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第2章 はな六の独立宣言③

「噂をすれば出てきた」  どこからともなく、にくまんと同じくらいの大きさの黒猫がのっそりと歩いてきて、ソファから少し離れたところにちょこんと腰を下ろした。 「あれが“あんまん”。あんまんはにくまんより警戒心が強い。二匹とも、あまり人に馴れないんだ。誰に似たのか、人見知りで」 (それは飼い主(ジュンソ)に似たんだろうな)  幼い頃はとても無口で人見知りで、いつもクマともタヌキともつかないぽんぽこりんの小さなはな六の後ろを着いて歩いていたジュンソ。彼がこうして他人を家に呼んで普通に喋っていることが、あの頃を知るはな六には奇跡のように思える。 (そろそろ取りかからないとな)  はな六はローテーブルに置いたタイマーにちらりと目をやった。店に入室の連絡を入れてから早十分。シャワーに十分くらいかけて、それから帰る準備に十分欲しいから、プレイ時間は正味三十分しかない。 (かなりキツいなぁ) 「気になる?」 「えっ」 「それ」  ジュンソはグラスを持ったまま、人差し指の先でテーブルを差した。タイマーの向こうに碁盤が出しっぱなしになっている。碁盤はクリスタル製で、碁石はハート型の赤と薄いピンクの二種類。宝石みたいに輝いていた。変わり種の囲碁セットは、モノトーンで統一された部屋の雰囲気にそぐわない妙な存在感を醸しているものの、案外真面目に役目を果たしている。石達はひとつの対局の中盤くらいまでを再現していた。 「知り合いの忘れ物。宅急便で送ろうかって聞いたら、“もう飽きたから不燃ゴミに出しといて”だってさ。俺だってこういうのは要らないから、欲しいならあげるよ」  はな六は首を横に振るのも忘れて盤上をじっと見詰めた。 (ジュンソの対局なのかな)  盤上の石達は切り合い複雑に絡み合っている。はな六にはその手の意味が何ひとつ理解出来なかった。形勢判断、どちらがおよそ何目勝っているか……そんな事すら今のはな六には分からない。今のはな六には棋士をしていたという思い出だけが遺され、碁に関する知識は何一つ残っていない。  ふと我に返って顔を上げると、ジュンソははな六の顔をじっと見詰めていた。はな六にとっては見覚えのある表情だ。眉をひそめて、何かもの言いたげな顔で。幼い頃のジュンソはこの顔をすると、はな六が彼の気持ちを言い当てるまで、何も喋らなかったものだ。 「んー」  はな六が言いあぐねている間に、ジュンソはふっと眦をさげて微笑んだ。 「碁が好きなんだね。この間も、本屋さんで碁の雑誌、熱心に読んでいた」  はな六は首を横に振った。 「いいえ。囲碁のことはわかりません。やったことないので。ただ、本に載ってたハンさんの写真がかっこよかったので、つい見とれていました」  何とか言い繕ったが、誤魔化せたのかどうか。ジュンソの表情から彼が何を考えているのか今一つわからない。 (まさかおれが“あのはな六”だってバレたのか)  いや、そんなことはないはずだ。このセクサロイドのボディとクマともタヌキともつかないぽんぽこりんでは大違い。誰が“あのはな六”と“六花”を同一人物と見抜けるだろう。 「そうか」  ジュンソは手を伸ばし、はな六の頬に触れた。にくまんがはな六の膝から飛び降りてどこかへ逃げて行ってしまう。はな六はジュンソに視線を戻した。色素の少し薄い瞳でじっと見下ろされると、圧倒的に強い上手(うわて)と対峙したときのような居心地の悪さで、はな六は思わず少し後ずさった。 (だけど、相手が攻めようとしてくる時はチャンスだ)  先手を取らなければ。行為を始めるには丁度いいタイミングだ。  物言いたげに開いた唇に、はな六は唇を押し当て舌を滑り込ませた。ちゅ、ちゅと数回角度を変えてキスをする。両腕を伸ばしてジュンソの首の後ろに絡め、ソファーの座面に背中を下ろしていく。  身体が大きくなって、地位名声を得たって、やっぱりジュンソはジュンソで、欲しいものを相手が与えてくれるのをじっと受け身に待つスタイルは相変わらずだ。  ベッドルームに場所を移し、はな六は胡座をかいているジュンソに跨がった。少し上からジュンソを見下ろし、指の腹でジュンソの唇にふれる。 「はい、あーんして」  ジュンソが素直に口を開けたので、はな六は彼の口腔内に舌を差し入れて、とろとろと唾液を注いだ。ジュンソは赤ん坊のようにちゅっちゅと舌を鳴らしながらそれを余すことなく飲み干していく。  ゆっくり腰を沈めて腹の中に彼を受け入れた。腰を巧みに使い、内壁の傷んでいる箇所に彼のものが当たらないように気を配りつつ、感じている演技。下の口でぎゅっと締めつけながら、上の唇はあくまで優しく、吐息交りにとろけるような口付けを与える。 「はぁ、中、きつっ……六花……」  腰を上下に動かし、彼のものをしごく。 「気持ちいい、もっと」  ジュンソははな六を掻き抱く手に力を込め、押さえつける。肩に爪が食い込む痛みと腹の中の奥深くまで犯される痛みに、はな六は顔をしかめた。  いくつも重ねられた枕の上に、ジュンソを仰向けに押し倒し、はな六が上位になって腰を動かす。膝に負担がかかってが痛いが、せつなげに眉根を寄せるジュンソを見下ろすのは気分がいい。客やサイトウなどが上からはな六と繋がりたがるのも、こんな気分になれるからだろうか。 「うぅ」  ジュンソが小さく唸った。 「んー、ごめん、痛かった?」  ジュンソはむずかる子供のように首を横に振る。 「まだ出したくない、もっと、していたい」  そんなことを目に涙を滲ませて言われると、腹の底がなんだかムズムズしてしまうし、頬がぽかぽかしてくる。ジュンソがはな六に甘えてくるなんていつぶりだろう。はな六はジュンソの後ろ首に腕を回し、口付けた。  はな六の方がジュンソよりも七つ年下なので、本来ならはな六の方がジュンソを敬わなければならないところ、碁を始めたのははな六の方が先だからということで、子供時代ははな六が先輩としてジュンソをリードしていた。同門の兄弟子と、弟弟子。  二十年前、『はな六こども囲碁教室』の開講から数週間遅れでジュンソが入門してきた頃には、はな六はもう入段試験を受けるための特別稽古を師匠からつけて貰っていた。教室で子供達にまじって講義を受けていたのも、自分の勉強のためというよりは、いずれ講師になってこの教室を一人で切り盛りしていくために、子供達と関わる経験を積もうとしていたからだった。  一人だけ遅れて入って来てまごついている新参者に、教室の片隅ではな六が基礎中の基礎を教えた。そのせいかジュンソは生まれたてのヒヨコのようにはな六のあとを着いて回った。  やがてジュンソははな六の師匠の道場にも着いて来るようになり、師匠のもと、二人で額を突き合わせて勉強をするようになった。……と、当時はな六は思っていたが、実はジュンソは師匠から碁の才能を見出だされて、正式に師匠の門下生になっていたのだった。そしてあれよあれよという間に、ジュンソははな六のレベルなんか一足飛びに飛び越えて、師匠の口利きで韓国の名門道場に入るべく、海の向こうへと行ってしまったのだった。残されたはな六の悔しさたるや。しばらくの間、充電しても電気が臍を通らない思いで過ごした。  それが思いもよらない形で、ジュンソははな六のもとに舞い戻って来た。いくら才気溢れたハン・ジュンソとはいえ、今や色事の天才となったはな六に、この分野で追い付くことは不可能。この分野においてはジュンソは永遠の後輩だ。  などと調子に乗っていたら、携帯端末が震えに震えてついにナイトボードから転げ落ちた。同時に、寝室のドアがカチャリと遠慮がちな音を立てて開いた。開けたのはなんと、にくまんだ。にくまんはゆったりとした足取りでベッドの側まで来ると、床に行儀よく座り「ニャー」と鳴いた。まるでもう帰る時間ですよと教えてくれているみたいだった。リビングに置き忘れたタイマーが、とうとう疲れ果てたように鳴り止んだ。 「そうだね、そろそろ帰らなくっちゃ」  シーツの間から抜け出そうとしたところ、背後から腰をぎゅっと締めつけられた。 「こら、めっだよ! 猫ちゃんが見てる前でっ。おれもう帰らなきゃだし」  はな六がたしなめると、ジュンソはまたも頑是ない幼児のように首を振った。 「嫌だ。もっと側にいて。追加料金なら払うから」  はな六はため息をつき、くしゃくしゃに乱れたジュンソの髪に手櫛を通し、整えた。 「ダメだよ。次の予約がもう入ってるもん」  普段なら次の客の存在を仄めかしたりなどしないのだが、あまりにもジュンソがしつこいので、優しく諭すように言った。 「じゃあさ、また予約してくれるならお泊まりコースで予約して? そしたら何時間でも、ジュンソの気が済むまでいてあげられるから」 「本当?」 「うん、約束だよ」  はな六が右手を差し出すと、ジュンソも右手を差し出した。小指を絡め合い、 「約束」  そのまま親指を相手の親指に押し当てる。 「ハンコ」  手を開いて、掌を擦り合わせながら離れて、 「コピー」  中指の先と先が離れても、ジュンソの手は名残惜しそうに差し伸べられたままだった。 「六花、最後にもう一度、ハグだけ……」  はな六はジュンソの要求に応え、彼を腕の中に抱き締めた。 「温かい……心臓の音、落ち着く」  ジュンソはぼそりと呟き、はな六の胸に鼻梁を擦り付けた。普通の人間より体温の低いはな六を“温かい”など。だが実際、そんなはな六の体温の方がジュンソのベッドよりは温かい。ここの寝具は全て新品同様で、手触りよく洗いたての良い匂いがするが、ひんやりと冷たい。いくらよく暖房が効いた部屋だって、こんな寒々しいベッドに独り寝をしたら、アンドロイドのはな六ですら具合が悪くなりそうだ。  心臓の音だって、はな六のなんかオモチャのようなもの。別にそこまで有り難がられるほどのものではない。

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