改めてそう思う。  曰く───平島の身代わりにならないこと。  曰く───平島に深入りしないこと。  いちいち身代わりになっていたら身体がいくつあっても足りないだろうし、掴み所のない平島に深入りしたところで満足感は得られないのだ。要するに、平島は、香川になにも返さない。香川の要求に応えることはない。それがたとえば、狙われていると分かっているならボディガードを雇ってくれたらいいのにとか、できたら危ないヤマは踏まないで欲しいとか、平島のためを思っての香川の「望み」を知ったところで、当の平島には考慮する気が一切ない。  ああ、でも、オレは……シャワーで身体を流してもらえる心地良さに思考が途切れる。香川は風呂が無いアパートの住人だ。汗を流すだけで快感だなんて、おそらく平島には分からないだろう。  肌にはりついていたホコリはもちろん、汗や飛び散った自分の血液まで洗い流され、香川の頭は思考力を取り戻した。平島の身代わりになるなとか、平島に深入りするなとか、そんな忠告を受けたのはなにも小杉医師に限ったことじゃない。石田にも言われた。あの佐多にまでそう言われた。  それでもオレは───俯くと平島のつむじが見える。  自分が巨体ということは抜きにしても、平島は決して大柄な男ではない。小柄でも華奢でもないけれど、裏社会で恐れられているというには細身だ。豊かな黒髪が若く見せるだけでなく、物騒な気配がどうしようもなく目立たせるけれど、身体だけを考えるとそう恵まれた体格ではない。  平島の周囲の人たちからのありがたい忠告には従っておいた方がいいとさすがの香川も分かっている。そう、分かっているのだ。どんなに平島に尽くしても、平島にとって「駒」は「駒」に過ぎない。香川にとっての平島はたった一人の相手だが、平島にとっての香川が唯一無二の「駒」ではないことは明白だ。ただ「香川」という名前の「駒」で、明日には別の誰かが香川の代わりをしているかもしれない。  それでも、だ。  それでも香川は、たとえ平島青磁の本心が理解できなかったとしても、命まで懸けることをやめられない。  ボディソープを塗った平島の手が、香川の左肩をそっと撫でた。全く構えていなかったせいか両肩がびくっと大きく震えた。 「───っっっつつつ…」 「悪ぃ悪っ……しかしそんなに緊張するなよ、取って食ったりしねぇよ」 「……いえ……右手が…痺れて…」 「身体を動かすからだ」  誰のせいだと思うけれど、平島なりに悪かったと思って体を洗ってくれているのだろうから、喉元まで出かかっていた文句を香川は飲み込んだ。 「…平島さん……もういいです、後は自分で…」 「できるわけねぇだろ」 「ありがたいのは分かってるんですけど……」  すると平島は、香川の背中を撫でていた手をゆっくり離した。 「滅多に無いオレの親切心だ、おとなしく受け取っておけよ」  そろそろ解放してもらいたいという香川のささやかな願いを平島は全く理解しない。理解しないどころか、平島の手はひどく無遠慮で、肩や背中を泡だらけの手で撫で回す。  ───変な気分になるじゃないか。  それも当然だ。目をつむったらそのまんま風俗なのだから。 「…小杉が言っていたことだが───ちゃんと理解したか? 理解できたなら、もうあんなことはするなよ」  さっきまでの少しふざけた声とは全く異質の、ひどく硬い声で平島が言った。 「オレになにかしてやったところで、オレはたいていすぐに忘れる───報われないぞ」  香川の鼻先を平島の豊かな髪がくすぐった。  そんなこと、言葉にして言い含められなくても香川にだって分かっている。それでも香川は思っていたのだ。たとえ立場が違ったとしても、敵に相対した時だけは自分たちは平等だと。背中を預け合って闘う仲間だと。  だから香川は平島の脳天に突き刺さりそうだったナイフを掴んだのだ。あの時、もし二人の状況が入れ代わっていて、香川が刺されそうになっていたとしても、平島が今の自分と同じ行動を取ってくれるだろうと無意識に信じられたからこそ香川は咄嗟にナイフを掴んだ。 「報われないのに命を懸けるな」  そして香川はようやく悟った。香川の心のどこかにある平島に対する一方的な期待に平島自身ちゃんと気づいているのだ。しかも、その期待に応える気がないと宣言までしている。  平島の髪にふっと息を吹きかけ香川はむなしく天を仰いだ。無駄な期待でもいいじゃないか。そのぐらいオレの好きにさせろよ───そう言ってやりたいと思いながら、ただそっと目をつむった。  香川の頭の天辺から足の先まで綺麗に洗い終わった平島は、ひどく満足そうに微笑んだ。残念ながら香川はそれを見ていなかった。  平島は棚からバスローブを取り出し、香川の肩に羽織らせた。ドライヤーを左手に持った平島は、右手で香川の左手を握って歩いた。まるで幼稚園児のようだ。手を引かれて歩くなんて。  平島は香川をリビングのソファに座らせ、濡れた黒髪をタオルで拭いて軽く水分を取った。癖の無い長い髪は黒々としていて艶やかだ。無条件で美しい。平島は長い髪をドライヤーで丁寧に乾かした。普段はろくに手入れもしていないだろうに、全く傷んでいないのが不思議だが、若いからだろうか。だからこんなに美しい髪なのだうか。  香川の髪が乾くと、平島は濡れたタオルを洗濯籠に放り込み、ドライヤーを洗面所の棚に仕舞った。 「メシにしよう、ちょっと待ってろ」 「……はい」 「なにがいい? どんなものが食べたい?」 「リクエストしてもいいんですか?」  今まで明るい顔を見せなかった香川がようやく笑ったので、平島は少し驚きながらも頷いた。 「じゃあ、家でしか食べらんないものがいいです」  言われ、平島は首を傾げた。 「……というと?」  全く見当がつかない。家でしか食べられないというのはどういうものなのか。最近では、家庭料理を出す小料理屋なんかいくらでもある。  なにがいいんだと思いながら、平島は米を炊き、味噌汁を作った。あとは玉子焼きと豚肉のしょうが焼きぐらいだ。香川が来るなんて思っていなかったので、冷蔵庫にはこれといった食材は入っていなかった。いくら料理ができるといっても、平島は一人者だ、真剣に自炊しているわけではない。しかも平島は多忙で、外で済ませることも多い。 「大したものはできなかったぞ」  言って、平島は、ソファの前のテーブルに夕飯を並べた。平島には大したことがないものでも、香川にとってはごちそうなのか、ひどく嬉しそうだ。それもそうだろう、手料理というだけでもごちそうなのに、作ったのがあの平島青磁なのだから。  平島は香川の前に箸とフォークを置いた。左手で箸が無理なら、フォークで刺して食べろという意味だった。 「いただきまーす」  両手を合わせようとしてできず、左手だけでいただきますの形を作って香川は言った。 「どうぞ」  左手で箸を持ち、ご飯を食べようとして、もちろん香川は失敗する。すぐに諦めて箸は置き、フォークに持ちかえてご飯を食べた。不恰好だがどうにか食べられる。玉子焼きもフォークを使うと簡単だった。ところが、しょうが焼きはそう上手くいかなかった。べちゃっという音がして、口に入れる前に皿に落ちてしまう。またべちゃっと音がする。  あんまりそれを繰り返すものだから、平島はたまらなくなって箸を持った。 「……? 青磁さん?」 「おまえはどこまで不器用なんだ」 「すみませ…」  平島は俯き、小さくため息をついた。 「───ほら、香川、口を開けろ」 「……?」 「あーんだ」 「あーん?」 「ほら、あーん」  香川は一瞬だけ考え、すぐに大きく口を開けた。  その口の中に、平島はしょうが焼きと玉子焼きを放り込む。それを香川は何度か噛んですぐに飲み込んだ。 「あーんしろ」 「ありがとうございまーす」  香川はまた大きく口を開けた。こういうことに照れがないらしいことが平島には不思議でならない。  何度か繰り返して食べさせると、残っているのは味噌汁だけになった。合間で具は少し食べさせたけれど、まだ半分ほど残っている。 「自分で食えるか?」 「はい」  味噌汁の具をフォークですくって食べてから、香川は汁を飲み干した。 「美味かったです、ごちそうさまっス」  香川が言うと平島は満足そうに微笑んだ。微笑みながら、こんなこと右手が治るまで毎日するのかよと思う。飯のたびにあーんなんかするのかと。正直やってられない。こんな恥ずかしいことシラフで何度もやれることじゃない。コーヒーをいれながら平島はいろいろ考えてしまう。自分を庇ってくれたのだと分かっているから放り出せないけれど、平島の神経ではこんな恥ずかしいことにそう何度も耐えられない。  平島はテーブルの上にコーヒーを出してやり、香川の右隣に座った。  しばらく二人は無言だった。無言のままコーヒーを飲んだ。 「……青磁さん…すみません…」 「なにを今更」 「オレが…こんな怪我をして…面倒かけてしまって…」  ぼそぼそ香川が言うと平島は小さく首を振った。 「治ったらすぐ出て行きますから」 「……ああ…」  平島は俯き、包帯でぐるぐる巻きになっている香川の右手に自分の手をそっと重ねた。 「…おまえ……こんなことはもうやめてくれ…」 「……すみません…次は怪我しませんから」 「次はって、次もその次もやめてくれ」 「……でも…また同じようなことがあったらオレはたぶんまた同じことやっちゃいます」 「次は怪我ですまないかもしれないんだぞ」  平島は淡々と言った。 「でも……すみません……」 「あやまらなくていいからもう二度とやめてくれ……面倒だから言ってるんじゃない……もうあんな思いは嫌なんだ───おまえの血を見るのは嫌だ」  最後の方は聞き取れないほどの小声だった。血なんか慣れている筈の平島が、血を見るのが嫌だなんて。  香川は俯き、そして今度は天井を睨み付け、また俯いてから、自分の右手の甲に重ねられた平島の手を左手で覆った。 「オレはおまえになにも返せない」 「……青磁さん?」 「おまえが身を挺してオレを庇ってくれても、オレは同じだけのものを返せないんだ」  すると香川は平島の顔を下から覗き込んだ。 「いいじゃないですか」 「……香川…?」 「オレはぜんぜん構わない。不公平でもいいじゃない」 「だからオレはそれが嫌だと…」 「いいんですよ」  香川は自由な左手で平島の手を握りしめた。 ■ E N D ■

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