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第4話 門出

剣で身の立つ幸運を 素直に取れない心根よ 所詮野良犬一所 住まうことなどできぬのか 剣で身を立てるという国十郎の彼岸は達成されようとしていた しかし、国十郎はそれを素直に受け取れなかった  雲井道場はいつもの熱気が嘘のように静まり返っていた。居並ぶ高弟達はかたずを飲んで道場を真ん中の試合を見つめている。  神棚と紅月斎を背にした見るからに高価そうな防具を付けた男は、息も絶え絶えという風だ。一方、相対する国十郎は防具を付けておらず、汗一つかいていない。  防具の男は叫び声を上げながら国十郎に打ち込んだが、剣筋は乱れ、足取りもどこかふらついている。疲れ切っているのは明白だった。 「甘い!」  国十郎は意地悪く笑うとこともなげに体をかわし、つんのめった男の籠手を打った。籠手の守りのない部分を狙ってである。痛みのあまり男は竹刀を取り落とし、その場に這いつくばった。「若、苦し紛れで打つは一番の下策。これが戦場なら、もう六十九度も若は討たれております」  若と呼ばれた男は、痛みに震えながら国十郎を睨みつけた。そうして立ち向かっては痛めつけられる。もう一刻(約二時間)もその繰り返しであった。 「この浪人め!」  若と呼ばれた男は激高して立ち上がりざま今度は突いて出た。しかし、国十郎はこともなげにかわすと、逆に若の喉元を渾身の力で突いた。若はもんどりうって倒れた。 「これは異な?殺すか殺されるかの戦場で身分は関係ありますまい。三日とはいえ天下人となった明智光秀公が、落ち武者狩りの百姓に討たれたことを若が知らぬとは思えませぬが」  見守っていた高弟達のうち、百姓や町人の数人が思わず顔をそむけて笑いをこらえた。紅月斎の仕える藩の国家老の嫡男である松嶋金之助は、顔は怒っていても心中泣きたい気分であった。いずれ五百石の家老となるはずの自分が得体のしれない浪人に手も足も出ない。それは生涯味わったことのない屈辱であった、 「これならどうだ!」  金之助は国十郎の足を取り、組討ちに持ち込もうとした。高弟たちの表情が呆れから同情に変わったのに気付く余裕はもはや金之助にはなかった。  国十郎はわざと応じて倒れ込んだかと思うと、たちまち右腕を絡め取って極めた。激痛に金之助は悲鳴を上げた。 「若、大方そこらの郭の女郎とばかり稽古をしておったのでしょう?戦は最期は組討ち。怠ってはなりませぬぞ」  国十郎はわざと右腕を離すと、金之助の次の手を読んでは極め、また離して極め、いつまでもいたぶり続けた。金之助は剣より組討ちに自信を持っているという話を紅月斎から事前に聞いていた。 「これで七十度目」  そう言って国十郎は防具越しに器用に金之助の首を絞め、そのまま絞め落とした。慌ててお付きの若侍三人が駆け寄り、金之助の防具を脱がせて介抱した。 「見事!」  紅月斎は相変わらずにこにこしながら、自分の前に平伏した国十郎を褒め称えた。いつもより紅月斎が嬉しそうだと気づいたのは、弦一郎と小夜だけであった。 「死ね!」  次の瞬間、若侍の介抱で気の付いた金之助が若侍の制止を振り切り、最期の力を振り絞ってあろうことか国十郎の脇腹に噛み付いた。 「七十一度!」  国十郎は全く動じず傍らの竹刀を取ると、金之助の頭を強かに打った。金之助は気を失い、その場で力なく崩れ落ちた。 「まったく、禄を貰うと人は阿呆になるのですかな」  稽古から引き上げ、国十郎は小夜から傷の手当を受けた。生傷だらけの国十郎の身体に、新しく右脇腹に噛み傷が出来ていた。 「国十郎様、御政道を悪く言ってはなりません」 「しかし、刺し子の道着の上から噛み付くなど、阿呆のやることですよ」 「あら、どうして?」 「無理に引き剥がせば、歯が抜けてしまいますな」 「まあ、怖い」  国十郎に包帯を巻きながら、小夜は嫌な顔をした。国十郎はきっと本当に歯を抜けさせたことがあるのだろうと小夜は思った。 「あれをいずれはご家老様と奉らねばいかんとは、弦一郎も気の毒に」 「俺もそう思う。それより国十郎、父上がお呼びだ」  弦一郎にそう言われて紅月斎の部屋へ国十郎が向かうと、紅月斎は文机で何やら書き物をしていた。 「先生、国十郎でございます」 「うぬ、今日の稽古はご苦労であった。ご家老様のたっての願いとはいえ、おぬしには苦労をかけた」  紅月斎は向き直り、国十郎に頭を垂れた。「あれで若様も少しは心を入れ替えるじゃろう」  金之助は国元では手の付けようのない暴れ者で、将来を案じた家老が懇意の紅月斎に頼み込んで雲井道場へ預けられたのだった。全ては金之助の父の頼みなので、国十郎も手加減無用で金之助を痛めつけた。「そこで国十郎、おぬしは今日より雲井新流免許皆伝じゃ。免状を授ける」  書き物は国十郎の免状であった。国十郎は思わず平伏した。 「恐れながら先生、私は雲井道場の世話になってわずか三年。第一免状を貰おうにも金がありませぬ(注1)」 「金のことなら儂が用立てよう。それに三年とはいえおぬしは既に門弟に代稽古を付ける身。皆伝に値する腕は既にある」 「しかし、先生にそこまで手間をかけさせるわけには…」 「そこじゃよ国十郎」  紅月斎は手を打った。「我が雲井道場も手狭になってきたことじゃし、道場を分けようと思っておった。本所石原町の我が藩の下屋敷(注2)近く空いた道場がある。家主が承知をし次第そこをおぬしに任せようと思う」 「そんな!」  国十郎はあまりのことにわけが分からなくなってしまった。そういうことならもっと適任の高弟は沢山いるように思われた。「先生、何故私なのです?」 「お主は町人の弟子からうけが良いし、本所なら顔も効くじゃろう。それに、小夜の事じゃ」 「小夜さんですか?」 「お主に惚れておる。小夜を娶るなら免状も道場も結納代わりじゃ。悪い話ではあるまい?」  なるほど、言われてみれば思い当たる節はあった。しかし、あまりの事で即断は出来ず、話は離れの四畳半に持ち帰った。  布団の上で酒を飲みながらぼんやり考えた。これは虫が良すぎる話だ。半ばヤケになって暮らしていた三年前には、武家の女房を貰って道場主の先生になるなど考えても見なかった。小夜なら女房としては申し分ないし、名高い雲井新流の道場なら門弟も集まるだろう。  しかし、こうして道場で暮らしていても、時々きままな浪人暮らしが懐かしく思われる事があった。喧嘩と道場破りに明け暮れて酒色に耽る日々も、道場主の先生になってしまえばままならない。 「国十郎」  そうこうしていると弦一郎が訪ねてきた。「道場の話、聞いたぞ」 「先生も口が軽いな」  国十郎は苦笑した。紅月斎が外堀を埋めようとしているようにしか思われなかった。 「受けるのか?」 「まだ分からん」 「願ってもない話じゃないか。剣で身を立てられるんだぞ」 「あれは本当に俺なんかに惚れているのか?」 「俺を鈍い鈍いと馬鹿にするが、お前も人の事は言えんな」 「武家の女はよく分からん」  国十郎は徳利に口を付けて一気に中身を飲み干した。 「まあ、あれを女房にすると面倒だろうな」 「俺たちの仲を知ったら、薙刀を振り回して暴れるぞ」  まるで茶碗に飯をよそうように自然に、二人は着物を脱いで行為に及んだ。もはやそれは生活の一部であった。「俺がこの話を受けてしまったら、こんな風にはいかなくなるぞ」 「そ、それは…」 「どうした?怖気ついたか?」  国十郎は弦一郎の肉棒を握った。どこか元気がない。「そんな肝っ玉で家督を継げるのか?」  いつもの皮肉を言いながら国十郎は弦一郎の中に押し入り、乱暴に肉棒をこすり上げた。源一郎の肉棒はたちまちいつもの元気を取り戻し、国十郎を締め付けた。道場も小夜も手に入るこの話は願ってもないことだったが、それでもここまで仕込んだ弦一郎を手放すのは惜しかった。 「国十郎、今日は激しい…」 「小夜さんも夜はこうなのかと思ってな」  そういった瞬間、弦一郎は思わず精を吐き出し、布団と国十郎の手を汚した。 「先生がこんな姿を見たら泣くぞ」 「お前が俺をこんな風にしたんじゃないか…」  そういいつつ興奮を煽られた国十郎は一層激しく貪った。いつまでたってもこの手の趣向に騙される弦一郎が愛おしかった。  翌日から金之助は若侍と一緒に姿を消した。父の金を持ち出して吉原に入り浸っているという話が藩士から伝わってきたが、紅月斎は捨て置いた。  金之助が消えてから三日目、紅月斎は国十郎と子供たちを連れて本所石原町の件の道場を訪れた。藩の下屋敷から道一本挟んで奥に入ったところで、少し古びてはいるが、夫婦二人で門弟を分けてもらって切り盛りするには手ごろなこじんまりとした道場であった。 「なんだ、武政の旦那じゃないですか」  家主が一行の後から訪れて、国十郎を見て驚いた。国十郎と顔見知りの「尾張屋」という菓子問屋の大旦那であった。 「家主というのは大旦那か」 「うちの菓子を丁稚に盗ませては方々へ押し売りしていた暴れ者が、今では立派になってしまって」  尾張屋は感慨深そうにして目に涙を浮かべた。 「大旦那、ここでその話はないだろう」  国十郎は紅月斎達の手前、過去の悪行を知られたくなかった。 「武士は食わねど高楊枝とは言うが、腹が減っては戦ができぬとも言いますからな」  呆れ顔の子供たちをしり目に、紅月斎は相変わらずにこにこと笑っていた。「そういう苦労を知っているからこそ道場を任せるのじゃ。そして小夜もな」  紅月斎の思いがけない言葉に、小夜は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。 「成程、変われば変わるものですな。よし、そういうことなら喜んでこの道場はお貸ししましょう。その代わり、婚礼の菓子はうちに任せて下さいよ」  紅月斎の笑いがどこか意味ありげなのに気づき、国十郎はやられたと思った。こうなれば外堀を埋めるどころか、本丸に火をつけられたも同じである。 「なあ国十郎、お家繁栄も武士の本分じゃ。そろそろ年貢を納めよ」  紅月斎の一言に、国十郎は心の臓をつかみ取られたような思いであった。  火の回りは恐ろしく速かった。次の日には雲井道場の門弟と尾張屋の奉公人が総出で道場を掃除し、事前に用意しておいたとしか思えない頃合いで続々と嫁入り道具や婚礼の装束が届き、次の大安には婚礼という運びになってしまった。 「えらいことになった」  婚礼を明日に控え、すっかり道場開きの用意と新居の体裁の整った「武政道場」の神棚の前で、国十郎は頭を抱えた。後ろを金屏風を抱えた門弟たちが通り過ぎていく。もはや後戻りはできない。 「国十郎様は、私を娶るのがお嫌ですか?」  小夜が不安そうに言った。三年前に道場破りに来た時の汚い物を見るような顔はどこへやら、国十郎を見る顔はすっかり女の表情であった。 「道場など私の手に負えますかな」 「国十郎様らしくもない。さっき尾張屋の手代が松七さんが言っていましたよ。国十郎様は武家なのに商人の才があるから、南蛮で道場を開いてもやっていけると」 「松七の奴!」 「それに、夫婦で助け合えば何だって出来ますわ」  小夜は美しく、賢くて万事に行き届く申し分のない女であったが、国十郎は小夜のこういうところが苦手であった。やがて尻に敷かれそうな気がしてならなかった。  一方、弦一郎は雲井道場で紅月斎にある話を持ち掛けようとしていた。 「父上、国十郎の件ですが…」 「うん、万事滞りなく進んでおる」  書見台で本を読みながら、弦一郎の方へ向き直ろうともしなかった。 「そうではなく、国十郎は急な話で困っております」 「武士なればこのくらいの事で動じるようではいかん」 「しかし、免許皆伝の祝いもまだしておりません」 「ふぬ、それもそうか」  紅月斎は本を閉じると、手文庫から袱紗包みを取り出した。「五十両ある。これで高弟と一緒に今夜大盤振る舞いをして披露をしてやれ」 「ありがとうございます」  弦一郎は平伏して金を受け取り、懐へ納めた。 「今夜中に目いっぱい油を抜いてやれ。それとな、弦一郎」 「はい?」 「いつまでも若衆(注3)ではおれんものじゃ」  紅月斎は何もかもお見通しだったのだ。弦一郎は顔を真っ赤にしながら部屋を後にした。  その夜、国十郎達は日本橋の料理屋に繰り込んで、免許皆伝の披露という名目で芸者幇間を大勢揚げて大騒ぎをした。明日からはもうこんな騒ぎはできなくなるのだ。  国十郎も最初は都都逸など歌ってご機嫌だったのだが、だんだんと湿っぽくなり、門弟達は一人減り、二人減り、最後は弦一郎と国十郎が招いた櫓岩だけになった。 「兄ぃ、新しい門出じゃねえか。そんなしけた顔しちゃいけねえよ」  櫓岩は国十郎の口利きで紅月斎の藩の抱え(注4)になり、二人とも出世ができたとこの婚礼を誰よりも喜んでいた。しかし、兄弟分の声は国十郎の耳には入らなかった。 「俺は、一人の女に縛られて暮らすのは嫌だ」  酒を飲みながら、国十郎はしみじみと呟いた。たとえ相手が小夜であっても、女房子を背負う苦しみは国十郎には耐え難いもののように思われた。 「関取の言う通りだ。お前らしくもないぞ」  弦一郎も口ではそう言うが、もはや国十郎と今まで通りの仲で居られない事は身を切られるような思いであった。 「ちょっと一人にしてくれ。馴染みの女に暇乞いをしてくる」  そう言って不意に国十郎は立ち上がり、二人を振り切って外へ出た。 「馴染みの女って?」 「心当たりが多すぎて、誰の事だか…」  残された二人は顔を見合わせた。だが、国十郎を止める気にはなれなかった。  もう暦の上では冬は終わりだというのに、外には雪が降っていた。国十郎は深川のある芸者の元へと足を急がせた。永代橋を渡り、深川仲町がもうすぐというところで、異変に気付いた。 「誰だ?」  誰かが国十郎の後をつけていて、道端に立て掛けた材木の陰に隠れているようだった。しかし、返事はない。「土州浪人武政国十郎と知っての事か?」  その声を合図に路地に隠れたもう一人が刀を手に後ろから国十郎に音もなく襲い掛かった。しかし、国十郎は見透かしたように男の脇腹を目一杯蹴りつけた。  男が悶絶してその場に倒れ伏すが早いか、頭巾で顔を隠した五人の男が国十郎を取り囲み、一斉に刀を抜いた。 「大川に浮かんでもらうぞ」  男の一人が言った。 「お前、篠塚だな?」  国十郎は声の主に覚えがあった。雲井道場の門弟で、大身旗本の三男坊の篠塚信太夫であった。腕は道場でも上の方だが、この男は素行が悪かった。「さては若様、いや馬鹿様にそそのかされたな」 「お前のような山犬浪人が何故出世をさせてもらえるのだ」 「囲まねば勝てないと思うくらい強いからだろう」  国十郎は脇差を抜いた。五人ともきっと同じように国十郎の出世を妬んだ門弟達だろう。強敵は囲めというのは雲井新流の兵法の伝えるところであり、国十郎の喧嘩の経験からも理に適っていた。「そんな性根では先生が免許をくれぬのも道理だ」  言い終わるが早いか、国十郎は脇差を篠塚に投げつけた。脇差は篠塚の右肩に突き刺さり、篠塚は悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。  刀は武士の魂である。投げつけるなど常識では考えられない。国十郎の常識を超えた奇襲に男達は一瞬呆気にとられ、その隙に国十郎は刀を抜きながら篠塚の脇を走って路地へと逃げ込んだ。  男達は追いかける。しかし、国十郎は界隈の路地を熟知していた。途中で六尺ほどの物干し竿らしき竹竿を取ると、わざと袋小路に入り、刀で竹竿の先を切り落として竹槍を作り、刀を地面に突き立てて男たちを待ち受けた。  国十郎が袋小路に入ったのは路地にまだ敵が隠れていることを警戒したからだった。果たして予想通り、男たちは八人に増えて国十郎の待ち受ける袋小路に辿り着いた。 「こうなったからには血を見ないと収まらんな」  国十郎は竹槍を手に男達を睨みつけた。狭い路地では人数が多くても一人二人しか出ていけない。しかも、国十郎は刀よりずっと長い槍を持っている。国十郎の腕を知っている男達は誰も出ていけない。「ここで俺がお前達を皆殺しにするのは易いが、先生の顔に泥を塗ることになるのがわからんか」  国十郎に一喝されると、男達は怖気ついて逃げ出した。道場が欲しいとは思わなかったが、紅月斎があの連中を選ばず自分を選んだのは当然だと苦笑しながら、国十郎は竹槍を捨て、地面に突き立てた刀を手に大通りへと戻った。  薄情なもので篠塚は捨て置かれ、深々と突き刺さった脇差を抜くこともできずに呻いていた。 「当分剣は使えんが、死にはせん」  国十郎は篠塚に馬乗りになり、脇差を乱暴に引き抜くと、篠塚の髷をつかんで脇差を鼻の下に当てた。「お前達が勝手にやったことか?それとも馬鹿様の差し金か?」 「くそ、殺せ…」  息も絶え絶えに篠塚は格好を付けたことを言った。 「殺しはせん。だが、吐かぬなら鼻を削ぐ。次は耳、その次は目、恐れながらと訴え出たら、お上や先生はどちらの肩を持つかな?」  脇差の冷たい感触と血の臭いが鼻に広がると篠塚はたちまち音を上げた。 「若様の指図だ!やめてくれ!」 「馬鹿様はどこだ?」 「石原町だ!小夜さんを狙ってる!」 「あの犬畜生め!」  国十郎は篠塚の鼻の下を脇差の柄で叩き潰すと、上顎を砕かれて声にならない声を上げる篠塚をしり目に駆け出した。石原町まで十町(約1キロ)ある。  その頃小夜は何も知らずに石原町の道場で床に就いていた。尾張屋が女中を一人出してくれていたが、それも帰してしまって一人きりである。  明日から国十郎と夫婦になる。そう思うとまんじりともできなかった。いかに武芸に秀でていても、しょせん自分は女なのだなと小夜は考えながら、天井の染みを数えていた。  そうしていると、誰かが部屋に続く廊下を歩いてくる音が聞こえた。 「国十郎様?」  小夜は少しときめいた。国十郎がせっかちなのは心得ていた。しかし、部屋の襖を開けたのは刀を手にした金之助であった。 「一目見た時からこうしたいと思っておった」  金之助は小夜が取ろうとした枕元の短刀を蹴り飛ばすと、そのまま小夜の口を塞いで刀を鼻先に突き付けながらのしかかった。「声を出したら殺すぞ」  金之助は狂気がかった目をしていた。こうなれば仕方ないと、小夜は舌を噛み切って死ぬ覚悟をした。しかしその時、息も絶え絶えに国十郎が廊下を草履のまま駆けて来るのを見た。  向き直った金之助の右腕を、国十郎は一刀のもとに切り落とした。刀と右腕が布団の上に落ち、その上を金之助の血が降り注いた。 「無事ですか」  国十郎は痛みのあまり気を失った金之助を蹴り倒し、小夜を布団から引きずり出した。 「…お見事」  小夜が気を確かに持って居られたのはそう言い終わるまでであった。国十郎に力の限り抱き着くと、雲井紅月斎の娘という鎧を脱ぎ捨てて一人の女に戻り、わっと泣き出した。 「とにかく尾張屋へ行きましょう。身を隠さないと」  尾張屋へ駆け込んで事情を説明すると、尾張屋の大旦那は国十郎に高跳びのための路銀として百両の金を用立ててくれた。  尾張屋が仕立てた駕籠で雲井道場へ向かうと、既に知らせを聞いて弦一郎が二人分の旅支度を整えて待っていた。 「事が事だけにご家老様も藩も表沙汰にはせんじゃろう。人の噂も七十五日、上方で一年もほとぼりを覚ませば帰ってこれる」  この期に及んでも紅月斎はにこにこと笑いながら、弦一郎と二人で上方へ修行に行くという名目の通行手形を用意してくれた。 「兄ぃ、達者でな。大阪の場所には遊びに来てくれよ」  櫓岩は涙で顔をくしゃくしゃにしながら、愛用の煙草入れと方々の贔屓筋から借りた借金の証文を国十郎にくれた。にわかには信じがたいことだが、これを持って行けばどこの贔屓筋も歓待してくれるということだった。 「国十郎様、無事に戻ってきてくださいますね」  小夜は母が死んだときにも見せなかった涙で国十郎にすがり、お守りにと自分の簪を手渡した。 「俺達は山賊に殺されるようなやわな稽古をしちゃいないでしょう」  国十郎は簪を懐に入れ、精一杯平静を装いながら弦一郎と一緒に道場を出た。もう夜明けまで間がなかった。 「国十郎、えらいことになったな」  江戸の町を駆け足で逃げ出し、東海道を飲まず食わずで十二里(約48キロ)も走り、日も沈んでから藤沢宿の旅籠に投宿して夕食を食べ終わり、酒を飲みながら弦一郎はそう言った。 「嬉しそうだな」  国十郎は布団の上に置いた小夜の簪を睨みながら櫓岩のくれた煙管に煙草を詰め、火をつけた。煙の向こう側の弦一郎の顔は、笑顔を隠しきれていなかった。 「とにかく名古屋まで行こう。親戚筋の道場がある。そこで修行だ」 「他にやることもないしな」  国十郎は煙管の灰を煙草盆に落とすと、簪を枕元の手文庫に納めた。「いや、そうでもないか」 「というと?」 「ガキの頃、香具師の親分に聞いたことを思い出した」 「香具師か」 「喧嘩相手の親分を切った後、その親分は何をしたと思う?」 「さあ?」 「たまらなく女を抱きたくなってな。千住の岡場所へ行って馴染みの女と一晩過ごしてから逃げたそうだ」  国十郎はいたずらっぽく笑うと、弦一郎をそのまま布団の上へ押し倒した。 「そうこなくちゃな」 「旅は長いんだ。腰が抜けるまでやってやるからな」  国十郎の肉棒は今までにないほど固く、大きくなっていた。弦一郎は今夜は寝れそうもないと期待に股間を熱くした。 「弦一郎!弦一郎!」  狂ったようになりながら国十郎は弦一郎を責め立てた。弦一郎はもはや答えることもままならず、行灯の明かりの中で身悶えしながら快楽の泥沼へと沈んでいくのだった。 注釈 注1:免状と祝い事 剣術に限らず当時の習い事は免状を貰うと師匠や同輩に礼金や記念品を送ってお祝いをせねばならず、金がかかった 注2:下屋敷 各藩は江戸屋敷を持っていたが、大きな藩は上屋敷、中屋敷、下屋敷と複数の江戸屋敷を持った 注3:若衆 武士同士の男色、つまり衆道における受けのこと 注4:抱え力士 当時の有力な力士は各藩の大名のお抱えとして禄を貰い、士分に取り立てられた。大名の個人的な道楽や、藩の特産品の宣伝、身辺警護の役目を負わせるなどの目的があった

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