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プロローグ

 棋院を辞めるだけで、こんなに沢山の文章を読まなければならないのか……。  人工生命体ですら人権を得ている時代。なのに、なんでこんなにもアナログなやりかたを? アンドロイドの“はな(ろく)”は、分厚い紙の束を前に辟易していた。 (データでくれよ、こんなの)  これが強くなれなかったことへのお仕置きか。だが、はな六にも言い分がある。そもそも自分のボディがこんなにスペック低く出来ていると予め知らされていれば、アンドロイド囲碁ワールドチャンピオンシップになんぞ興味すら持たなかったはずだ。碁をはじめてみたいキッズや老人達に遊びながら基礎中の基礎を教えるだけの、自分のスペックに見合った人生に甘んじていたはず。 「あ、全部は読まなくてもいいですよ。重要な項目はこちらにまとまっておりますので」  正面に座っている事務員は、紙束を脇に避けると、一枚のA4用紙をはな六の前にスッと押しやった。項目一つ一つの先頭に、正方形のボックスがある。その中央には薄い灰色でレ点が描かれていた。 「では私がこれから読み上げますので、同意されましたら“はい”と仰ってくださいね。ご質問がありましたらご遠慮なくどうぞ」 「あ、はい」 「それでは読み上げます。第一項……」  事務員がすらすらと読み上げていく。その都度はな六は「はい」と答えていき、事務員はボールペンでボックスにレ点を打っていった。滞りなく一番下の項目に到達し、全てのボックスがレ点で埋まったものの、はな六が密かに抱えていた疑問に触れた項目は一つもなかった。 「以上です。何かご質問は?」  言うわりに、事務員の顔には「無いですよね?」と書いてあるようだ。はな六の目には高性能の表情判別機能がついているので、ただの人間の心情を読むのはお手のものだ。 (こやつ、修行が足らんな、事務員の癖に。)  はな六はツンと細長くて先端の丸っこい鼻先を、少し上にあげた。侮蔑を顕にしたというのに、事務員はのほほんとした笑顔を崩さない。ポーカーフェイスなのではなく、本当に馬鹿にされたことに気付いていないのだ。 「あの、一ついいですか?」 「はい、何でしょうか」 「私の名前、この“はな六”ですが、これは棋院に返上しなくてもよいのでしょうか。今後も名乗り続けても?」  棋士を辞めるにあたって、このボディもこれまで(はく)に溜め込んでいた全ての自分の棋譜(きふ)ごと、アンドロイド棋院ジャパン支部に返上しなければならないのだ。彼の名前「はな六」は囲碁用語である花六(はなろく)、すなわち「六目中手(ろくもくなかで)」から取られている。碁に関するものは全て棋院に返さなければならないのであれば、この名も奪われるのではないかとはな六は考えた。しかし、 「はい」  事務員はにこやかに言った。 「お名前は、今まで通りお使いいただいて結構ですよ。はな六様の個体識別情報は全てマイナンバーで管理されておりますので。人間同様、アンドロイドの皆様も、普段お使いのお名前というのは、あくまで通称、愛称ですので」  そうなのか。今の事務員は「そんな当たり前の事を聞きやがって」という顔をしている。囲碁以外のことには疎いはな六は知らなかったが、どうやら常識のようである。そう言われてみれば、あらゆる書類にはマイナンバーを記入する欄がある。 「なるほど、わかりました」  はな六の顔や声には喜怒哀楽を表現する機能が乏しいので、事務員にははな六はただの聞き分けのいいマスコットにしか見えていないことだろう。  ともかく、引退するにあたっての注意事項は全て履修した。もはや棋院に用はない。 「ありがとうございました」  はな六はIDカードをテーブルに置くと、両手を太腿にあて、対局の前後にするときのように深々と一礼をした。そして、はな六には高すぎる椅子からストンと降り、椅子を戻し、書類の入った紙袋を抱え、踵を返した。 「どうぞお気を付けて」  事務員の声を背にしながら、狭くて殺風景な部屋を出た。  はな六が廊下を進むとコロリンコロリンと足音が響いた。この煩わしい音ともじきにおさらばだ。  よくよく考えてみれば、自分の魂はともかくとしてボディは小者に出来ているというのは、この赤ん坊をあやす為のガラガラみたいなふざけた足音、そして毛の無いクマともタヌキともつかないぽんぽこりんな容姿が存分に表現していたではないか。 「お疲れ様でした」  裏口脇の守衛室から声がかかる。確かに疲れたかもしれない。はな六はビルの合間から覗く、抜けるように高い秋の空を見上げた。両手を伸びる限りびよーんと伸ばし、だらりと垂らした。片手につき二本、計四本の指先がタイル張りのステップに着いた。  はな六は書類の入った紙袋を頭に乗せた。予定通り、アンドロイド棋院ジャパン支部指定の工場に向かう。もう既に新しいボディが入荷していて、はな六を待っているはずだ。

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