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第3章 はな六のふぜんなクリスマス⑧

 布団を苦労して部屋の隅に押しやり、これまた苦労して折り畳み式テーブルを部屋の中心に据える。 (やっぱり、手をちゃんと治療しないと。これじゃ不便過ぎる)  はな六は手袋に覆われた自分の両手をしげしげと見詰めた。  テーブルに、先日ジュンソから貰った囲碁セットを出す。小さな6路盤の右隣に、碁笥(ごけ)を二つとも置いた。碁笥の蓋は、碁笥の向こう側へ、内側を上向きにして置く。 「えへへ」  はな六は両手を擦り合わせて笑った。そして、自分で古本屋に行って買ってきた『ピカリンとまなぶ! 囲碁のきほん』を左手に持ち、右手で黒石を摘まんだ。どうせ、指先が不自由で正しい石の持ち方を出来ないからと、手袋ははめたままだ。  ことり、ことり、と、教科書の棋譜(きふ)の通りに、黒と白を交互に並べていく。小さな碁盤で、しかも入門者用の簡単な棋譜なので、すぐに終局まで並べ終わってしまう。整地をし、指で()を一つ一つ数えて、教科書通り、黒の勝ちを確認すると、それだけで鼻奥がジンとし、涙が出そうになった。 (すごい、おれはまた囲碁をやっているんだ……!)  壁に掛けられた時計を見上げると、まだ昼前だった。ほんの二三ヶ月前、なのに遠い昔のことのようだが、まだクマともタヌキともつかないぽんぽこりんなアンドロイドでプロ棋士だった頃のはな六は、この時間はやはり棋譜並べをするのが日課だった。 (やっぱり、おれはこうでないと)  サイトウの家に居候を始めてからは、昼は何もする事がないので、寝ているか、ただひたすらボーッとしているか、携帯端末で見付けた動画を観ながら“ふぜん”を為しているかだった。それに比べて、棋譜並べをして暮らす午前の、なんと生産的なことだろう。 (いやまて)  はな六ははたと気付いた。 (もう、棋士は辞めたんだから、いくら碁の勉強しても、収入には繋がらないわけで……)  はな六はぐしゃりと盤上の石の並びを崩した。 (生産的、というなら、今のおれにはふぜんしてる方が、よっぽど生産的なのかなぁ。おれが沢山ふぜんして“エチエチ”を高めると、お客さんは喜ぶんだよねー) (でもやっぱり、碁はたのしいな……)  はな六は、同じ棋譜をまた並べ始めた。  しばらくそうして遊んでいると、サイトウの荒いが軽快な足音がドスドスと階段を上がってきた。 「おー、何でぇ。珍しいじゃん、(わり)ぃコトせずにおとなしく座ってるなんてよ」  はな六は頬を膨らませて、サイトウの方を振り返った。 「なんか悪い?」 「ケケケ、オメェの場合、悪ぃコトしてる方が普通で健全、だろ? 真面目に碁なんか打ってる方が、むしろ不健全だ」  サイトウは押入の襖を開けて、はな六の布団を上の段に仕舞った。 「どうもありがと」  はな六の礼に、サイトウはいつものカエル笑いで応え、はな六の側まで来て、どっかりと腰を下ろした。 「そろそろ、お飾りが淋しいって泣き出す頃じゃねぇのかい、はな六ちゃん?」  サイトウははな六の肩に腕を回し、引き寄せ、唇にチュッと口付けた。はな六はサイトウの胸を両手で押し退けた。 「なんだよ、素直じゃねぇな」 「そうじゃないよ。ただ、渡したいものがあるだけ」  はな六はサイトウの腕から抜け出し、部屋の隅に置いておいたデイパックから、小さな紙袋を取り出した。はな六はサイトウの前に正座し、紙袋を差し出した。 「これ、クリスマスだから、どーぞ」 「なんだよぉ、オメェはこんなこと、しねぇでもいいのに」  と言いながらも、サイトウは紙袋を受け取り、すぐに開けて中身を取り出した。 「お、おぉ。ハンドクリームか。気が利くじゃんよ、はな六ぅ」  クリームの丸くて平たい缶をサイトウは眺め、それから蓋を開け、黒い指先で掌に掬い、両手を擦り合わせてよく塗り広げた。 「サイトウの指、荒れてて痛そうだったから」 「おう。昔は寒かろうが何触ろうが、ヒビ割れなんか出来なかったのになぁ。歳ぃ食ったってことだよな。ありがとうな、はな六。これで手先がスベスベになりゃ、オメェもケツの穴ほじくられる時、もっと気持ちいいってことだな、ゲヘヘ」 「そういうことじゃないんだけど」  はな六は顔をしかめたが、 「サイトウ、サイトウもおれにクリスマスプレゼント、ありがとうね。ふかふかで暖かいよ」  と、手袋をはめた手をサイトウに見せた。 「いいってことよ。もう一つの黒い奴は、お出掛けする時に使いな」 「うん」 「さて……」  サイトウはぐいっとはな六ににじり寄り、そしてはな六を畳に押し倒した。 「お昼休憩だァ。飯の前に、そろそろオメェのお飾りちゃんを慰めてやらないと、淋しいって泣いちゃうからなぁ、ゲヘヘへへ」 「えーっ、ちょっと! 全っ然平気だから! 棋譜並べしてれば、ふぜんなんかしなくたって、全っっっ然、平気だから!」  ところがサイトウに唇を貪られたあと、ズボンから引き出されたはな六の“お飾り”は、やはりびしょびしょに濡れていて、擦り上げるサイトウの手の中でぐちょぐちょと卑猥な音を立てた。 「ねぇ、サイトウ……」  はな六は荒い吐息の合間に言った。 「あ?」  サイトウは下着の中に柔らかくなった性器を納め、腰まで下ろしていたツナギを着てジッパーを引き上げた。 「午後はちょっと、マサユキの所へ行って来るね」  見る間に、サイトウの淀みきった毒沼のような目が、益々闇を深めていく。 「オメェ、今日も仕事、休みなんじゃなかったんきゃ」  はな六は胸の上まで捲り上がっていた服を下ろし、上体を捻ってうつ伏せになってから、畳に肘をついて、ゆっくりと起き上がった。あまり腹に力が入ると、中に注がれた精液が出てきてしまう。 「うん、休みだよ。でもマサユキが、なんか用があるから、ちょっと出て来てくれって」 「ほーん」  チクリと心臓が痛み、はな六は胸を押さえた。 (おれは、何も悪いこと、やってない。やろうとしてない。呼び出したのはマサユキだし、だからって、マサユキとなんかしようだなんて……思ってない)  はな六は、ドブのような目付きで無表情にはな六を見下ろすサイトウをじっと見詰めた。 (でも今日は、貰った手袋ぶん、一緒にいなきゃダメなのかな……?)  サイトウは艶消しの真っ黒黒な目付きのまま、はな六の頭に手を伸ばした。  はな六は思わず目をギュッと閉じた。と、サイトウの手がわしわしとはな六の髪を掻き回した。 「へっ、別にいいけどよ」  目を開けると、サイトウは片頬を歪めて笑っていた。 「浮気してくんなよ。あ、マサユキにメールしとくか、『はな六に手を出すな』ってな。ケケケ」 「そんなことしなくても、マサユキはおれがダメって言えば勝手に手を出したりしてこないよ」 「ケケケ、つまりはオメェの薄弱な意思次第ってことだ。お飾りがキュンキュン泣いたからって、マサユキに『お願いやってぇ~』なんて言うなよ」  サイトウがはな六の口真似をしながらクネクネと身を捩ってみせたので、はな六は頬を膨らませた。 「言わないよ、そんなこと! 今日はマサユキと勝手にしてこないもん、本当だもん!」 「どーだかなぁ。しかも“今日は”っちゃ何だよ。明日ならやんのかよ。あーやっぱ心配になって来たわ。お飾りちゃんが暴走しねぇように、もういっちょ搾っとくかな。クケケケケケケ」 「やだ! もうやらない!」  はな六は寝室から逃げ出して、トイレに駆け込み鍵を閉めた。廊下の向こうからサイトウの爆笑が聞こえていた。  マサユキの事務所に続く坂道を、はな六は大きな紙袋を左腕に提げ、両手をコートのポケットに突っ込んで歩いた。サイトウに貰った外出用の手袋は、今は着けてはいけないような気がして家に置いてきた。平日の昼間、行き交う人々の歩調は忙しないが、はな六は両手を仕舞った状態で転ばないように、いつも以上に慎重な足取りで、よたりよたりと歩いた。  築百年は経っているのではないかという、ぼろぼろのマンションの八階。エレベーターから事務所のドアまで、ほんの少しの道程を、はな六は心臓をドキドキさせて進んだ。ドアの前に着くと、はぁ、と大きな深呼吸をし、ベルを鳴らした。 「やぁ、六花ちゃん、ご苦労様です。早かったですねぇ」  出迎えたマサユキの顔を見ると、はな六の胸はほんわりと暖まった。さっきまで緊張していたのが嘘のように、身体じゅうの関節が少し弛んだ。  炬燵に足を入れて待っていたはな六の前に、マサユキは白湯の入った湯飲みを置いた。 「毎年、クリスマスは開店休業なのですよ。サイトの出勤表では皆シフト通りに出勤していると見せかけて、お客さんから電話があると、『申し訳ございません、今は誰も空いてないんです』と言って、お断りしてしまいます」  そう言って、マサユキはずずっとお茶を啜った。はな六も白湯をちびちびと飲みながら、マサユキの話に耳を傾けた。 「実際、この二日間はあんまり電話がかかって来ないんですよね。何故かっていうと、ホテルの予約が難しいからです。自宅に呼びたいお客さんはまあ、関係ないのかもしれませんが。でも、こんな夜に恋人でもない子を自宅に上げるのは、プライドが許さないんでしょうねぇ。そんな訳で、お店を真面目に開けてたってほとんどお客はつきません」 「うん」 「そんな時でも、有難いことにお電話をかけてきてくれるお客もいるのです。そんなお客さんから六花ちゃんに、これを」

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