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第8話
一月近く経って、ギブスもかなり薄く小さくはなってきた。が、それでもレントゲンを見る限りでは無理はできない.....という。以前の俺だったら、こんな骨折くらい、多少早いと言われようが走ってた。だが、こいつの身体は筋力が無さすぎて、もろに負担がかかる。
骨がきちんと着いたら、筋トレは必須だ。
食事は以前の俺に比べたら、かなり少量だが身体も違うし、動けないのだからエネルギー量はそんなにいらない......ということなのだろう。運ばれてくるそれは、病人食にしては贅沢な素材だと思う。味付けも美味い。
松葉杖で少しも歩けるようになると、リハビリ代わりに執事に付き添われてダイニングまで歩き、ヤツのディナーに付き合わされることもしばしばだった。
分厚い絨毯は松葉杖の先が沈んで歩きづらいのだが、床は大理石でかえって先端が滑って転びそうになる。金持ちの家というのは実に不便だ。
いわゆる別荘というだけあって、それなりに小ぢんまりした造りではあるらしいが、松葉杖をついて歩くには廊下が長すぎる。
並べてある調度品はシックで成金の嫌みな感じはない。が、シノワズリの置物などがさりげなく飾られているのが、俺にとってはなんとも癪にさわった。
ダイニングもあまり広くはなく、八人くらいが囲む内輪の食事会用の感じだ。マホガニーの分厚い一枚板のテーブルも彫りの入った椅子も重厚感たっぷりで、松葉杖を抱えた片手ではびくともしない。執事が気をきかせて引いてくれた椅子に座ると尻が沈む。深い緑を基調としたインテリアは窓越しの中庭と一体感があり、あたかも庭の中にいるような錯覚を起こす。
「緊張しなくてもいい。食事をするだけだ」
ヤツは食前酒のシャンパンのグラスを軽くかざして、俺に余裕の笑みを見せる。
給仕の仕草にもそつがなく、ヤツが食事を口に運ぶさまも実に優雅で如何にも品が良い。ヤツの裏の顔を知らない連中から見れば、立派な実業家以外の何者でも無い。
食事も子羊のローストやら鱒のスフレやらお上品なメニューばかりが日々羅列される。
「口に合わないか?生憎、日本食を作れるシェフがいなくてな...」
「別に...。慣れていないだけだ」
ナイフとフォークを手に手の込んだ料理と格闘している俺に、ミハイルが苦笑しながら言った。
日本食なんかじゃない。俺が食いたいのは香港の屋台の飲茶だ。老酒をあおりながら火鍋をつつきたい、蛯ワンタンを肴に青島ビールをラッパ飲みしたい。
食事をしながら、ミハイルが他愛の無い話題を口にする。
「居心地はどうだ。慣れてきたか?」
「悪くはないが、慣れない」
俺は、ほんの少しのワインで顔を赤くしながら答える。未成年のこの身体は酒には全く慣れていないらしい。真面目なのか下戸なのかはわからない。
「なぜ?」
ヤツが僅かに眉根を寄せた。俺はワインをくいっと干した。
「ここは静かすぎる.....」
俺の香港のねぐらはミッドタウンのオフィスのひと部屋だった。オヤジが死んでからアパートを引き払い、仕事場で寝起きしていた。不夜城の喧騒を眺めながら、バーボンを嗜むのが息抜きだった。
だが、ここにはそんなものは何も無い。聞こえるのは小鳥の囀りと葉擦れの音。それだって分厚い防弾ガラスの窓を閉めれば一切聞こえない。
「静謐は人間には必要なものだよ、パピィ。落ち着いて物事を見て考えるには、雑音は無いほうがいい」
ヤツは子供でも諭すように言う。確かにこの身体は世間知らずのガキのものだ。いきなり大人の社会の裏側を見せつけられたら死にたくもなるだろう。だが、俺は世の中の裏側を見て生きてきた。大概のことは承知している。
ーそれでも......ー
外界から、社会から完全に隔絶された世界で俺の耳に聞こえるのは、シーツの擦れる音とヤツが耳許で囁く揶揄、それにこの身体から、喉から漏れる淫らな喘ぎ.....俺は気が狂いそうに孤独だった。
「すぐに慣れる。君は賢い子だろう?」
俺は黙って唇を噛みしめた。一刻も早く歩けるようになって、ここを出なければいけない。香港の雑踏に紛れて『自分』を取り戻さねばいけない。でなければきっと狂ってしまう。
俺の内心の焦燥を見透かすように、グラス越しのヤツの唇がニヤリと笑った。
「食事を済ませたら、レッスンだ。パピィ。君の可愛い鳴き声を聞きたくなった」
悪魔の微笑みが、俺を呑み込もうとしていた。
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