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起の章【4】

 不景気面に眉間の皺が加わるのを見て、矢嶋は広げた両手を吉見に向けた。 「わかった。ちなみに俺は逆。まぁ仕事が苦痛ってほどじゃないけど、やっぱ断然プライベートのほうが充実してんなぁ」 「あ、そう」  まるで関心のない返事が投げ返される。  女の話も続かない。オフの過ごし方についても完全スルー。  仕事以外の時間は一体何してやがんだコイツ──?  食い終えたレバーの串を串入れに放り込んだとき、ひとつの疑問が湧いた。 「ていうかあんた、プライベートがそんなで、だったら何やって充電してんの?」 「充電?」 「仕事するための活力が何か必要だろ?」 「──」  串を手に数秒考えていた吉見は、最後に残った肉片を咥えておもむろに引き抜いた。それから無言で咀嚼しながら矢嶋に目を寄越し、やがて言った。 「仕事が活力かな」 「はぁ?」 「仕事してる間に充電される」 「電動自転車の回生充電みたいなモンだな」  それにしたって、ここまで酷いワーカホリックは聞いたことがない。  が、そんな野郎の様子も酒が進むにつれていくらかマシになってきたのは、どうやら今が仕事中じゃないっていう現実を忘れられるせいらしい。全く、とんだ仕事中毒だ。  でも、おかげで少なくとも棺桶に片足を突っ込んでるような不景気面じゃなくなったし、気怠くはあってもリラックスした風情で、ごくまれに笑顔すら見せるようになった。  ──コイツでも笑うことがあったんだなぁ。  死人みたいなツラしか知らなかった身にしてみれば、この発見は感慨深い。  重たかった眼差しは酔いのせいで余計に眠たげではあるけれど、表情が弛んだせいか鋭角な輪郭もマイルドに見えてくる。  とはいえ会話のほうは、弾んだと言えるほどでは決してない。なのに何だかんだで焼き鳥屋の閉店を迎えてしまったのは、一体どういうわけなのか。  2人揃ってオーダーする酒が3杯目を迎える頃には、吉見も多少は仕事の話題に触れるようになっていた。が、それでも一定以上の領域には踏み込ませなかったし、かといって同業だという他に共通の話題もない。にもかかわらず盛り上がるでもないその会話が、何故か妙に心地よかった。  普段の付き合いに多い猥雑なタイプの人間たちとは、全く別の何か。おそらく、それが矢嶋をその場に引き留め続けた。  店員にラストオーダーを告げられて時計を確認すると、既に零時半だった。地下鉄の終電は早く、自宅までの電車はとっくに終わっている。ただし、ここから2駅だからタクシーで帰っても大した金額じゃないし、歩いたって40分かそこらだ。  矢嶋は開き直って最後の一杯を注文してから隣に訊いた。 「あんた、家はどこなんだ?」 「清瀬」 「マジか。結構遠いよな? 終電、何時だよ」 「零時44分かな」 「もう12時半回ってんの知ってたか? 今から急いでも絶対間に合わねぇよな」  吉見は、そうか、と小さく呟いた。 「もう日付変わってんのか」 「やっちまったな」 「明日の仕事が近づいてきた……あぁ、もう明日じゃねぇ。今日だ」  その声に心なしか張りが出てきたような気がして、つい横顔をガン見した。どうやって帰るんだ? そう尋ねるつもりだった問いは、芽生えた疑念に押し遣られた。 「まさかあんた、出勤時間が近くなって喜んでんじゃないよな?」 「何が悪ィんだ?」  矢嶋は溜め息を吐いた。病気だ、病気。 「でもさぁ、だったら昼メシんときは何であんなにテンション低いんだよ。午後の仕事がすぐそこに控えてるってのに?」 「午後の仕事が始まったら」  今度は吉見が溜め息を吐き、続けた。 「終業時間が近づく」 「──」 「目の前に仕事が迫ってるのに、同時に終わりもやってくることを考えたらジレンマで憂鬱になる」  病気だ、病気──  そうこうするうち閉店時刻の1時になり、2人は否応なく店を追い出された。  驚いたことに、話題がないと言いつつも都合3時間は腰を据えていたことになる。おかげで髪と言わず服と言わず、煙草やら脂やらの匂いが芯まで染みついたように感じられたが、そういう全てをひっくるめた奇妙な充足感の膜で全身を覆われてる気分だった。  チェーン店にしては酒や肴が旨かったとか、戸外に出たら思いのほか春の気配を孕んだマイルドな気温だったとか、理由は諸々思い当たる。でも、一番の要因を否定するつもりもない。  隣を歩くワーカホリックの前髪を、頼りない風がそろりと撫でていった。  もうすぐ上着がいらなくなるな──どうでもいいことをぼんやり考えたあと、改めて帰る手段を尋ねると、吉見は欠伸を噛み殺しながらあやふやな答えを返した。 「あぁ……漫喫か、ファミレスか24時間営業の呑み屋か」 「タクシーは?」 「今から1万かけて会社から遠ざかる気分じゃない」  ちっとも意味がわからない。

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