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起の章【5】
「じゃあ深夜バスは」
終電を逃した帰宅客のために各バス会社が運行している急行バスで、もちろんタクシーに比べたら断然安い。矢嶋自身は必要ないが、一緒に飲んだ女をソイツで見送ったことが何度かあった。
乗ったことないと吉見が言うから清瀬行きの便をスマホで調べたら、駅を挟んだ反対側にあるバス停から10分後の出発だった。
ただし単純に駅の向こうと言っても、地下鉄を除く鉄道会社3社分の距離を横切る必要がある。超えるべき線路の数は、合計すれば20本に近いはずだ。しかもバス停は駅前のロータリーにあるわけじゃない。
「向こう側だから微妙だけど、まぁ……走ればギリギリ間に合うんじゃねぇか?」
「可能性は低いし、走る気力が湧かない」
果てしなく投げやりなツラで吉見は言った。
「あんた、そのヤル気のなさでよく途中で外に出て焼き鳥屋なんかに寄り道したよな」
「目的は焼き鳥じゃない、あの近くに用事があったから仕方なく駅から出たんだ」
「なるほどな、おかしいと思った」
まぁとにかく、帰宅しないと言うなら好きにすればいい。そう思い、さて自分はどうしようかと考えた。
終電直後のこのタイミングだとタクシーは長蛇の列だ。長距離なら待つ価値はあるだろうが、歩いて帰れる近場でそんな時間をかける意味はない。
つまり帰ろうと思えばいつでも帰れるから慌てる必要はなく、だったらこの男がどうするのかを見届けてからでもいいんじゃないかって気になった。
いざとなれば家に泊めてやれないこともない。ただ、それを申し出る踏ん切りがつかないまま、矢嶋はとりあえず当たり障りのないことを口にしていた。
「朝までやってる呑み屋なら、この先に何軒かあったような気がするけど」
「いや、シャワーくらい浴びてぇから漫喫かな……着替えは会社にあるけど風呂はない」
その言葉について数秒考えた。
「着替えって、まさか会社に一式まるまる置いてあるとか?」
「まさか置いてねぇの?」
マジで? と互いに言い合った。
それから会社に風呂が欲しいって要望について大真面目に議論しつつ、見つけた一軒目の漫喫は惜しくも満室。
再び歩き出しながら、この時間だからどこも空いてねぇかもなぁ、と吉見が眠たげな目でボヤく。
その横顔を眺めて、ウチに来るか? というセリフがいよいよノドまでせり上がったとき、差し掛かったホテルの前で吉見が足を止めた。健全な宿泊施設じゃない。主に時間制で愛を営むためのホテルだ。
「風呂に入れるし、朝までベッドで寝られるな」
そんな呟きが聞こえた。
確かにそりゃそうだし、満室の表示は点灯してないから空きはあるようだけど、それにしたって。
「マジで言ってんの? ここ、どういうホテルだかわかってんだよな?」
「それがわからないほど酔ってない」
「1人で入るつもりか?」
「一緒に来るなら別に止めねぇけど、あんたは帰るんだろ?」
「──」
不意に迷いが生じた。
このワーカホリックとラブホに泊まる──?
それも面白いと考えてしまったのは、おそらく大半がアルコールのせいか。
そういえば吉見の帰宅先だけ聞いて、矢嶋自身のことは話していない。だから帰るのが難しいと答えてしまえば疑いはしないだろう。
「いや……まぁ、タクシーもなかなか捕まんねぇしな」
言ってみたら案の定、気のない相槌だけが返った。
さっさと入口に向かう吉見を追い、矢嶋も肚を括って足を踏み入れた。
幸いフロントに顔を出さずに済むシステムだったから、おかげで窓口のオバチャンに好奇の目を向けられたりもせず、野郎2人連れは部屋に直行することができた。
残り3室の中から選んだ一番シンプルな部屋は、侘びしげな絵画の額縁が1枚おざなりに飾られただけの、極めて殺風景な内装だった。これが女と一緒なら一気に興醒めするところだが、今夜に限ってはこのほうが有り難い。
「しかし男2人には狭いな」
矢嶋の呟きにはしかし、意外な答えが返った。
「女と2人でも息が詰まる」
「あんたでも来ることあんのか? こういうとこ」
「この手のホテルはない」
「あのさぁ、素朴な疑問で訊くんだけど、じゃあ少なくとも童貞ではないってことだよな?」
「30越えてるヤツに訊くことか? それ」
何を言い出すんだとばかりに吉見は眉を顰めたが、矢嶋にしてみればその反応のほうが予想外だった。
「だってあんた、いつやるんだよ。元気なのは仕事中だけなんだろ?」
あぁでも、童貞を捨てたのが社会に出る前なら関係ないのか? そう思い、待てよ、じゃあ学生の頃は何やってるときが元気だったんだ? そんな疑問が湧いたとき、吉見の声に思考を遮られた。
「だから仕事中にやってる」
「は? 何を?」
「セックスの話じゃなかったのか」
「だったけど……え? 仕事中って?」
「たまにだけどな」
脱いだ上着をベッドに放って素っ気なくそう言った吉見は、矢嶋が見ている前でネクタイを解いてシャツも脱ぎ、ベルトを外して下も脱ぎ、あっという間にパンイチになって全てを几帳面にクロゼットの中にブラ下げた。
こちらの目を気にする素振りもない一連の動きを無言で見守りながら、矢嶋は胸の裡で確信した。
間違いない。この男は決定的に何かが欠けてる。
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